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夢に咲く花
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しおりを挟む「こんな……所で……はぁはぁ……死んで、うぅっ……たまるかっ」
ナキイの体は他人よりも《零》に耐えていた。
白い清潔なベッドに横たわり、緑のそれに包まれ、おかげでいくらか光が和らぎ天井を見上げても眩しくない。
不意に湧き上がる強烈な吐き気と皮膚を切り裂かれるような痛みにシーツを握りしめ、背中を丸め腰を捻じり足を踏ん張る。
「ぐぅ……うう……はぁ……はあ……うぇ……」
何度意識を飛ばしたか知れない。意識が遠のき、目を覚まし、その度強烈な浮遊感と吐き気に襲われ、すでに吐ける物がない今は嗚咽だけをもらす。
ナキイはガチガチと歯を鳴らしながら、時計を見上げた。今度は気を失っていた時間は五分もない。
日頃の訓練の成果もあるが、ナキイは今プライドだけで正気を保っていると言っても過言ではなかった。
両親の教育方針で幼い頃よりあらゆる毒に対する耐性を付けていたのも関係しているかもしれない。そう思えばこれまであった反発心も少しは和らぐというものだ。
時間はというと、正午とうに過ぎもうじき三時になろうとしている。
巨大蜘蛛が出現し、毒を受けたと思しき時間よりすでに三時間以上が経過していた。
ナキイが体に違和感を覚えたのは、倒れた孝宏を発見した直後だった。
軽い痺れと若干の息苦しさ。
初めは気に留めるほどのない些細な変化だったが、それから五分もしない内に、全身に痛みと吐き気とが襲った。自覚してからの様態変化が異様に速い。
ルイの場合は症状が出てから、正気を失うまでにほとんど時間がなかった。それ比べ孝宏が倒れるまでの時間と、ナキイ自身の、気を付けていたのにも関わらず自覚症状がなかったのを考えると、受けた傷や毒の量で随分と差があるように思える。定かではないが、人種や体質なども関係してる可能性があるかもしれない。
鼻腔をサラッとした液体が垂れ出てきて、ナキイは鼻を乱暴に拭った。手にべっとりと付いた鮮血を見ても、苦しさで歪み強張った表情はほとんど変わらない。
手に鼻に付いた血は、次第に緑のそれにさらさらと吸い込まれ消えていった。その内ベッドの下に置かれた容器に溜まっていくのだ。そうやって小さい容器は半分弱程に容量を減らしてた。
ナキイは枕元に置いてある、精工に作られた二本の角が生えた昆虫の録音機を、汚れるのを構わずに手に取ると、再び部屋の時計をチラリと見上げた。
現時刻と鼻から出血とだけ吹き込み録音機を無造作に頬りだした。体を少し動かすだけで息が上がり、うまく息が吸えないために胸が激しく上下する。
毒に慣れた自分でもこれだけ辛いのだから、彼女はどれだけの苦しみと恐怖に襲われたのだろう。
ナキイはすでに正常でない頭で考えた。
長い赤い髪に黒い髪が見え隠れする、若いながらも大人の女性の色香を匂わせて、しかし思い出される声はハスキーで少年のようだった。
(あの時は助けなければと思って良くは見ていなかったが、アレはソウでなかったか?)
自身が倒れる前後の記憶は曖昧ではっきり覚えていない。だが裸の孝宏を見て強烈な違和感に襲われたのは確かだ。
(彼女には女性らしい胸があった。見間違えの可能性もある)
枕に埋めた頭をずらし横を向けばぐったりとベッドに横たわる孝宏がいる。
「シンドウ……はぁはぁっ……タカヒロ?……うぅっ……」
呼びかけに答えず苦し気に顔を歪ませ、孝宏からは耐えるかのような印象受ける。
過去の事例を見ても、一時間以上耐えた人間はいない。大多数が三十分以内に死亡しているとを鑑みれば、ナキイも孝宏もかなり耐えている方だ。
ナキイは顔面が蒼白するほどに歯を食いしばった。一人でも助かった人がいるのだから希望は捨てたくない。
そう、希望だ。
なぜ≪テア山の滴≫をルイに使ったのか。
大事な人にすら使えなかった薬を、罪と解っていてなぜ使ったのか。
自分自身でも理解出来ない理屈に突き動かされ、なぜそれに従ったのか。
今はそれこそあの人が零の突破口を開いてくれたのだと、ナキイは強く思っていた。
だがどれだけ耐えれば楽になるのか。先の見えない不安がナキイを追い詰めているのも事実。いくらナキイが屈強な兵士であろうと、気力にも体力にも限界はある。
「いっそのこと……っはあはあはあ……手っ取り早くっうぅ……楽になり……たい、かなぁ、うっ……」
もはや猶予はなく体が限界を迎える前に気力が尽きそうになっていた。
――ガチャ……――
部屋の廊下に繋がる扉が開いた。ナキイは体を起こさず、視線を向ける余裕すらなかった。医者か看護師か。はたまた魔術師か。
「タカヒロ………まだ死んでないよね」
ナキイの予想はどれも外れていた。
服は病人用の簡素な白い服を着て、腕に点滴を指したまま、もう片方を助手の女に支えられたルイだ。
ルイは入ってすぐ、左右の二つのベッドを見比べ、孝宏の寝ているベッドへゆっくりと近づいた。
通常テア山の滴を使えば、さほど時間を空けずに全回復するものだが、ルイは未だ支えがあれば歩ける程度しか回復していない。
ルイに続いて、深紅の長髪を低い位置で一つに束ね踝まである白い裾の長い薄手のコートをかっちり来ている女が入って来た。
彼女はヤネ・ハルマ。ナキイとと共にヘルメルの護衛に緊急招集された人物だ。
今回緊急招集された多くが近衛兵連隊の隊員で、この町で本隊と合流していた。
ヘルメルがソコトラからこの町への訪問を無理やり決めた時、急遽警護の為増員されたのだが、その中に魔術研究所の職員が数名いた。彼女はその内の一人だ。
ヘルメルはよく公務中にトラブルに引き起こすと一般的に有名だ。
だが、彼がトラブルを引き起こすのでも、ましてや巻き込まれているのでもなく、彼がトラブルを予見して自ら首を突っ込んでいるらしい、というのが兵士達の間で共通の認識になっていた。
なので、警護と直接関係ないであろう研究所職員の存在を知られた時、増員された隊員の間に動揺が走ったのは言うまでもない。
休暇中の者にまで徴集がかかったのだから今回は大事かもしれないと、僅かな間に皆が腹を決めていたのだ。そしていざ、事が起これば、想像以上の事態が大きく動こうこうとしている。
「ルイさん、早速始めても良いでしょうか。正直時間が惜しいです。できればすぐにでも始めたいのですが……始めますよ?」
ハルマは緊張が見て取れる程に全身を強張らせて、ルイに向かって早口で捲し立てた。
孝宏に気を取られていたルイは、ハッとして振り返ろうとしたが、後ろを振り返る事が叶わず、ナキイが視界入った所で返事をした。
「はい、お願いします。零でしたっけ。僕も知りたいですから」
ハルマは目を輝かせニッと笑って頷いた。
瀕死の患者を前にして不謹慎だが、ナキイには彼女の気持ちを痛い程理解できた。ナキイの金色の目も興奮してきらりと光る。こんな状態のナキイですらも笑っていた。
「では始めます。苦しいかもしれませんが我慢して下さい」
ハルマがナキイを包む緑のそれを消した。零の解毒をするにあたり少しでも不安要素を排除しようと言うのだ。
「っくぅ……あ………………はっぐぅぅ……」
ナキイを補助するすべての魔術が消えうせ、それまでとは比べ物にならない痛みや息苦しさがナキイを襲った。ナキイの中にもはや余裕は微塵もなく、目は見開き唇は紫になり思考も感情も消え失せた。
ハルマが呪文でなく術式を直接言い始めた。
複雑な魔術である場合、程度の差があっても、魔術師は術式をあえて口する。
魔術を安定させるためだ。想像力を補完するための呪文よりはよほどイメージが固まりやすいと言うのが理由だが、長い術式であれば時間がかかるし、通常であれば使いたくない手法だ。
ハルマも恐ろしく長い術式をつらつらと連ね、虚空を映した目でナキイを見下ろしている。早口で聞き取るのが困難な程であったが、それでもハルマが術式を唱え終えるまでに一分もかかった。
「さあ、効果を表してください」
術式が終わると同時にナキイの体が大きく歪んだ。いや、実際に歪んだわけじゃない。捻じれるような、または横にずれるような歪みを、ナキイ自身が感じたのだ。ナキイの荒い息がピタリと止まった。
「はぁっ……はぁっ……」
次に大きなゆっくりとしたうねりが足先から頭へ抜けていくと、それまでが嘘のように、ナキイの体ははっきりと軽く、あらゆる不調がすべて消えうせた。
黄色く色あせた視界が透明に輝き、夢でも見ているかのような瞬間は、ナキイに現実を理解させるのに時間をかけさせた。
「どう……ですか?」
ルイがナキイに尋ねた。ハルマもナキイが話すをじっと待っている。
ナキイは体を起こし、四肢をじっくり確認し、ベッドから降りた。痛みが吐き気が襲ってこない。快適そのものだ。
「凄い…………もう何ともない。まさか……嘘みたいだ」
「そこに寝て下さい」
何故立つと、ハルマの冷たい視線がナキイを見上げる。
一時は死ぬかもしれないと覚悟を決めていたのだから、少しくらいはしゃいだって許されるだろうに、だが彼女はそんなに甘くなかった。確認するまで分からないのだと無言でナキイを諭してくる。
大柄で筋肉豊かなナキイが背を丸めすごすごとベッドへ戻る。ハルマはナキイの脈を図り、手を足を顔を目を、丁寧に見ていく。最後に再び緑色のそれがナキイを包み込んだ。
「成功です。完全に健康体です。でもしばらくここで休んでいてください。データを取ります」
ハルマは鼻を大きく膨らませ、笑いだしそうになるのを堪えているので声が震えていた。ルイも無意識に緊張していた体の力を抜いて、頭を垂れて目を閉じた。
「凄い……本当に零から回復したのか?」
自身の身に起こったことにも関わらず、ナキイは実感がわかなかった。
実は零ではなく別の毒だったと言われるのではないかと疑いの眼差しをハルマに向けたが、当のハルマはそんなナキイの戸惑いに気づかずすでに孝宏に術を施している。ナキイの戸惑いを受け止めてくれたのは、意外にもルイだった。
「俺たちが受けた毒は間違いなく、零ってやつだそうですよ」
「それにしたって君は未だ一人で立てないのにも関わらず、どうして俺は……完全に普通だ」
「多分そもそも体内に入った毒の量が違っていたのと、後は僕の仮説でけど、おそらく僕の体内に…………いや、これはあなたの上司にでも聞いてください。説明したのでご存じのはずです」
ルイが火傷を負った原因の凶鳥の兆しの影響がまだ体内に残っているのでないかと、ルイは推測していた。
ソコトラで孝宏が魔術に掛かりにくく、かつ魔力をうまく使いこなせていないのは凶鳥の兆しがある為だと聞いていたからだ。
すでに長々と説明させられた後に、また同じ説明をナキイにする気になれない。
「そう……ですか。零が……そうですか……」
ナキイもようやく零から回復した実感が湧いてくる。
ルイの言葉を何度も脳内で反芻しする。自身の両手を見比べ、苦も無く自在に動く腕、掌を滑らし指先から伝わる振動を確かめる。次第に大きく脈打つ己の心臓に目頭が熱くなった。人前でなければ思いっきり泣いて叫ぶだろう。こんな時でも兵士たろうといる自分が嫌になる。
「彼はあなたの命の恩人ですよ」
ハルマが孝宏に術を施した後、ナキイに向かって言った。ルイではなくナキイに向かって。
「まさか零の解毒は………」
ナキイはルイを見て、再びハルマを見る。するとハルマは無言で頷いた。
「別に僕は奴らの体液に魔毒術が仕込まれている可能性について、ちょこっと申し上げただけですよ」
たいそうな事は何もしていない。ルイは首を横に振った。
「それは…………………たしか初期の段階で否定されていなかったか?」
ナキイは以前に呼んだ零についての報告書をじっくり思い出した。
零の検証の中にそのような単語があったのを記憶しているが、否定されるだけのきちんとした根拠もあったはずだった。
魔毒術とは魔術を用いて毒を服用した場合と同じ作用をもたらすもので、一般的には呪いと混同される場合が多い。
「初期の段階で否定されたのは、正体不明生物が直接魔毒術を使用している可能性です。毒を受けた患者から痕跡が見つからず、そもそも言葉を用いない生物が魔術を使えるとは考えられない事から魔毒術は否定されました。彼らの体液に仕込まれているとは誰も考えていなかったのですよ」
考えもしなかったのは、技術的に不可能だと言われていたからだ。
液体に魔術を固定する技術はあるが、体液となると常に流動し、排出されていることから体液中にとどめるのは不可能とされていた。だから誰も初めから体液に魔術が仕込まれていると考えもしなかったのだが、ルイの一言がその考えを反転させた。
「そこのタカヒロさんは六眼持ちで、無色のはずの毒に色を見たとおっしゃたそうです。初めに聞いた時は震えましたよ。新しい技術が気づかない内に、何度も見ていた中にあったのですよ?……興奮しました」
ハルマはうっとりと目を閉じ顔を上げ、両手をゆったりと左右に広げる。天井空の光を一身に受けんばかりだ。
きっと彼女の脳内ではファンファーレがなっているに違いない。目を閉じた瞼の裏で、興奮した瞬間を思い出し味わっているのだろう。
「つまり零とかいう毒の解毒魔術を完成させたのは僕じゃないです。恩人なんて大袈裟ですよ」
「あなたがいなければ、結局零は今も致死率100パーセントのままだったのです。胸を張って良い事です。それに術が完成した最後の決め手はあなたではないですか」
「母さんのノートに載っていた術を思い出しただけです」
「ご謙遜を。胸を張っても良い事ですよ」
ハルマはコロコロ笑っているが、ルイにしてみたら謙遜でもなく本気で、隠すつもりもなくため息を吐いた。
実力とは関係ない所で持ち上げられるのは嫌だったからだ。例えば、自身の知識で零の解毒魔術を完成させたのであれば、ルイも喜んで賛辞を受け入れただろう。
「なるほど、感謝しなくてはいけないな。本当にありがとう」
ナキイは感心してルイを見た。彼自身は不本意であるようだが、魔術毒であると見破り有効である術を指摘する彼の知識は称賛に値する。
ルイはどう見ても十代か、二十歳そこそこの若者だ。この若さで魔術に精通しているとなると、相当の努力家と見て間違いない。おせっかいにもそれが彼自身の意思ならば良いがと、ナキイは思いを馳せた。
「あの、どうかしましたか?」
ルイがナキイの視線に気が付いて訝し気に首を傾げた。ナキイは職業柄身に着けた、人当たりの良い笑顔を浮かべる。
「いえ、何でもナイデス………」
明らかに誤魔化すのに失敗した。不自然な片言はまるで何かあったと言わんばかりだが、ルイは≪はあ≫と気のない返事を返しただけで、しつこく尋ねる真似はしないもののナキイに疑惑の目を向けている。
「あ、いや、タカヒロさんが早くを覚ませば良いなと……」
さっきもそう言えば良かったが、後悔しても後に立たず。ナキイは笑ってごまかし、誰も見てない頃合いでこっそりため息を吐いた。
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