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女神の愛したうさぎ

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 ベッドに横たわり滾々こんこんと眠るリヒトの頬は、白い。

 ユリウスはてのひらでそっと触れ、冷えた肌を撫でた。
 ユリウスの背後ではエミールが頭を下げている。

「申し訳ありませんでした、殿下」

 兄のつがいに改まった口調で謝罪され、ユリウスは苦く眉を寄せる。

「エミール殿のせいではありません。頭を上げてください」
「しかし」
「今日はリヒトにつきあってくれて、ありがとうございました」
「ユーリ様への贈り物を、一生懸命探されていたのに……まさかこんなことになるなんて」

 語尾を掠れさせたエミールの顔色もまた、白かった。

 平民出身とはいえ、彼は若い頃からクラウスの庇護下に入っている。荒事になど慣れていないエミールにしてみれば、リヒトが襲われる場面はさぞショッキングであっただろう。

 リヒトは座っていたソファから体が浮くほどの力で、胸倉を掴まれたと報告を受けている。かわいそうに。怖い思いをさせてしまった。

 ユリウスは布団から覗くリヒトの、乱れたレースの襟元を指先で整えた。今日はエミールに会うから、正装に近い服装だ。このままでは寝苦しいだろうから、後で着替えさせてあげなければ。

「ここから先は、僕の仕事です。エミール殿はお引き取りを」
「リヒトが起きるまで、待っていてはいけませんか?」
「それは……構いませんが」

 エミールの問いにユリウスは目を細め、苦い笑いを浮かべた。

「僕のオメガはとてもお寝坊さんなので、いつ目覚めるかわかりませんよ。過去には二年間も眠りっぱなしでしたしね。ねぇ、僕のオメガ」

 言葉の最後はリヒトへと向けて、ついでに目元にキスをひとつ落とす。

 リヒトのまぶたはピクリとも動かない。
 この子の眠りはいつも深いな、とユリウスは思った。

 もう起きないのではないかという恐怖が、ほんの僅かに頭をもたげる。
 しかしそれを抑え込み、ユリウスは無理やりに微笑を作ってエミールを見た。

「リヒトが起きたらエミール殿に連絡を入れます。それでいかがでしょう」
「……わかりました。絶対に連絡をください」
「はい」

 ユリウスが約束すると、エミールはようやく表情をゆるめ、一礼をして退室していった。ユリウスはテオバルドへ顎をしゃくり、エミールを送る手配をするよう指示する。
 テオバルドはユリウスの命令を執事に伝えに、素早く動き出した。
 それを見送ってからユリウスは、もう一度リヒトの頬を撫でると、きびすを返した。

「ついてこい」

 室内に控えていたロンバードへ声をかけ、眠るリヒトを残して部屋を出る。
 向かう先は地下室だ。そこに、例の商人を捕らえている。

 ロンバードが地下通路へ続く隠し扉を開いた。
 石の階段にはランタンが並び、足元を照らしてくれている。ユリウスは早足に階段を降りてゆき、ロンバードが後に続く。二人分の靴音が壁に反響した。

 この地下通路は有事の際の避難場所としてしつらえられたものであり、いつくかの部屋が並んでいる。通路自体はその先も長く伸びており、途中で二つに分かれる。片方は、城門内へ続く道。もう片方は町へと抜ける道だ。
 次兄率いる騎士団のおかげで現在は平和な世が続いているため、こういった隠し通路は飾りと化しているが、いざというときに使えるように、手入れはきちんとされていた。

 ユリウスはひとつの部屋の前で足を止めた。
 ロンバードが扉を開き先に入る。
 ユリウスは巨躯の男の背中越しに、室内の様子を伺った。

 窓はないが照明設備は整っているため、部屋の中は明るい。
 タンスやらベッドやらひと通りの家具は、壁際に固められており、部屋の中央には椅子が置かれていた。

 その椅子に、黒衣の男が縛り付けられている。

 口には猿轡さるぐつわが巻かれており、目隠しもされた状態だった。

 ユリウスが軽く顎を動かすと、心得たロンバードが男の目隠しを外した。

 男は数度、目をしばたかせ、やがてその黒い双眸をユリウスとロンバードに向けた。

 男の表情はしずかだった。そのしずけさが、不気味ですらあった。
 ユリウスは再び顎を動かした。ロンバードが男の猿轡をほどいた。

「妙な真似はするなよ」

 男の耳元で低く、ロンバードが囁く。
 手も足も胴体も縄で椅子に拘束されている男が、暴れられるはずもない。ロンバードの言う『妙な真似』とは、自害のことだ。相手はデァモント教の狂信者。どういう行動に出るか予測が難しい。

 ユリウスは小さく吐息し、冷えた眼差しを男に据えた。

「何者だ。名乗れ」

 男が上目遣いにユリウスを見つめ、頭だけを動かして礼を寄越した。

「ゲルトと申します。ただの商人にございます」
「ただの商人?」
「さようにございます」
「それは妙だ。国交を断絶しているはずのデァモントが、商売人の真似事などするはずがない」

 ユリウスは唇に薄く笑みをき、男を睥睨へいげいした。
 ゲルト、と名乗る男は眉間にしわを作り、首を傾げた。

「さて、デァモントとは」

 白々しい猿芝居だ。
 ユリウスはゲルトを観察しながら、さてこの男は教団幹部に近しい者かと考えた。

 はらの探り合いは嫌いじゃないが、ことはリヒトに深く関わっている。ちんたらしていてさらなる危険がリヒトの身に降りかかることだけは避けなければならない。

 ユリウスは早速カードを切ってみることにした。

「ゲルト、貴様はデァモントを知らないと?」
「存じ上げません」
「まったく妙なことばかりを言う男だ。、デァモントを知らないとは」
 
 ユリウスの発した言葉に、ゲルトは顕著な反応を見せた。
 黒い目を見開き、唖然と口を開けている。

「……いま、なんと」

 喘ぐように、男が切れ切れに問いかけてきた。
 ユリウスはこれみよがしな吐息を零し、ゲルトへ、ではなくその脇に立つロンバードへと声を掛けた。

「僕の見込み違いだったようだ。ハーゼの名を知らぬような末端では話にならないな。その男は僕のオメガに手を掛けた罪で極刑だ。そう言って刑吏けいりへ引き渡しておけ」
「承知」
「まったく無駄足だったな。まぁハーゼを知る者など都合よく現れるはずがないか。ハーゼはそれほど」

「なぜあなたがその名を知っているっ!」

 ユリウスの声に男の怒声が被さってきた。
 ゲルトが肩で息をしながら、ぎらりと光る目でユリウスを睨みつけ、叫んだ。

「異教徒がっ! その名を軽々しく口にするなっ」
「誰に向かって口を利いてるんだ」

 猛る男へ向かい、ロンバードが低く威嚇する。ゲルトの首元には、ナイフが押し当てられていた。さすがの早業だ。
 刃を向けられたゲルト自身、それがおのれの皮膚に当たって初めて、ロンバードがナイフを抜いたことに気づいたようだ。
 ひっ、と小さく息を飲み、身をのけぞらせようとした拍子に椅子の足がガタンと鳴った。

 ユリウスは怯えを見せた男へと、ゆっくりと告げる。

「デァモントからの亡命者は、我が国では客人として扱われている。しかし貴様は只の不法入国者であり、私のオメガを傷つけた罪人だ。罪人に礼は必要ない。そして私は、罪人が対等に口を利けるような、安い身分ではない」

 ユリウスの声はしずかだった。
 声量は囁きに近く、恫喝のような激しさは皆無であった。

 しかし迫力は凄まじい。

 アルファの威圧だ、とロンバードは悟った。おのれのオメガを傷つけられたことに対するアルファの怒りは、常人には度し難いほどである。
 ロンバードが騎士団の鍛錬で鋼の心身を手に入れていなければ、みっともなく腰を抜かしていただろう。

 それほどにユリウスの威圧は重く苦しかった。

 まともにそれを浴びせられたゲルトは、魚のように口を開閉させて、なんとか息を吸おうとしている。

「殿下。ユリウス殿下。気絶しちまいますよ」

 ロンバードが小声でいさめると、ユリウスが肩からフッと力を抜いた。
 部屋の空気から重さが消える。途端にゲルトがはぁっ、はぁっ、と全身を痙攣させるようにして呼吸をした。

「ゲルト」

 ユリウスが息を乱している男の名を呼ぶ。
 その声はまだひやりと尖っており、首元のナイフは彼の皮膚を僅かも傷つけていないのに、ゲルトはビクっと肩を跳ねさせた。

「貴様が私のオメガにした仕打ちの理由を、述べてみろ」
「い、意味がわからな……」
「胸倉を掴んで、暴言を吐いただろう。なんと言ったんだ」
「…………」
「ハーゼが生きていることの、なにが問題だ」
「呼ぶなっ! ……い、異教徒のあなたが、その名を口にしないでください」
「貴様が私の問いに答えないのに、私が貴様の言い分を聞く道理がない」

 ユリウスが薄く笑ってそう言うと、ゲルトが諦めたように目を伏せ、項垂れた。

 長い沈黙が落ちた。
 そしてようやく、ポツリ、と男が口にした。

「あの方は……死ななければならないのです」



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