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生まれて初めての…

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 ――――…


「やっぱり最上階か? いや、一階の方が見張れるか……クソ! 母ちゃんの隣の部屋が空いていたら、こんなに歯痒い思いはしないですんだというのにぃ!」

「父さん、さすがに今からじゃマンションを買ってもローンは組めないよ……」

「そんなもん、キャッシュで買うに決まっとろうが!」

 約二ヶ月ぶりに訪れた田井中本家は騒がしかった。俺は陸郎の隣で「元気な息子だ」としみじみ思いながら、温かい煎茶の入った湯呑みに口づける。

 危篤とは何だったのかとわざわざ辞書で調べたくらいに全快した陸郎は、バリバリ本家を仕切っていた。お陰で、陸郎の息子で俺の祖父の善治ぜんじが御年七十だというのに、いまだに指揮権を譲ってもらえず暇をもて余しているとのこと。それに伴い晩酌の回数と量も増えたのだとか。

 訪問して早々、俺から陸郎に大人しく当主の座を引くよう言ってくれと善治に促された。知らんがな。そもそも、外孫だとかΩだとか、同じ孫なのに内孫の従兄弟達と違って昔から俺を蔑ろにしてきた意地悪爺の言うことを何故、聞かねばならないのか。それに俺が本家に来たのは陸郎を説得する為じゃなく、可愛い我が子に約束の塩大福を食べさせる為だ。思い通りに事が運ばない善治は、時折歯を食い縛りながら俺を睨みつけてくる。

 まったく。こんな爺の下で育てば、従兄弟連中の本家信仰もわからないではない。自分達で得た力もない癖に何がそんなに偉いのか、βという自分達の性を棚に上げて俺を嘲る彼らには呆れしかない。善治は仕方ないにしても、従兄弟どもには会わずにここから立ち去りたいものだ。

 ……が、俺が来るなり陸郎はウキウキしながら印刷されたコピー用紙を座卓に並べると、開口一番にどの部屋が良いかと聞いてきた。何が何やらさっぱりの俺に、善治の妻の良子よしこがお茶を用意しながら説明してくれた。

 陸郎は宗佑の下で暮らす俺の様子を逐一知る為、同じマンションに部屋を買って住もうとしているらしい。たまたまマンションの最上階と一階が一室ずつ空いているらしく、どちらがいいかを俺に決めてもらおうと、インターネットからの情報をわざわざ紙に印刷したのだ。俺は新家で父さんはサラリーマンだから、本家の羽振りを知らないでいたが、やはり金持ちはやることがすごい。我が息子ながら、ものすごいマザコンっぷりに若干引いている。

 そんなわけで一通り書面に目を通した俺は湯呑みを置くと、買ってきた塩大福を懐紙に乗せ、菓子楊枝で四等分に切り分けながら陸郎を制止した。

「陸郎。私の為にその莫大な財産を使うのは止めなさい。それよりもちょこちょこお小遣いをもらえる方が、曾孫として圭介は嬉しいよ」

「母ちゃんの為なら一千万でも二千万でも出すぞ!」

「どこのセレブだ、お前は!」

 どうしてこんな息子になっちゃったんだ……! せめて常識の範囲内でお願いしたいものだ。

 話題を変えようと、俺は菓子楊枝を懐紙の上に置き、四等分した塩大福を陸郎の前に差し出した。

「この塩大福だけど、切っておいたから一つずつよく噛んで食べるんだぞ。年寄りは餅の類いを喉に詰まらせやすいからな」

「うん!」

 素直に俺に頷く陸郎に、幼き日のこの子を重ねた。ああ、皺くちゃになってもアーモンド型の目元は変わらないな。ほとんど父親似だと言われていた陸郎だけど、目元だけは俺に……恵に似ている。泣き虫で、甘えん坊で、弱虫で、子供達の中で一番俺にべったりだった。

 本当に、この子が元気になってくれて良かった。

 喜んで塩大福を食べる陸郎を見守る向かい側で、善治がほっとした様子でマンションの情報を印刷したコピー用紙を回収し始めた。本当にマンションへ引っ越すことにならないよう、これからは本家にもまめに顔を出すことにしよう。正直、あまり来たくはないのだが、仕方ない。我が子の為だ。

 俺の言いつけ通り、よく咀嚼して塩大福を食べ終えた陸郎に向けて、鞄の中から布巾に包んだ小さなタッパーを取り出した。

「それじゃあ、俺はそろそろ行くよ。これ昆布の佃煮だから。食事のお供にでも食べなさいね」

 そして立ち上がろうとすると、陸郎は俺の手を掴んで引き止めた。

「母ちゃん、今夜は泊まっていってくれよ。儂の部屋は広いし、他にも空いている部屋なら腐るほどあるから……」

「それはっ……!」

「何だ? 善治」

「いや……急に泊まるのは、ちょっと……準備もしてないし……」

 俺に宿泊を勧める陸郎に、善治が割って入った。が、二の句が継げずにしどろもどろになっている。はいはい。わかっていますよ。

 俺は陸郎の、ほぼ骨と皮だけの手を握って優しく断った。

「里中さんに早く帰ると言ってあるんだ。気持ちだけ受け取っておくよ。またすぐに来るからな」

「母ちゃんっ……!」

 熱い包容を交わす俺達。それを横目に、善治は安堵の息を吐いた。俺が陸郎の母の生まれ変わりだと周囲が認めたとしても、その扱いが変わるわけではない。特に、善治はΩという生き物そのものを毛嫌いしている。元々、可愛くない外孫なのだ。輪をかけて俺は、彼に嫌われている。

 名残惜しそうにする陸郎の頭を撫でてから、俺は部屋を後にした。廊下に出ると、おぼんにお茶菓子とお茶の入った急須を乗せた良子が「もう帰るの?」と俺に声をかけた。

「うん。あんまり長居しても本家の皆に迷惑をかけるだけだしね」

「ごめんなさいね。せっかく来てくれたのに……」

「いいよ、お祖母ちゃん。気にしてないから」

 良子は善治の妻とは思えないほど良識のある人だ。内孫の従兄弟と比べるでもなく、俺を同じ孫として可愛がってくれる。いい祖母だ。俺はこの人が人としても、祖母としても好きだ。

「そうだわ。これ、少ないけど持っていって」

「えっ? お小遣い? ……いいの?」

 良子が不意におぼんを床に置くと、スカートのポケットから小さなポチ袋を取り出し、俺に渡してくれた。少ないという割には厚みがある。

 ポチ袋を持ったまま鞄に入れられないでいる俺の手に、良子は苦笑して自分の両手を添えた。

「いいのよ。こっちの孫からはせびられるくらいだもの。本当に少なくてごめんね。また遊びにいらっしゃい」

「うん。ありがとう」

 ポチ袋を鞄の中に入れると、俺は良子に礼を言って長い廊下をペタペタと歩き出した。

 胸がじんと熱くなった。陸郎はともかく、良子は俺が恵の生まれ変わりだと知っても、今までと同じように孫として接してくれる。何よりこの心遣いがありがたかった。夫の善治が俺を毛嫌いしている手前、表立って俺を可愛がることはできずとも、こっそりお小遣いをくれるような優しい人なのだ。

 恵から圭介に変わっても、やはり俺は恵まれたΩだ。


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