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雫
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しおりを挟む――――…
「辞めた?」
「そうなんだよ。急遽ね。君はいつも通り見学だよね?」
「はい」
体育の時間。見学者の俺は保健室に行くと、そこには馬野先生ではなく代理の先生が駐在していた。馬野先生について尋ねると、退職したことを告げられた。
どうしたんだろう? 俺は不思議に思いつつも、中のソファに座ってハンカチで包んだ焼き菓子をローテーブルに置いた。
先日、学校をサボってシキと武虎の三人で行った動物園は楽しかった。昼食を終えた後、武虎の仲間の虎を観に行ったり、小動物と触れ合えるというコーナーでウサギに餌をあげたりと、充分満喫した。
特別だからと売店でソフトクリームを食べ、帰り際に虎のぬいぐるみとライオンのストラップを買ってもらった。二十歳間際の男にぬいぐるみなんて、と思われるかもしれない。でも、大きな猫みたいな虎は可愛くて今日のことを忘れさせないだろうってシキが言ってくれた。ストラップは俺の携帯電話につけた。小さいから重くないし、可愛くデフォルメされたライオンは常にシキが俺の傍にいるようで安心する。
帰りの車の中で「また行きたい」と呟くと、今度は隣の水族館もゆっくり回ろうと言ってくれた。
心なしか、体調も安定してきたような気がする。とはいっても、それはきっと羽柴さんが作ってくれた焼き菓子を常に食べているからで。お腹が空いた時に一気にたくさん食べるのではなく、少しずつ休憩時間の合間などにそれを摂取することで急激な空腹感、そして目眩や吐き気を抑えていった。
相変わらず、ご飯の類いは食べられないけれど、羽柴さん特製の甘めの食事を摂ることで難なく生活はできている。アロマオイルのティートゥリーも買って、今シキの自宅はその香りで満ちている。
不安はある。でも以前のような怖さはない。それはきっと二人が……シキが絶対に俺を離さないと約束してくれたからだ。
グラウンドでシュートを決める武虎の勇姿を窓越しで眺めながら、俺はクッキーを食べた。バスケ、上手いなぁ。
それにしても、どうして馬野先生は辞めちゃったんだろう? 保健室の中はすっかり、消毒液の匂いに満ちてしまっている。少しだけ気持ち悪い。
他の先生に理由を聞いても、きっと教えてくれないだろう。俺の血糖値の結果を聞きたかったけど……仕方ないか。
「悪いけど、少しここを空けるね。仕事をかけ持ちしてて、そちらも済ませたいんだ。他の生徒が来たら、内線で教えてくれるかな」
代理の先生が申し訳なさそうに両手を合わせ、俺に固定電話の内線番号を教える。今ここにいる生徒は見学者の俺だけだし、支障はないと踏んだんだろう。
頷くと、再度頭を下げながら先生は保健室から出ていった。
再び、ソファに座るとジャージのポケットの中に入れている携帯電話が震えた。バイブ二回だからメッセージだ。俺は携帯電話を取り出すと、内容を確認した。
当然、相手はシキからだった。
『検査の予約が取れた。注射は避けられないだろうが、頑張ったらご褒美に好きなものを買ってあげる』
短いメッセージに、俺は唇を尖らせた。いつまでも子供扱いして……俺は『わかった』と返信を打った。
今日、学校が終わったらシキと共に病院へ行くことになっている。俺が劣等種であることを把握しており、尚且つシキの信頼があるという医師による検査だ。多忙な人ということで、ぎゅうぎゅう詰めのスケジュールの合間を縫っての検査らしい。昔、一度だけ顔を合わせたことがあるけれど、あまり覚えていない。檻から出されてすぐのことだったからだ。
あれから六年も経ったし、病院に対する不安はさほどない。シキもいるし、注射も頑張れる……が、頑張る。うん。
俺のこの症状の原因がわかるのは少し怖い気もするけれど、結果が何であれ、きっと二人なら受け入れてくれる筈だ。そもそも厄介な劣等種を受け入れてくれたんだ。これ以上の何かがわかっても、きっと……
「ああ、いた」
「……馬野、先生?」
メッセージの送信ボタンを押す前に、突如保健室へ入ってきたのは退職したはずの馬野先生だった。俺は内心、びっくりして目を見開いた。
馬野先生は白衣を着ておらず、上下スーツの姿だった。手には大きなスーツケースを持っている。海外旅行? それを彷彿とさせるような大きなものだ。
何をしに来たんだろう? 俺が黙ったまま先生を見ていると、彼は「驚かせてすまない」とスーツケースをガラガラ引きながら、仕事用の机の前に来た。
「急遽、退職してね。まだ荷物を片づけていなかったから、取りに来たんだよ」
ああ、なるほど。だからスーツケースが馬鹿みたいに大きいのか。
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