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夢に咲く花

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「魔法でパパッと治ったりしないのかよ。異世界だろうが」


 これがゲームならば、僧侶の魔法で簡単に治るか、特別な薬草が必要になるイベントが発生していることだろう。

 孝宏は左手の親指の付け根を噛んだ。視線はやや下、ナキイの足元に向けられ、颯爽と歩くナキイの足が時折振れるたび、歯をぐっと食い込ませた。


――kiiiikiiiikiiii――


 巨大蜘蛛のおぞましい鳴き声が全身を撫でまわし、悪寒が走る。孝宏はバッと後ろを振り返ったが、やはり巨大蜘蛛はひっくり返ったままだ。


 そのままでいてくれと、現実は何て残酷なのだろうと、孝宏が心の中で思った時だった。

 肩から斜めに掛けていたルイのカバンの中で、何かが動き重みを増した気がした。


「ひっ!」


 孝宏は小さく悲鳴を上げ、慌てて包みと鞄を後ろに放りなげた。

 離れた位置からしげしげと鞄と巨大蜘蛛を交互に眺めた。
 巨大蜘蛛に先程と変わった様子はなく、もがいているだけに見える。石畳の上に放り投げられた鞄も、中で何かが動く気配はない。


「落ち着け……落ち着け……」


 張りつめた糸が弾かれ、激しく揺れるのを、さらに引っ張り揺れを鎮めようとしている。まるで自分の体ではない、そんな感覚だ。
 動揺は簡単に収まりそうにない。

 孝宏はつま先で鞄を軽く蹴ってみた。次にそっと摘まんでさっと裏返したが、やはり変化はない。


「最後だ」


 孝宏は息を飲んで、恐る恐る鞄の口を開いた。

 鞄を渡された時は驚くほど軽く、中に何も入っていないのでないかと思ったほどだった。だが、実際は厚さ一㎝ほどもある紙の束が入っていた。

 紙幣よりやや大きく、白い紙に黒いインクでびっしりと文字が書かれている。見覚えのある文字と記号の羅列。


「これ、術式か?」


 紙の束を親指でずらしてパラパラと軽く捲ってみると、どの紙にも同じような文字がびっしりと並び、最後までめくり終わり裏返すと、大きく火球と書かれていた。


 孝宏は目を見開いた。


 火球と書いてある以外には、大水とか緊縛とか、睡眠などと書いてあるところを見ると、様々な種類があるようだ。

 束の終いの方は何やら物騒な単語が並ぶ。ならばと孝宏は前の方を確かめた。すると初めの一枚には治傷と書かれてあり、孝宏の心臓は大きく鼓動した。


「やっぱり、これってまさか……」


 逸る気持ちを抑え、一枚一枚丁寧に見ていく。十数枚めくったところで、≪解毒≫の文字を見つけた。


「あの!これをルイに使えませんか!?」


 孝宏の大きな声が静まり返った通りに響く。


 解毒と書かれた紙を引き抜き、急いでナキイの傍に駆け寄った。
 ぼやぼやしている間に随分と距離が開いてしまった。自身の足の痛みなど忘れ、もつれそうになる足を何とか前に出す。


「何か見つけたのか?」


 立ち止まりこちらを振り向くナキイ。

 何か様子が変だ。
 一見落ち着き払った表情に、僅かにうわずった声色。

 一瞬脳裏をかすめた違和感を振り払い、孝宏はナキイに見つけた紙を見せた。


「魔術札か」


 表の術式を見て、すぐにナキイは言った。


「裏に解毒って書いてあります。これでルイ、治りませんか?」


 ナキイはすぐに頷かず、まるで思案するかのように瞳を揺らした。
 ナキイの表情は険しくなっていくのを、孝宏は走って乱れた息をと問えながら不安げに見上げていた。その間に先程の違和感が再び頭をもたげ始めた。


「ルイ?」


 気づいてしまった時、孝宏は息を吸うのも瞬きも忘れ硬直した。

 ナキイに担がれた時すでに衰弱し始めていたとはいえ、あんなに暴れていたルイが、今は抵抗も弱々しく、ナキイに身を預けている。かろうじで息はしているようだが、今にも途切れてしまいそうなほどか細い。


「ルイ?」


 孝宏がルイの頬に手を当てると、ルイは首を振って嫌がる。


「確かに時間はないか。使ってみるか」


 ナキイは独り言のように呟いた。


 そこから数メートル先にある、緑の野菜を積んだリアカーの陰に、ナキイは身を屈め、ルイを足から慎重に下した。頭を打たないよう手で庇いながら寝かせると、ルイの上に膝を付いて跨り、ルイの両手を頭の上で押さえつけた。


「魔術札を」


 孝宏もリアカーの陰にしゃがみ込み、魔術札をナキイに渡した。
 魔術札を受け取ったナキイはそれをルイの顔に押し当て、紙の上から人差し指で三回叩く。

 すると文字がジワリとにじみだし、薄くなり、終いには消えてしまった。文字が消え、ただの紙になったそれをどかすと、ルイの顔に文字が黒いシミになり、溶けて消えていくところだった。


「これで治るなら、すぐにでも変化が起きるはずなんだが……」


 しかしいくら待ってもルイに変化は現れない。


「残念だが……」


「まだ!まだかかるのかもしれないし!もう少し待てばきっと!」


 すぐに出るはずの変化がない。それが何を意味するのか、孝宏にもわかっていたが、それでももう少しまでば、ルイが目を覚ますような気がして言葉を遮った。


「諦めろ。これは効かなかった」


 ナキイの容赦ない言葉が胸に突き刺さる。


「そんな!もう少し……そうか。一枚じゃ足りなかったんだ。探せばもっとあるかもしれない。」


 どうしても諦めきれない孝宏が、紙の束から解毒の文字を探しているのを見て、ナキイはぐっと唇を噛んだ。

 いくら探しても見つからないのだろう。孝宏は何度も何度も紙を見返しては、焦り涙が滲む。
 たとえあったとしても、同じ魔術を何度重ね掛けしたところで、効果は変わらないことを、ナキイは重々に承知していた。

 ナキイは腰のベルトに下がる茶色い、卵型のストラップをぐっと握りしめ、目を閉じ俯き苦悶の表情を浮かべる。


「何で……何で、見つからない。どうして……」


 本来なら一刻も早く治療が受けられる病院に向かうべきところだ。だというのに、ナキイは聞こえてくる涙声に耳を傾けながら、歯を固く食いしばった。

 紙の束はこんなにも厚いのにも関わらず、同じ札は一つとしてなく、当然ながら≪解毒≫の文字も見つからない。

 焦れば焦るほどに、札が一枚、また一枚と手から零れ落ちていく。その内手元の束は薄くなり、地面に、ルイの上に落ちた札が風に煽られ、宙に舞った。


「今は時間が惜しい。病院なら治療が受けられるかもしれない。急ぐぞ」


 ナキイは孝宏の頭を優しく撫でた。

 青白く血の気の引いた顔。強張って引きつった口元からこぼれる息は荒い。

 孝宏の心情が手に取るように伝わってきても、ナキイには、安心させてやれるような言葉は見つからなかった。



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