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本編
第三十話 月の翳りを取り払って②
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湯浴みをしようと服を脱いだアリーチェは、思わず叫び声を上げそうになっていた。
肌を隠すドレスを身に纏っていたから気づかなかったが、蔦のようなものは足首に巻き付くかのように成長し、腕の方も肘を越えた場所にまで先端が伸びていた。
毒々しい華の文様は、大きな胸元の一つを中心に、肩口や二の腕、腹部や内股にまで咲いており、あちこちに小さな蕾すら芽吹いている。その胸元の大輪に関して言えば、まるで今にもアリーチェの心臓を食らい尽くさんばかりの禍々しさを放っていて。
胸元に呪いの文様が浮かんで以来、肌を見られたくなくて一人で湯浴みをする生活が続いていたが、こんなものを侍女が目にした日には卒倒してしまってもおかしくはないだろう。
現に、呪いの文様を見慣れたアリーチェでさえ、身体を洗っている間はずっと手の震えが止まらずにいた。
――怖くて、怖くて。
一歩一歩着実に、死の足音が近づいてきているようで。
ひやり、と。
死神の鎌が喉に突き付けられるような感覚に、温かいはずの湯が冷水のように感じていた。
――『貴女を死なせないことだけはお約束します』
ふと頭の中に浮かんだ無感動な低い声。
それだけが、アリーチェの全て。
――不安で、恐ろしくて。
それでも、クロムのことだけは信じられるから。
だから。
「……ねぇ、クロム」
真っ青な顔で部屋の扉を叩いたアリーチェを、クロムはなにも言わずに招き入れてくれた。
「はい」
ソファに腰かけたクロムの前。アリーチェは震える指先で、けれど迷うことなく夜着のボタンを外していく。
「!? アリーチェさん!?」
アリーチェの行動に気づいたクロムがぎょっとしたように目を見開いたが、そんなことには構っていられない。
足元に服を落とし、頼りない下着だけの姿になったアリーチェは、恥ずかし気に顔を赤く染めながらもクロムを正面から見つめていた。
「見てっ」
「っ」
アリーチェの勢いに押されたらしいクロムは一瞬驚いたように身を引いたものの、その瞳に嫌悪の色が浮かぶことはなく、それだけでじわりと涙が滲みそうになった。
――クロムは、こんなアリーチェの肌を見ても、“気持ち悪い”なんて思わない。
恐怖か、安堵か、それともその両方か。泣きそうに顔を歪めたアリーチェは、縋るような瞳でクロムに問いかける。
「……私、あとどのくらい?」
自ら余命を尋ねるのは恐ろしく、言葉は僅かに震えていた。
けれど。
「その心配はありません」
「でも……っ!」
きっぱりと断言され、アリーチェは涙の浮かんだ瞳を揺らめかせる。
昼間、息ができなくなるような胸の締め付けに、一瞬死を覚悟したのだ。
呪いの発動がすぐそこにまで迫っていることを、現実のものだと実感した。
呪いを解く鍵が眠っているという古代遺跡への立ち入りはすぐに叶いそうにない。
そんな、絶望的な状況で。
どうしたらこの不安を払拭することができるというのだろう。
クロムのことを、信じていないわけではない。むしろ、クロムには絶対の信頼を置いている。
だが、胸に湧く不安とクロムに向けた信頼は別物だ。
「……例の薬。また、使ってもいいですか?」
突然の呪いの成長は例の薬の効用が弱まったせいもあると言って、クロムは多少の躊躇を見せながらも尋ねてくる。
あれからそれなりの時間が経過している。薬の効果が弱まってもそれは当然のことだろう。
「今度は、呪いを退化させるためにこの前より少し強めのものにしましょう」
呪いを抑えるだけではなく、退化もさせる。できたとしても僅かだとクロムは苦笑するものの、確かに昼間、咲きかけた呪いの華が蕾に戻った姿を目にしている。
どうしてそんなことが可能なのか、尋ねてほしくなさそうなクロムに聞くことはできないけれど、クロムが言うからには僅かな呪いの退化は可能なのだろう。
「え……」
「心配しないでください。俺は外に出ますから」
少し強めとの言葉に思わず驚いてしまったアリーチェの反応をどう取ったのか、クロムはもうあんなことにはならないようにと対策を口にする。
あの時、あんなことになってしまったのは、クロムがアリーチェの血を舐め取ってしまったことにも大きな要因があった。
だから、今回はアリーチェだけ。そして、念のためにもクロムは今夜マクラーゲン邸の外にいる。
「っ」
もうあんなふうに触れ合うことはないと宣言され、アリーチェの身体はふるりと震えた。
「……や……、嫌よ……」
絶望にも似たこの感覚はなんだろう。
先ほど自分の肌を見た時よりも強い恐怖を感じ、アリーチェは己の身体を抱き締めるとふるふると首を振る。
あの熱を、自分一人で耐えるなんて。
再び薬を使うと告げられて感じたものは、怯えなどでは決してなく、お腹の奥がきゅんと切なくなるような期待と歓喜だったのに。
「? アリーチェさん?」
ふら、とした足取りでクロムの目の前に立ったアリーチェは、そのままクロムの肩に手を置き、そっと身を屈めて唇を近づけた。
「――っ!?」
静かに唇を重ねれば、クロムの赤い瞳が信じられないものを見るかのように大きく見開いた。
「……眼鏡が邪魔だわ」
自らした初めてのキスに対する感想はそんなものだった。
なんだか、眼鏡の硝子に触れ合うことを阻まれているかのような気持ちになって、思わずむすりとしてしまう。
「……クロムに触られると気持ちがいいの」
「っ、それは……っ」
そうして切なげに微笑んだアリーチェへ、息を詰めたクロムが苦し気に表情を歪ませる。
「魔力酔いのせいです」
それは、アリーチェの意思ではなく。
魔力によってもたらされた強制的なもの。
だから流されてはダメだと諭してくるクロムに向かい、アリーチェはふるふると首を振って否定すると寂し気に微笑んだ。
「それでもいいの」
あれ以来、キスをしてくれてもそれ以上のことをしてくれないことが寂しかった。
「触ってほしい」
本当は、ずっとずっと触れて欲しかった。
クロムに触れられると気持ちがよくて。
不安が、全て消えていくから。
「ね?」
「……っ」
甘く誘いかけるアリーチェの吐息に、クロムの眉間にはぐっと皺が寄る。
「……とりあえず、準備、しますね」
苦渋の決断をするかのように席を立ったクロムは、研究室から持ってきた手荷物の中を探ると目的のものを手にしてすぐに戻ってくる。
「腕、出してください」
「っ」
照明に反射して光る鋭い針の先は怖くて見ていられないものの、妙に胸がドキドキするのは、この後に訪れる快楽をすでに知っているからだ。
違法薬物に手を染めてしまう人々の気持ちが少しだけわかってしまうような気がするが、後遺症もなにもない魔力酔いはある意味もっと質が悪いかもしれない。
「……ぁ……」
針の刺さった部分が熱を持ち、そこからじわじわとしたぬくもりが流れていく。
「ん……っ」
針を引き抜かれる感覚だけはどうしても嫌な痛みを伴って、アリーチェの顔は僅かに顰められる。
けれどその痛みも、すぐに訪れたふわふわとした甘い感覚に溶けて消えてしまった。
「……ねぇ、この薬って、本当はなにでできているの?」
答えてくれるとも思っていなかったが、ことり、と首を傾けた純粋なアリーチェの双眸に、クロムは観念したように口を開く。
「……俺の血液から精製した魔力が含まれています」
なぜ、クロムの魔力を取り込む必要があるのか、ふわふわしたアリーチェの思考回路ではよくわからない。
「身体の中から直接抑え込む必要があるので」
根付きつつある呪いに抵抗するためにはそれが一番なのだと告げられて、なんとなく納得する。
「……クロムも魔力持ちなのね」
クロムの魔力を直接アリーチェの中に流し込んで呪いを抑える。なぜそんなことができるのかは置いておくとして、つまりはそういうことなのだろう。
「……」
沈黙は、肯定か。
「そうでなければ魔力酔いなんて起きるはずがないもの」
なにを隠したがっているのかはわからないが、ふわりと甘く微笑んだアリーチェへ、クロムはかちゃりと眼鏡を外すと真っ直ぐアリーチェを見つめてくる。
「!」
その仕草と赤い双眸に射貫かれて、アリーチェの心臓はドキリと跳ね上がった。
「……クロ、ム……」
どきどきと胸が鼓動を刻み、こくりと喉が鳴った。
お腹の奥がじわりとした熱を持ち、脚の間がきゅん、と痺れるような感覚がした。
「もう黙ってください」
どうやら迷いを捨て去ったらしいクロムがアリーチェの顎を取ってきて、口づけの角度に上げられる。
「こんな時におしゃべりは野暮ですよ」
肌を隠すドレスを身に纏っていたから気づかなかったが、蔦のようなものは足首に巻き付くかのように成長し、腕の方も肘を越えた場所にまで先端が伸びていた。
毒々しい華の文様は、大きな胸元の一つを中心に、肩口や二の腕、腹部や内股にまで咲いており、あちこちに小さな蕾すら芽吹いている。その胸元の大輪に関して言えば、まるで今にもアリーチェの心臓を食らい尽くさんばかりの禍々しさを放っていて。
胸元に呪いの文様が浮かんで以来、肌を見られたくなくて一人で湯浴みをする生活が続いていたが、こんなものを侍女が目にした日には卒倒してしまってもおかしくはないだろう。
現に、呪いの文様を見慣れたアリーチェでさえ、身体を洗っている間はずっと手の震えが止まらずにいた。
――怖くて、怖くて。
一歩一歩着実に、死の足音が近づいてきているようで。
ひやり、と。
死神の鎌が喉に突き付けられるような感覚に、温かいはずの湯が冷水のように感じていた。
――『貴女を死なせないことだけはお約束します』
ふと頭の中に浮かんだ無感動な低い声。
それだけが、アリーチェの全て。
――不安で、恐ろしくて。
それでも、クロムのことだけは信じられるから。
だから。
「……ねぇ、クロム」
真っ青な顔で部屋の扉を叩いたアリーチェを、クロムはなにも言わずに招き入れてくれた。
「はい」
ソファに腰かけたクロムの前。アリーチェは震える指先で、けれど迷うことなく夜着のボタンを外していく。
「!? アリーチェさん!?」
アリーチェの行動に気づいたクロムがぎょっとしたように目を見開いたが、そんなことには構っていられない。
足元に服を落とし、頼りない下着だけの姿になったアリーチェは、恥ずかし気に顔を赤く染めながらもクロムを正面から見つめていた。
「見てっ」
「っ」
アリーチェの勢いに押されたらしいクロムは一瞬驚いたように身を引いたものの、その瞳に嫌悪の色が浮かぶことはなく、それだけでじわりと涙が滲みそうになった。
――クロムは、こんなアリーチェの肌を見ても、“気持ち悪い”なんて思わない。
恐怖か、安堵か、それともその両方か。泣きそうに顔を歪めたアリーチェは、縋るような瞳でクロムに問いかける。
「……私、あとどのくらい?」
自ら余命を尋ねるのは恐ろしく、言葉は僅かに震えていた。
けれど。
「その心配はありません」
「でも……っ!」
きっぱりと断言され、アリーチェは涙の浮かんだ瞳を揺らめかせる。
昼間、息ができなくなるような胸の締め付けに、一瞬死を覚悟したのだ。
呪いの発動がすぐそこにまで迫っていることを、現実のものだと実感した。
呪いを解く鍵が眠っているという古代遺跡への立ち入りはすぐに叶いそうにない。
そんな、絶望的な状況で。
どうしたらこの不安を払拭することができるというのだろう。
クロムのことを、信じていないわけではない。むしろ、クロムには絶対の信頼を置いている。
だが、胸に湧く不安とクロムに向けた信頼は別物だ。
「……例の薬。また、使ってもいいですか?」
突然の呪いの成長は例の薬の効用が弱まったせいもあると言って、クロムは多少の躊躇を見せながらも尋ねてくる。
あれからそれなりの時間が経過している。薬の効果が弱まってもそれは当然のことだろう。
「今度は、呪いを退化させるためにこの前より少し強めのものにしましょう」
呪いを抑えるだけではなく、退化もさせる。できたとしても僅かだとクロムは苦笑するものの、確かに昼間、咲きかけた呪いの華が蕾に戻った姿を目にしている。
どうしてそんなことが可能なのか、尋ねてほしくなさそうなクロムに聞くことはできないけれど、クロムが言うからには僅かな呪いの退化は可能なのだろう。
「え……」
「心配しないでください。俺は外に出ますから」
少し強めとの言葉に思わず驚いてしまったアリーチェの反応をどう取ったのか、クロムはもうあんなことにはならないようにと対策を口にする。
あの時、あんなことになってしまったのは、クロムがアリーチェの血を舐め取ってしまったことにも大きな要因があった。
だから、今回はアリーチェだけ。そして、念のためにもクロムは今夜マクラーゲン邸の外にいる。
「っ」
もうあんなふうに触れ合うことはないと宣言され、アリーチェの身体はふるりと震えた。
「……や……、嫌よ……」
絶望にも似たこの感覚はなんだろう。
先ほど自分の肌を見た時よりも強い恐怖を感じ、アリーチェは己の身体を抱き締めるとふるふると首を振る。
あの熱を、自分一人で耐えるなんて。
再び薬を使うと告げられて感じたものは、怯えなどでは決してなく、お腹の奥がきゅんと切なくなるような期待と歓喜だったのに。
「? アリーチェさん?」
ふら、とした足取りでクロムの目の前に立ったアリーチェは、そのままクロムの肩に手を置き、そっと身を屈めて唇を近づけた。
「――っ!?」
静かに唇を重ねれば、クロムの赤い瞳が信じられないものを見るかのように大きく見開いた。
「……眼鏡が邪魔だわ」
自らした初めてのキスに対する感想はそんなものだった。
なんだか、眼鏡の硝子に触れ合うことを阻まれているかのような気持ちになって、思わずむすりとしてしまう。
「……クロムに触られると気持ちがいいの」
「っ、それは……っ」
そうして切なげに微笑んだアリーチェへ、息を詰めたクロムが苦し気に表情を歪ませる。
「魔力酔いのせいです」
それは、アリーチェの意思ではなく。
魔力によってもたらされた強制的なもの。
だから流されてはダメだと諭してくるクロムに向かい、アリーチェはふるふると首を振って否定すると寂し気に微笑んだ。
「それでもいいの」
あれ以来、キスをしてくれてもそれ以上のことをしてくれないことが寂しかった。
「触ってほしい」
本当は、ずっとずっと触れて欲しかった。
クロムに触れられると気持ちがよくて。
不安が、全て消えていくから。
「ね?」
「……っ」
甘く誘いかけるアリーチェの吐息に、クロムの眉間にはぐっと皺が寄る。
「……とりあえず、準備、しますね」
苦渋の決断をするかのように席を立ったクロムは、研究室から持ってきた手荷物の中を探ると目的のものを手にしてすぐに戻ってくる。
「腕、出してください」
「っ」
照明に反射して光る鋭い針の先は怖くて見ていられないものの、妙に胸がドキドキするのは、この後に訪れる快楽をすでに知っているからだ。
違法薬物に手を染めてしまう人々の気持ちが少しだけわかってしまうような気がするが、後遺症もなにもない魔力酔いはある意味もっと質が悪いかもしれない。
「……ぁ……」
針の刺さった部分が熱を持ち、そこからじわじわとしたぬくもりが流れていく。
「ん……っ」
針を引き抜かれる感覚だけはどうしても嫌な痛みを伴って、アリーチェの顔は僅かに顰められる。
けれどその痛みも、すぐに訪れたふわふわとした甘い感覚に溶けて消えてしまった。
「……ねぇ、この薬って、本当はなにでできているの?」
答えてくれるとも思っていなかったが、ことり、と首を傾けた純粋なアリーチェの双眸に、クロムは観念したように口を開く。
「……俺の血液から精製した魔力が含まれています」
なぜ、クロムの魔力を取り込む必要があるのか、ふわふわしたアリーチェの思考回路ではよくわからない。
「身体の中から直接抑え込む必要があるので」
根付きつつある呪いに抵抗するためにはそれが一番なのだと告げられて、なんとなく納得する。
「……クロムも魔力持ちなのね」
クロムの魔力を直接アリーチェの中に流し込んで呪いを抑える。なぜそんなことができるのかは置いておくとして、つまりはそういうことなのだろう。
「……」
沈黙は、肯定か。
「そうでなければ魔力酔いなんて起きるはずがないもの」
なにを隠したがっているのかはわからないが、ふわりと甘く微笑んだアリーチェへ、クロムはかちゃりと眼鏡を外すと真っ直ぐアリーチェを見つめてくる。
「!」
その仕草と赤い双眸に射貫かれて、アリーチェの心臓はドキリと跳ね上がった。
「……クロ、ム……」
どきどきと胸が鼓動を刻み、こくりと喉が鳴った。
お腹の奥がじわりとした熱を持ち、脚の間がきゅん、と痺れるような感覚がした。
「もう黙ってください」
どうやら迷いを捨て去ったらしいクロムがアリーチェの顎を取ってきて、口づけの角度に上げられる。
「こんな時におしゃべりは野暮ですよ」
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