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後日談 ⑥
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「あら……?」
ゼノンの部屋。事務机の足元に落ちている一枚の紙を目にしたシャーロットは、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせていた。
「これ……」
それを拾い、軽く目を通す。癖のある男らしい文字が書き込まれたその書類は、シャーロットの記憶が正しければ、昨夜、ゼノンが仕上げていたものだ。
互いの想いを伝え合ってから、出入り自由になったゼノンの部屋。昨夜も、ゼノンが机に向かっている間、シャーロットは少し離れた場所にあるゆったりとした椅子に腰かけて、刺繍を楽しんでいた。
給仕の者に代わって熱いコーヒーを机に運べば、その腕を取られてそっと触れるだけのキスをして。……昨夜はそれだけだったけれど、椅子に腰かけたゼノンの膝の上に乗せられて、そのまま離して貰えなかったこともある。
その時のことを思い出すと、恥ずかしくて堪らない。服を脱がされることはなかったけれど、向かい合って座る体勢で貫かれ、揺さぶられて――……。
「――……っ!」
一体なにを考えているのかと、シャーロットは真っ赤になるとその記憶を振り払うように首を振る。
今は、そんな不埒なことを考えている場合ではない。
「……きっと、ないと困るわよね……?」
書類を片手に、ことりと小首を傾けて。
「ウィル! ウィル……!」
家令を呼べば、すぐにゼノンよりも少し年上の男性が顔を覗かせた。
「はい、奥様。いかがされました?」
シャーロットの胸の奥に、ほんの少しだけ好奇心が沸き上がる。
「旦那様が書類をお忘れになったみたいだから、届けて差し上げたいのだけれど……」
◈◈✼◈◈┈┈┈┈◈◈✼◈◈
ボルドー家の家紋付きの馬車で軍の施設に向かえば、思いの外あっさりと中に通してもらうことができた。
「演習場は、そこの道を真っ直ぐ行った奥になりますが……」
今の時間、ゼノンは恐らく演習中だろうということで、門番の案内にそちらの方へ顔を向ければ、確かに、遠く、声高な叫びや金属同士がぶつかり合う甲高い音が響いてくるような気がした。
「奥様がこちらに来られるのは初めてですよね? ご案内致しましょうか?」
「大丈夫です。お気遣いありがとう」
優しく訊ねてくる門番へ、シャーロットは気遣いは不要だとにこりと笑う。
それから「ごゆっくりどうぞ」という声に見送られ、シャーロットは演習場に向かって歩き出していた。
「……ここが……、ゼノン様が普段いらっしゃるところ……」
軍の施設は、王都の中央に在る王宮のほど近くにあった。高い壁に囲まれた広い敷地内には、所々木が植えられ、土でできた道はよく舗装されている。
シャーロットの左手にある大きな建物は、宿舎かなにかだろうか。
将軍の妻という立場にありながら、今まで一度も訪れたことのない場所に、シャーロットは興味深そうにあちこちを見回した。
今日は急いで来てしまったために手ぶらだが、近日中に今度は手土産を持って来ようかと考える。
迷惑になっても困るため、その辺りは夫であり、軍の統率者でもあるゼノンに相談して……、などと思っていると。
「あ?」
「……え?」
水分補給でもしていたのだろうか。水飲み場で口元を拭っている青年が顔を上げ、シャーロットの顔をまじまじと見つめてくる。
「君、こんなところでなにしてるの?」
思わず足を止めて瞳を瞬かせたシャーロットに、その青年はそのまま人好きのする笑顔で声をかけてくる。
「あ……、いえ……。書類を届けに……」
シャーロットの手元には、書類が一枚だけ入った茶封筒。
「書類?」
なにをどう説明しようかと悩むシャーロットに、青年はその手元に在る封筒を目に留めると、「あぁ」と納得したような声を上げていた。
「そういえば、今度、事務官を募集するようなことを聞いたっけ」
シャーロットのことを、そのための書類を持参した志願者だと勘違いしたらしい青年は、自らの疑問を勝手に自己完結させていく。
「あ、いえ、私は……」
「でも、君みたいな子に務まるかなぁ……?」
緩く首を振るシャーロットの否定にも気づかない青年は、華奢なその身体をじ、と真面目に観察し、気難しげに眉を寄せる。
「騎士に憧れる子も多いけど、現実は結構むさ苦しいし、気性の荒いヤツもいるし」
そうぶつぶつ話しかけてくる青年は、人は悪くなさそうだったが、残念ながらシャーロットの話に耳を傾けてくれる様子は見えなかった。
「でも、君みたいな可愛い子、オレは歓迎だよ」
「……っ」
にっこりと軟派な笑顔を向けられて、シャーロットは思わず目を見張る。
悪い人ではないのだろうが、その言動はいちいち軽すぎる。
軍に身を置く人間が、全員ゼノンのような生真面目な性格をしているとは思っていないが、どう対応したものかと困ってしまう。
適齢期になるとほぼ同時に嫁いでしまったシャーロットは、男女の交流を目的とした社交の場に顔を出した経験がなく、異性に対する免疫が圧倒的に少なかった。
「……おい、ザック、誰だよ」
そこへ、後からやってきた青年が先ほどの青年――ザック、という名前なのだろうか――に声をかけ、ザックは物知顔で口を開く。
「なんか、事務官志望で来たらしいぜ?」
「ち、違……」
シャーロットの小さな否定は二人の耳にまで届かない。
「あー、あれな」
こちらの青年も事務官を募集していることを知っているのか、なるほどとばかりに頷いた。
さらには。
「えっ? こんな可愛い子が来てくれんの?」
「こんな可愛い子がいてくれんなら、毎日の厳しい訓練にも耐えられるな~」
ちょうど休憩時間にでもなったのだろうか。次から次へと青年と同じ年頃の――、二十代前半くらいの男性陣がやってきて、シャーロットはそれだけで圧倒されてしまう。
「あ、あの……っ」
「ねぇねぇ、君、誰かいい人とかいるの?」
「ここにいい人を探しに来た、とかだったら嬉しいんだけど」
「だったら、オレ、名乗り上げてもいい?」
「あっ、抜け駆けはなしだぜ!」
「いつからここで働くの?」
気づけば周りを囲まれていて、矢継ぎ早にかけられるそれらの声に、シャーロットはただただ困惑するばかりだった。
「ていうか、名前、なんていうの?」
「な、名前……」
そうしてまた一人の青年がシャーロットの顔を覗き込んできて、シャーロットはそこでこくりと息を呑む。
名前を名乗るということ。
つまりはそれは、自分の身分を明かすことに違いない。
「そうそうっ! そういえばまだ聞いてなかった」
最初の青年がうっかりしていたとばかりに笑顔を向けてきて、シャーロットは手元の封筒をぎゅ、と抱えて口を開く。
「……シャ、シャーロット、です」
元公爵令嬢であり、現在は将軍の妻となったシャーロットは、その名前だけは有名だ。
「シャーロットちゃん? 可愛い名前だね」
だが、目の前の青年はそのままにこにことシャーロットに声をかけ――。
……そこで、ふと。
どこかで聞き覚えのあるその名前に、「ん?」と首を傾げて固まっていた。
「……シャーロット・ボルドーと申します……っ」
そう言って一気に息を吐き出せば、瞬時にその場の空気は凍りつく。
「“シャーロット”……」
「“ボルドー”……?」
あちらとこちらから呆然と洩らされる二つの声。
「……って……」
ハッと息を呑んだその声は、また別の青年のものだ。
「「ゼノン将軍の!?」」
婚姻前から、シャーロットの存在自体は有名だ。公爵家の四姉妹の末の妹。だが、容姿や性格については噂で耳にする程度のことはあっても、実際に顔を見たことのある中流貴族以下の者はほとんどいない。若くして嫁いだシャーロットは、社交界に顔を出すこともほとんどなかったのだから、それはなおさらのことだった。
「奥方様!?」
途端、慌て出す青年たちに、シャーロットは精一杯息を吸い込んだ。
「今日は……っ、旦那様に忘れ物を届けに参りました……っ」
やっと伝えることのできた、今日の目的。
「……シャーロット、様……」
若くしてボルドー家に嫁いだ、王家の血を継ぐ、由緒正しい公爵家の御令嬢。
誰もが憧れる高嶺の花を前にして、どこからか呆然とした呟きが洩れた時。
「……お前たち。そんなところでなにをしている」
「――っ!」
ふいに響いた低い声に、シャーロットを囲っていた青年たちはぎくりと時を止め。
「旦那様……っ!」
シャーロットからは、嬉しそうな笑顔が零れ落ちていた。
「シャーロット。なぜ貴女がここに」
ここに来るためか、普段家にいる時のドレス姿とは違い、動きやすそうなワンピースドレスを着ているシャーロットの笑顔を前にして、ゼノンは僅かに眉を顰めていた。
休憩時間に水分補給に向かう者は多いが、今日はなぜか水飲み場近くに、遠目からでもわかるほどの妙な人だかりができていた。水筒を持参しているゼノンは、いつもであれば水飲み場に足を運ぶことはないのだが、さすがにその人だかりに不審を覚えたゼノンは、常には取らない行動を取っていた。
そうして足を運んでみれば、人だかりのその中央にはなぜか愛しい妻の姿があって、思わず動揺してしまっていた。
しかも、こともあろうか、可愛らしい年下の妻は。
「ねぇねぇ、君、誰かいい人とかいるの?」
「ここにいい人を探しに来た、とかだったら嬉しいんだけど」
「だったら、オレ、名乗り上げてもいい?」
「あっ、抜け駆けはなしだぜ!」
「いつからここで働くの?」
ゼノンの部下たちから口々に声をかけられていて、その瞬間、ゼノンはぶわりとした負の感情が渦巻くのを感じていた。
表面上は相変わらず無表情を崩すことのないゼノンだが、恐らく隣にいた副官だけは、その負の気配に気づいてしまったことだろう。
副官とはそれなりに長い付き合いでもあり、それと同時に、その感情は隠し切れないほどの熱量を持っていた。
だが、そんなゼノンの心の内に気づくこともなく、何年たっても純真さを忘れない年下の妻は、夫の姿に気づくと花のような笑顔を向けてくる。
「忘れ物を届けに参りました」
「……忘れ物?」
「はい。机の下に落ちていたもので」
ふわりとした微笑みと共に書類の入った封筒を手渡され、ゼノンはまじまじとそれを見下ろした。
「昨夜書かれていたものではないですか? ……余計……、でした?」
手渡してから、急に不安そうに自分をみつめてくるその瞳には、愛おしさしか沸いてこない。
余計、だなどと。ゼノンがシャーロットに対してそんなことを思うはずがない。
「いや……、助かった」
「良かったです」
だが、ほっと嬉しそうにはにかむシャーロットには、別の想いも沸き上がってくる。
「それよりも」
シャーロットは、ゼノンよりも一回りも年若い。そして、そんな年下の妻を囲っていた部下たちは、可愛らしいシャーロットとは、年だけで言えば釣り合いの取れる青年たち。
「なにかされなかったか?」
さりげない仕草で長い髪に触れれば、シャーロットからはきょとん、とした純真無垢な瞳が返ってくる。
「……え?」
「血気盛んなヤツらが多いからな」
なにもわかっていないシャーロットへ、困ったような苦笑を一つ。
すると、青年たちは真っ青な顔で慌てふためき出し、
「あ、あああの、ゼノン将軍っ? オ、オレたちは、別に、なにも……」
「まさか、奥方様とは知らず……っ」
そろそろと、ゼノンから距離を取るように後方へと下がっていく。
さらには。
「……っお、俺、走り足りてないので、走ってきます……!」
「! お、おい、待てよ……っ! オレも行く……っ!」
「あっ。オレも自主練してきます……!」
次々とそんなことを口にして、逃げるようにその場を去っていた。
「お、おい……っ!」
「……、オ、オレも……」
三人、四人、五人、とシャーロットの周りからは人が消えていき。
「っ失礼しましたーっ!」
最初にシャーロットへ声をかけてきた、ザックと呼ばれた青年も姿を消していた。
「?」
そんな、自己研鑽の意識が強い彼らに、シャーロットはぱちぱちと瞳を瞬かせ、
「みな様、すごいですね」
さすがです。と、純粋な尊敬の眼差しを向けてくる。
そんなシャーロットの感動の吐息に、ついゼノンが頭を抱えたくなってしまったとしても、それは仕方のないことだろう。
「……貴女という人は本当に……」
「……ご迷惑、でした?」
不安そうにおずおずと見上げてくる大きな瞳。だが、シャーロットはそのまま、申し訳なさそうに先を続けてくる。
「演習場にいらっしゃると聞いて、もしかしたら、ゼノン様の勇姿が見られるかと思ったら、つい……」
「!」
愛する夫の、“将軍ゼノン”としての凛々しい姿を見てみたかったのだと言われ、ゼノンは一瞬息を呑む。
申し訳なさそうに身を小さくしながらも、それでもどこか恥ずかしそうに頬を染めるシャーロットからは、ゼノンに恋する乙女心しか伝わってこない。
「……貴女は本当に質が悪い」
気を抜くと緩んでしまいそうになる顔を無表情に保つため、眉間にぐっ、と力を入れたゼノンは、表面上はあくまでも淡々とした声色のまま小さく肩を落としていた。
「そんなふうに言われたら、怒れなくなってしまう」
「っ、お、怒……?」
びく、と肩を震わせ、不安そうに瞳を揺らめかせるその姿さえ、今すぐ抱き締めたくなってしまうほど愛おしいのだから重症だ。
「若い連中に、あんなふうに囲まれて」
そこで、そっとシャーロットの耳元に顔を寄せたゼノンは、くす、と意味ありげな笑みを溢していた。
「オレが、嫉妬しないとでも?」
「!」
途端、息を呑み、全身を桜色に染めていくシャーロットは、その言葉の意味を正確に理解しているのだろう。
――自分の夫が、驚くほど心の狭い人間であるということを。
「貴女は少し無防備すぎる」
すでに二人の周りからは誰もいなくなってはいるが、それでも周りに悟られないよう、ゼノンは潜めた声で警告する。
嫉妬深い夫をそんなふうに煽ったら、今夜どんな目に遭わされてしまうか、すでに何度も経験済みだろう。
「……あ、あの……っ、ご迷惑になるので……っ、もう、帰……っ」
「貴女が迷惑なはずはないだろう」
慌てて帰ろうとする可愛らしい妻を、ゼノンは、至極真面目な顔で引き止める。
「で、ですが……っ」
「せっかくだ。見学していけばいい」
愛しい女性に、自分の勇姿を見たいと言われ、それを断る道理がどこにあるだろう。今まで血の滲むような努力を積み重ねてきた。それは紛れもなく、ゼノンに自信を与えている。
――妻を惚れ直させる自信も、今よりもさらに自分に夢中にさせる自信も。
シャーロットに期待以上の姿を見せ、その心を掴んで離さないという気持ちが滾る。
「アイツらも、貴女のような人に見られているとなれば気合いが入るだろう」
不敵な笑みを刻み付け、最後に「あぁ」と忘れてはならないと忠告する。
「ただし、オレの視界から出ていかないように」
そうしていつもより気合いの入ったゼノンが、先ほどシャーロットに声をかけてきた部下たちを完膚なきまでに鍛え上げるその姿を、シャーロットははらはらしながらも、輝く瞳でみつめるのだった。
ゼノンの部屋。事務机の足元に落ちている一枚の紙を目にしたシャーロットは、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせていた。
「これ……」
それを拾い、軽く目を通す。癖のある男らしい文字が書き込まれたその書類は、シャーロットの記憶が正しければ、昨夜、ゼノンが仕上げていたものだ。
互いの想いを伝え合ってから、出入り自由になったゼノンの部屋。昨夜も、ゼノンが机に向かっている間、シャーロットは少し離れた場所にあるゆったりとした椅子に腰かけて、刺繍を楽しんでいた。
給仕の者に代わって熱いコーヒーを机に運べば、その腕を取られてそっと触れるだけのキスをして。……昨夜はそれだけだったけれど、椅子に腰かけたゼノンの膝の上に乗せられて、そのまま離して貰えなかったこともある。
その時のことを思い出すと、恥ずかしくて堪らない。服を脱がされることはなかったけれど、向かい合って座る体勢で貫かれ、揺さぶられて――……。
「――……っ!」
一体なにを考えているのかと、シャーロットは真っ赤になるとその記憶を振り払うように首を振る。
今は、そんな不埒なことを考えている場合ではない。
「……きっと、ないと困るわよね……?」
書類を片手に、ことりと小首を傾けて。
「ウィル! ウィル……!」
家令を呼べば、すぐにゼノンよりも少し年上の男性が顔を覗かせた。
「はい、奥様。いかがされました?」
シャーロットの胸の奥に、ほんの少しだけ好奇心が沸き上がる。
「旦那様が書類をお忘れになったみたいだから、届けて差し上げたいのだけれど……」
◈◈✼◈◈┈┈┈┈◈◈✼◈◈
ボルドー家の家紋付きの馬車で軍の施設に向かえば、思いの外あっさりと中に通してもらうことができた。
「演習場は、そこの道を真っ直ぐ行った奥になりますが……」
今の時間、ゼノンは恐らく演習中だろうということで、門番の案内にそちらの方へ顔を向ければ、確かに、遠く、声高な叫びや金属同士がぶつかり合う甲高い音が響いてくるような気がした。
「奥様がこちらに来られるのは初めてですよね? ご案内致しましょうか?」
「大丈夫です。お気遣いありがとう」
優しく訊ねてくる門番へ、シャーロットは気遣いは不要だとにこりと笑う。
それから「ごゆっくりどうぞ」という声に見送られ、シャーロットは演習場に向かって歩き出していた。
「……ここが……、ゼノン様が普段いらっしゃるところ……」
軍の施設は、王都の中央に在る王宮のほど近くにあった。高い壁に囲まれた広い敷地内には、所々木が植えられ、土でできた道はよく舗装されている。
シャーロットの左手にある大きな建物は、宿舎かなにかだろうか。
将軍の妻という立場にありながら、今まで一度も訪れたことのない場所に、シャーロットは興味深そうにあちこちを見回した。
今日は急いで来てしまったために手ぶらだが、近日中に今度は手土産を持って来ようかと考える。
迷惑になっても困るため、その辺りは夫であり、軍の統率者でもあるゼノンに相談して……、などと思っていると。
「あ?」
「……え?」
水分補給でもしていたのだろうか。水飲み場で口元を拭っている青年が顔を上げ、シャーロットの顔をまじまじと見つめてくる。
「君、こんなところでなにしてるの?」
思わず足を止めて瞳を瞬かせたシャーロットに、その青年はそのまま人好きのする笑顔で声をかけてくる。
「あ……、いえ……。書類を届けに……」
シャーロットの手元には、書類が一枚だけ入った茶封筒。
「書類?」
なにをどう説明しようかと悩むシャーロットに、青年はその手元に在る封筒を目に留めると、「あぁ」と納得したような声を上げていた。
「そういえば、今度、事務官を募集するようなことを聞いたっけ」
シャーロットのことを、そのための書類を持参した志願者だと勘違いしたらしい青年は、自らの疑問を勝手に自己完結させていく。
「あ、いえ、私は……」
「でも、君みたいな子に務まるかなぁ……?」
緩く首を振るシャーロットの否定にも気づかない青年は、華奢なその身体をじ、と真面目に観察し、気難しげに眉を寄せる。
「騎士に憧れる子も多いけど、現実は結構むさ苦しいし、気性の荒いヤツもいるし」
そうぶつぶつ話しかけてくる青年は、人は悪くなさそうだったが、残念ながらシャーロットの話に耳を傾けてくれる様子は見えなかった。
「でも、君みたいな可愛い子、オレは歓迎だよ」
「……っ」
にっこりと軟派な笑顔を向けられて、シャーロットは思わず目を見張る。
悪い人ではないのだろうが、その言動はいちいち軽すぎる。
軍に身を置く人間が、全員ゼノンのような生真面目な性格をしているとは思っていないが、どう対応したものかと困ってしまう。
適齢期になるとほぼ同時に嫁いでしまったシャーロットは、男女の交流を目的とした社交の場に顔を出した経験がなく、異性に対する免疫が圧倒的に少なかった。
「……おい、ザック、誰だよ」
そこへ、後からやってきた青年が先ほどの青年――ザック、という名前なのだろうか――に声をかけ、ザックは物知顔で口を開く。
「なんか、事務官志望で来たらしいぜ?」
「ち、違……」
シャーロットの小さな否定は二人の耳にまで届かない。
「あー、あれな」
こちらの青年も事務官を募集していることを知っているのか、なるほどとばかりに頷いた。
さらには。
「えっ? こんな可愛い子が来てくれんの?」
「こんな可愛い子がいてくれんなら、毎日の厳しい訓練にも耐えられるな~」
ちょうど休憩時間にでもなったのだろうか。次から次へと青年と同じ年頃の――、二十代前半くらいの男性陣がやってきて、シャーロットはそれだけで圧倒されてしまう。
「あ、あの……っ」
「ねぇねぇ、君、誰かいい人とかいるの?」
「ここにいい人を探しに来た、とかだったら嬉しいんだけど」
「だったら、オレ、名乗り上げてもいい?」
「あっ、抜け駆けはなしだぜ!」
「いつからここで働くの?」
気づけば周りを囲まれていて、矢継ぎ早にかけられるそれらの声に、シャーロットはただただ困惑するばかりだった。
「ていうか、名前、なんていうの?」
「な、名前……」
そうしてまた一人の青年がシャーロットの顔を覗き込んできて、シャーロットはそこでこくりと息を呑む。
名前を名乗るということ。
つまりはそれは、自分の身分を明かすことに違いない。
「そうそうっ! そういえばまだ聞いてなかった」
最初の青年がうっかりしていたとばかりに笑顔を向けてきて、シャーロットは手元の封筒をぎゅ、と抱えて口を開く。
「……シャ、シャーロット、です」
元公爵令嬢であり、現在は将軍の妻となったシャーロットは、その名前だけは有名だ。
「シャーロットちゃん? 可愛い名前だね」
だが、目の前の青年はそのままにこにことシャーロットに声をかけ――。
……そこで、ふと。
どこかで聞き覚えのあるその名前に、「ん?」と首を傾げて固まっていた。
「……シャーロット・ボルドーと申します……っ」
そう言って一気に息を吐き出せば、瞬時にその場の空気は凍りつく。
「“シャーロット”……」
「“ボルドー”……?」
あちらとこちらから呆然と洩らされる二つの声。
「……って……」
ハッと息を呑んだその声は、また別の青年のものだ。
「「ゼノン将軍の!?」」
婚姻前から、シャーロットの存在自体は有名だ。公爵家の四姉妹の末の妹。だが、容姿や性格については噂で耳にする程度のことはあっても、実際に顔を見たことのある中流貴族以下の者はほとんどいない。若くして嫁いだシャーロットは、社交界に顔を出すこともほとんどなかったのだから、それはなおさらのことだった。
「奥方様!?」
途端、慌て出す青年たちに、シャーロットは精一杯息を吸い込んだ。
「今日は……っ、旦那様に忘れ物を届けに参りました……っ」
やっと伝えることのできた、今日の目的。
「……シャーロット、様……」
若くしてボルドー家に嫁いだ、王家の血を継ぐ、由緒正しい公爵家の御令嬢。
誰もが憧れる高嶺の花を前にして、どこからか呆然とした呟きが洩れた時。
「……お前たち。そんなところでなにをしている」
「――っ!」
ふいに響いた低い声に、シャーロットを囲っていた青年たちはぎくりと時を止め。
「旦那様……っ!」
シャーロットからは、嬉しそうな笑顔が零れ落ちていた。
「シャーロット。なぜ貴女がここに」
ここに来るためか、普段家にいる時のドレス姿とは違い、動きやすそうなワンピースドレスを着ているシャーロットの笑顔を前にして、ゼノンは僅かに眉を顰めていた。
休憩時間に水分補給に向かう者は多いが、今日はなぜか水飲み場近くに、遠目からでもわかるほどの妙な人だかりができていた。水筒を持参しているゼノンは、いつもであれば水飲み場に足を運ぶことはないのだが、さすがにその人だかりに不審を覚えたゼノンは、常には取らない行動を取っていた。
そうして足を運んでみれば、人だかりのその中央にはなぜか愛しい妻の姿があって、思わず動揺してしまっていた。
しかも、こともあろうか、可愛らしい年下の妻は。
「ねぇねぇ、君、誰かいい人とかいるの?」
「ここにいい人を探しに来た、とかだったら嬉しいんだけど」
「だったら、オレ、名乗り上げてもいい?」
「あっ、抜け駆けはなしだぜ!」
「いつからここで働くの?」
ゼノンの部下たちから口々に声をかけられていて、その瞬間、ゼノンはぶわりとした負の感情が渦巻くのを感じていた。
表面上は相変わらず無表情を崩すことのないゼノンだが、恐らく隣にいた副官だけは、その負の気配に気づいてしまったことだろう。
副官とはそれなりに長い付き合いでもあり、それと同時に、その感情は隠し切れないほどの熱量を持っていた。
だが、そんなゼノンの心の内に気づくこともなく、何年たっても純真さを忘れない年下の妻は、夫の姿に気づくと花のような笑顔を向けてくる。
「忘れ物を届けに参りました」
「……忘れ物?」
「はい。机の下に落ちていたもので」
ふわりとした微笑みと共に書類の入った封筒を手渡され、ゼノンはまじまじとそれを見下ろした。
「昨夜書かれていたものではないですか? ……余計……、でした?」
手渡してから、急に不安そうに自分をみつめてくるその瞳には、愛おしさしか沸いてこない。
余計、だなどと。ゼノンがシャーロットに対してそんなことを思うはずがない。
「いや……、助かった」
「良かったです」
だが、ほっと嬉しそうにはにかむシャーロットには、別の想いも沸き上がってくる。
「それよりも」
シャーロットは、ゼノンよりも一回りも年若い。そして、そんな年下の妻を囲っていた部下たちは、可愛らしいシャーロットとは、年だけで言えば釣り合いの取れる青年たち。
「なにかされなかったか?」
さりげない仕草で長い髪に触れれば、シャーロットからはきょとん、とした純真無垢な瞳が返ってくる。
「……え?」
「血気盛んなヤツらが多いからな」
なにもわかっていないシャーロットへ、困ったような苦笑を一つ。
すると、青年たちは真っ青な顔で慌てふためき出し、
「あ、あああの、ゼノン将軍っ? オ、オレたちは、別に、なにも……」
「まさか、奥方様とは知らず……っ」
そろそろと、ゼノンから距離を取るように後方へと下がっていく。
さらには。
「……っお、俺、走り足りてないので、走ってきます……!」
「! お、おい、待てよ……っ! オレも行く……っ!」
「あっ。オレも自主練してきます……!」
次々とそんなことを口にして、逃げるようにその場を去っていた。
「お、おい……っ!」
「……、オ、オレも……」
三人、四人、五人、とシャーロットの周りからは人が消えていき。
「っ失礼しましたーっ!」
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「?」
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そんなシャーロットの感動の吐息に、ついゼノンが頭を抱えたくなってしまったとしても、それは仕方のないことだろう。
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「……ご迷惑、でした?」
不安そうにおずおずと見上げてくる大きな瞳。だが、シャーロットはそのまま、申し訳なさそうに先を続けてくる。
「演習場にいらっしゃると聞いて、もしかしたら、ゼノン様の勇姿が見られるかと思ったら、つい……」
「!」
愛する夫の、“将軍ゼノン”としての凛々しい姿を見てみたかったのだと言われ、ゼノンは一瞬息を呑む。
申し訳なさそうに身を小さくしながらも、それでもどこか恥ずかしそうに頬を染めるシャーロットからは、ゼノンに恋する乙女心しか伝わってこない。
「……貴女は本当に質が悪い」
気を抜くと緩んでしまいそうになる顔を無表情に保つため、眉間にぐっ、と力を入れたゼノンは、表面上はあくまでも淡々とした声色のまま小さく肩を落としていた。
「そんなふうに言われたら、怒れなくなってしまう」
「っ、お、怒……?」
びく、と肩を震わせ、不安そうに瞳を揺らめかせるその姿さえ、今すぐ抱き締めたくなってしまうほど愛おしいのだから重症だ。
「若い連中に、あんなふうに囲まれて」
そこで、そっとシャーロットの耳元に顔を寄せたゼノンは、くす、と意味ありげな笑みを溢していた。
「オレが、嫉妬しないとでも?」
「!」
途端、息を呑み、全身を桜色に染めていくシャーロットは、その言葉の意味を正確に理解しているのだろう。
――自分の夫が、驚くほど心の狭い人間であるということを。
「貴女は少し無防備すぎる」
すでに二人の周りからは誰もいなくなってはいるが、それでも周りに悟られないよう、ゼノンは潜めた声で警告する。
嫉妬深い夫をそんなふうに煽ったら、今夜どんな目に遭わされてしまうか、すでに何度も経験済みだろう。
「……あ、あの……っ、ご迷惑になるので……っ、もう、帰……っ」
「貴女が迷惑なはずはないだろう」
慌てて帰ろうとする可愛らしい妻を、ゼノンは、至極真面目な顔で引き止める。
「で、ですが……っ」
「せっかくだ。見学していけばいい」
愛しい女性に、自分の勇姿を見たいと言われ、それを断る道理がどこにあるだろう。今まで血の滲むような努力を積み重ねてきた。それは紛れもなく、ゼノンに自信を与えている。
――妻を惚れ直させる自信も、今よりもさらに自分に夢中にさせる自信も。
シャーロットに期待以上の姿を見せ、その心を掴んで離さないという気持ちが滾る。
「アイツらも、貴女のような人に見られているとなれば気合いが入るだろう」
不敵な笑みを刻み付け、最後に「あぁ」と忘れてはならないと忠告する。
「ただし、オレの視界から出ていかないように」
そうしていつもより気合いの入ったゼノンが、先ほどシャーロットに声をかけてきた部下たちを完膚なきまでに鍛え上げるその姿を、シャーロットははらはらしながらも、輝く瞳でみつめるのだった。
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一方、怠惰なシスターが文字を教えなかったため、ローゼマリーは読み書きができなかった。
必死になんとか義理の父や兄に身振り手振りで伝えようとも、なかなか伝わらない。
なぜなら、彼女は火事で声を失ってしまっていたからだ──
そして次第に優しく文字を教えてくれたり、面倒を見てくれるラルスに恋をしてしまって……。
これは、義理の家族の役に立ちたくて頑張りながら、言えない「好き」を内に秘める、そんな物語。
※小説家になろうが先行公開です
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