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冬に咲く花
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下を見てしまえば、ここが戦場であると思い出してしまうだろう。命の重さに押し潰されるだろう。
猛る声が聞こえる。
火が吠える音が聞こえる。
化け物が打ち鳴らす顎が、砕かれる音が聞こえる。
顎に砕かれる音が聞こえる。
誰かの悲鳴が聞こえる。
孝宏は歯をぐっと食いしばった。
「もう少しだ。よく頑張ったな」
声がして目を開くと、壁の頂上は目前で、ぼやける視界の中、男がこちらを見下ろしいた。
男はグッと身を乗り出し、無理な態勢のまま孝宏の背中に腕を回した。
男がすぐに引き上げないのは、自身が不安定なまま引き上げ、もしもバランスを崩しランプを割れば、下に残っている仲間の兵士たちの命の保証はないからだ。
まだ助かった訳ではないのに、背中に温もりを感じたとたん、孝宏は目頭が熱くなった。
両手はランプを抱えるために塞がっている。こぼれそうになる涙は拭いようがない。
もう今更な気もするが、人前で泣くなんて格好悪くて、とっさに顔を反らす。
男には、こんな時にまで強がる少年を見て、胸にこみ上げてくる物があった。
自分たちではどうしても太刀打ちできないこの状況に置いて、現状では唯一とも言える、対抗手段があった奇跡に感謝し、それと同時に、子供を巻き込まなければならなかった、自分たちの力不足が恨めしい。
「もう大丈夫だ。よく頑張ったな」
孝宏は涙で濡れた目で、もう一度男を見上げた。壁の終わりが見えてくる。
「あ、昨日の……」
よく見ると男は昨晩、カダンと一方的に喧嘩した後、声を掛けてきたあの兵士だった。
男の頬は無数の傷と流れる血で汚れ、砕けた鎧の下に覗く服は、赤黒く濡れている。
それでも白い歯を覗かせ笑う顔には、痛みなど微塵も感じさせない。
「………ごめんなさい……」
やっと絞り出した言葉は、謝罪の言葉だった。
「どうして謝るんだ」
男は昨晩と同様笑い飛ばした。
もしも自分が現実を受け入れていれば、この人も傷つかなかったのだろうか。こんな事態にはならなかったのだろうか。そ
んなことを思うと、孝宏は涙が止まらなかった。
慎重に孝宏を引き上げる魔術師たちは、この場の誰よりも冷静に見えていたのだが、実は内心酷く焦っていた。
ここに来て、何故か孝宏にかけた魔術がまた不安定になり、ほころび始めたのだ。
初めにも、詠唱の途中で魔術が打ち消され、孝宏を引き上げるまでにだいぶ時間を浪費してしまった。
それが兵士たちの退避を遅らせ、無駄に犠牲をだす結果となったのだ。
戦場という特殊が状況が精神を乱し、魔術に影響している。
少なくとも、殆どの魔術師たちはそう考えていた。
多少は魔術師たちにも、精神の乱れはあったかもしれない。
しかし、大きな要因は、孝宏自身にあるのを魔術師たちは知らなかった。
もしも知っていれば、引き上げるのに魔術など使わず、ロープなどを使い、確実な方法を取っていただろう。
これは、昨晩の時点で孝宏の体質を把握していたのにも関わらず、伝えていなかったアベルの失態と言えた。
それらの事実を知らない魔術師たちのプライドは傷つけられ、焦りを生み、ついには更なる混乱を招く結果となってしまった。
「坊主はもう大丈夫だ!総員退避!」
男が孝宏の背中に手を回したのを確認した魔術師が、気を早まり、そう叫んだ。
下から見れば、孝宏が抱えられているように見えたのも、兵士たちの状況を考えれば無理からぬことだ。
魔術師の号令を皮切りに、残っていた兵士たちは、次々と壁を登り始めた。
カダンとカウルは獣姿のまま、大きく飛びはね、壁に前足を掛け自力で壁を乗り越える。
二人の無事を確認すると、孝宏はほっと一息ついた。
「もう少しで……」
もう少しですべての兵士が、壁の向こうへ消える。
もう少しで助かる。
もう少しで化け物を焼き払う事が出来る。
もう少しですべてが終わる。
もう少しで、そうつぶやく孝宏は間違っていない。
そう、もう少しだったのだ。
まだ、孝宏は助かっていなかった。
猛る声が聞こえる。
火が吠える音が聞こえる。
化け物が打ち鳴らす顎が、砕かれる音が聞こえる。
顎に砕かれる音が聞こえる。
誰かの悲鳴が聞こえる。
孝宏は歯をぐっと食いしばった。
「もう少しだ。よく頑張ったな」
声がして目を開くと、壁の頂上は目前で、ぼやける視界の中、男がこちらを見下ろしいた。
男はグッと身を乗り出し、無理な態勢のまま孝宏の背中に腕を回した。
男がすぐに引き上げないのは、自身が不安定なまま引き上げ、もしもバランスを崩しランプを割れば、下に残っている仲間の兵士たちの命の保証はないからだ。
まだ助かった訳ではないのに、背中に温もりを感じたとたん、孝宏は目頭が熱くなった。
両手はランプを抱えるために塞がっている。こぼれそうになる涙は拭いようがない。
もう今更な気もするが、人前で泣くなんて格好悪くて、とっさに顔を反らす。
男には、こんな時にまで強がる少年を見て、胸にこみ上げてくる物があった。
自分たちではどうしても太刀打ちできないこの状況に置いて、現状では唯一とも言える、対抗手段があった奇跡に感謝し、それと同時に、子供を巻き込まなければならなかった、自分たちの力不足が恨めしい。
「もう大丈夫だ。よく頑張ったな」
孝宏は涙で濡れた目で、もう一度男を見上げた。壁の終わりが見えてくる。
「あ、昨日の……」
よく見ると男は昨晩、カダンと一方的に喧嘩した後、声を掛けてきたあの兵士だった。
男の頬は無数の傷と流れる血で汚れ、砕けた鎧の下に覗く服は、赤黒く濡れている。
それでも白い歯を覗かせ笑う顔には、痛みなど微塵も感じさせない。
「………ごめんなさい……」
やっと絞り出した言葉は、謝罪の言葉だった。
「どうして謝るんだ」
男は昨晩と同様笑い飛ばした。
もしも自分が現実を受け入れていれば、この人も傷つかなかったのだろうか。こんな事態にはならなかったのだろうか。そ
んなことを思うと、孝宏は涙が止まらなかった。
慎重に孝宏を引き上げる魔術師たちは、この場の誰よりも冷静に見えていたのだが、実は内心酷く焦っていた。
ここに来て、何故か孝宏にかけた魔術がまた不安定になり、ほころび始めたのだ。
初めにも、詠唱の途中で魔術が打ち消され、孝宏を引き上げるまでにだいぶ時間を浪費してしまった。
それが兵士たちの退避を遅らせ、無駄に犠牲をだす結果となったのだ。
戦場という特殊が状況が精神を乱し、魔術に影響している。
少なくとも、殆どの魔術師たちはそう考えていた。
多少は魔術師たちにも、精神の乱れはあったかもしれない。
しかし、大きな要因は、孝宏自身にあるのを魔術師たちは知らなかった。
もしも知っていれば、引き上げるのに魔術など使わず、ロープなどを使い、確実な方法を取っていただろう。
これは、昨晩の時点で孝宏の体質を把握していたのにも関わらず、伝えていなかったアベルの失態と言えた。
それらの事実を知らない魔術師たちのプライドは傷つけられ、焦りを生み、ついには更なる混乱を招く結果となってしまった。
「坊主はもう大丈夫だ!総員退避!」
男が孝宏の背中に手を回したのを確認した魔術師が、気を早まり、そう叫んだ。
下から見れば、孝宏が抱えられているように見えたのも、兵士たちの状況を考えれば無理からぬことだ。
魔術師の号令を皮切りに、残っていた兵士たちは、次々と壁を登り始めた。
カダンとカウルは獣姿のまま、大きく飛びはね、壁に前足を掛け自力で壁を乗り越える。
二人の無事を確認すると、孝宏はほっと一息ついた。
「もう少しで……」
もう少しですべての兵士が、壁の向こうへ消える。
もう少しで助かる。
もう少しで化け物を焼き払う事が出来る。
もう少しですべてが終わる。
もう少しで、そうつぶやく孝宏は間違っていない。
そう、もう少しだったのだ。
まだ、孝宏は助かっていなかった。
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