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第六章 湖のほとり
六の五
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新選組も人数が増えて、これまでの屯所では手狭になったというので、壬生から西本願寺に屯所を移してすぐのころだった。
信十郎と平助は、その近くの飲み屋の座敷で酒を飲んでいた。
時刻は五ツとか五ツ半(午後八時から九時)くらいなものだったろう。
栄太は酒も飲めないのについてきて、飲んでもいないのに、うつらうつらとしはじめ、半刻後にはもう部屋のすみで横になって寝ていた。若者特有の強烈な睡魔に抗えなかったようだった。
栄太はあの日いらい、人が変わったように平助を慕うようになった。それはもはや尊崇といってもいいほどで、場合によっては従僕のような態度で接することさえもあった。それはちょっと、当の平助自身も困惑してしまうほどの好意のよせようだった。
あの日、平助は栄太に、命を無駄にするなと云った。
それは、土方の云っていた、命をかけて働けという言葉とは、正反対の意味を含んでいたが、だが、なにか栄太の心に突き刺さるものがあったに違いない。
栄太も、そうしておごりを払拭してしまえば、純朴な少年にすぎなかった。行動のひとつひとつに、見るからに若々しい活力がみなぎっていたし、何事にたいしても一途に取り組むし、それがゆえに融通のきかないところもあったが、かといって窮屈な印象もない、まっすぐな若者だった。
なにかの流れで、女の話になった。ここの飲み屋の女中が可愛いと隊士のあいだで噂になっているとかいう話からだった。
平助はまったくその手の話が苦手で、この時も信十郎が、
「好きな女のひとりやふたりはいるでしょう」
と問いかけても、ちょっとはにかんだような笑みを浮かべて、
「さあ、いたらいいんですけどね」
などと、はぐらかすようなことを云った。
「世の中には、女性に興味がない人がまれにいるようですが、あなたもそうですか」信十郎はちょっとからかうように訊いた。
「そうかもしれません」
「宮本武蔵みたいですね」
「いえ、ほんとうは興味がないわけではないんです。ただ」と平助はちょっと云いよどんだ。
「ただ」信十郎は先をうながした。
「あまり人には話したくないのです。男女の関係などは、人に話すべきではない、といってもいいかな」
「女性とのつきあいは密やかに、と云ったところですか」
「そうですね、そんなところですね」
平助はほほ笑んで云って、今度は信十郎に訊いてきた。
「そう云うあなたはどうなんです」
「俺は前にも云いましたでしょう。国にいいなずけがいますから」
「黙っていれば、多少遊んだところで、わからないんじゃないですか」
「おや、これは物堅い藤堂隊長の言ともおもわれませんな」
ふたりはいっしょになって笑った。
「それよりも」と平助は話を無理に変えるように云った。「ご存じですか。噂になっていますよ、川井さんの、秘剣はやかぜ」
信十郎は、ちょっと困惑げな顔をした。
秘剣はやかぜが、隊内で噂になっているのは、知っていた。
どこで秘剣などという話の種が漏れ出したのかはわからない。明葉念流のことに詳しい人間が隊内にいたのかもしれないし、ひょっとすると、信十郎自身が、飲み会の席かなにかで、酔った勢いで、ついぽろりと話してしまったのかもしれなかった。
なにか秘剣という言葉が好奇心を刺激でもするのだろうか、はやかぜの存在がひとり歩きしていって、とんでもない凄まじい奥義――絶対無敵の必殺剣のように思われてしまっているようだった。
秘剣はやかぜという技は、端的に云えば、同調現象を利用した、
「釣り技」
であった。
それは、馬庭念流を修め、さらに独自の工夫を凝らして明葉念流を起こした開祖喜多山如雲斎が、ある日、道を歩いていた時に、前から来た女性をよけようと右へ動いたら相手も同じ方向に動き、左へ動いたら相手も同じ方向に動く、ということを数回くりかえしたことに、着想を得て編み出した剣技だという。
剣の微妙な動きによって、敵を牽制し惑わせ、こちらの動きに相手の動きを同調させて、隙を生み出し、そこへ必殺の一撃を打ち込む、という技であった。
だが、そのはやかぜは、免許をあたえられる時に師匠から伝授される、いくつかある秘剣のうちのひとつにすぎなかった。秘剣のなかでも簡単な部類にはいるし、別段特殊な技というわけでもなかった。実際、福井の城下ではやかぜを使えるのは、十人か二十人くらいはいるはずだった。
しかも、はやかぜを教授された時、師匠からは、
――卑怯な技だから、あまり使うな。
と念を押されたくらいの技で、これが信十郎の得意技だと認識されてしまうのは、困惑せざるをえないのだった。
ただ、はやかぜが信十郎の性に合っているのはたしかで、ほんとうは自分は卑怯な人間なのではないか、という気もするくらいだった。
「どうなんです。噂は本当なんですか」
と平助は剣士としての好奇心を顔ににじませて訊いた。
信十郎はただ、
「あったら楽に勝てるんですけどね」
と苦笑して答えただけだった。
信十郎と平助は、その近くの飲み屋の座敷で酒を飲んでいた。
時刻は五ツとか五ツ半(午後八時から九時)くらいなものだったろう。
栄太は酒も飲めないのについてきて、飲んでもいないのに、うつらうつらとしはじめ、半刻後にはもう部屋のすみで横になって寝ていた。若者特有の強烈な睡魔に抗えなかったようだった。
栄太はあの日いらい、人が変わったように平助を慕うようになった。それはもはや尊崇といってもいいほどで、場合によっては従僕のような態度で接することさえもあった。それはちょっと、当の平助自身も困惑してしまうほどの好意のよせようだった。
あの日、平助は栄太に、命を無駄にするなと云った。
それは、土方の云っていた、命をかけて働けという言葉とは、正反対の意味を含んでいたが、だが、なにか栄太の心に突き刺さるものがあったに違いない。
栄太も、そうしておごりを払拭してしまえば、純朴な少年にすぎなかった。行動のひとつひとつに、見るからに若々しい活力がみなぎっていたし、何事にたいしても一途に取り組むし、それがゆえに融通のきかないところもあったが、かといって窮屈な印象もない、まっすぐな若者だった。
なにかの流れで、女の話になった。ここの飲み屋の女中が可愛いと隊士のあいだで噂になっているとかいう話からだった。
平助はまったくその手の話が苦手で、この時も信十郎が、
「好きな女のひとりやふたりはいるでしょう」
と問いかけても、ちょっとはにかんだような笑みを浮かべて、
「さあ、いたらいいんですけどね」
などと、はぐらかすようなことを云った。
「世の中には、女性に興味がない人がまれにいるようですが、あなたもそうですか」信十郎はちょっとからかうように訊いた。
「そうかもしれません」
「宮本武蔵みたいですね」
「いえ、ほんとうは興味がないわけではないんです。ただ」と平助はちょっと云いよどんだ。
「ただ」信十郎は先をうながした。
「あまり人には話したくないのです。男女の関係などは、人に話すべきではない、といってもいいかな」
「女性とのつきあいは密やかに、と云ったところですか」
「そうですね、そんなところですね」
平助はほほ笑んで云って、今度は信十郎に訊いてきた。
「そう云うあなたはどうなんです」
「俺は前にも云いましたでしょう。国にいいなずけがいますから」
「黙っていれば、多少遊んだところで、わからないんじゃないですか」
「おや、これは物堅い藤堂隊長の言ともおもわれませんな」
ふたりはいっしょになって笑った。
「それよりも」と平助は話を無理に変えるように云った。「ご存じですか。噂になっていますよ、川井さんの、秘剣はやかぜ」
信十郎は、ちょっと困惑げな顔をした。
秘剣はやかぜが、隊内で噂になっているのは、知っていた。
どこで秘剣などという話の種が漏れ出したのかはわからない。明葉念流のことに詳しい人間が隊内にいたのかもしれないし、ひょっとすると、信十郎自身が、飲み会の席かなにかで、酔った勢いで、ついぽろりと話してしまったのかもしれなかった。
なにか秘剣という言葉が好奇心を刺激でもするのだろうか、はやかぜの存在がひとり歩きしていって、とんでもない凄まじい奥義――絶対無敵の必殺剣のように思われてしまっているようだった。
秘剣はやかぜという技は、端的に云えば、同調現象を利用した、
「釣り技」
であった。
それは、馬庭念流を修め、さらに独自の工夫を凝らして明葉念流を起こした開祖喜多山如雲斎が、ある日、道を歩いていた時に、前から来た女性をよけようと右へ動いたら相手も同じ方向に動き、左へ動いたら相手も同じ方向に動く、ということを数回くりかえしたことに、着想を得て編み出した剣技だという。
剣の微妙な動きによって、敵を牽制し惑わせ、こちらの動きに相手の動きを同調させて、隙を生み出し、そこへ必殺の一撃を打ち込む、という技であった。
だが、そのはやかぜは、免許をあたえられる時に師匠から伝授される、いくつかある秘剣のうちのひとつにすぎなかった。秘剣のなかでも簡単な部類にはいるし、別段特殊な技というわけでもなかった。実際、福井の城下ではやかぜを使えるのは、十人か二十人くらいはいるはずだった。
しかも、はやかぜを教授された時、師匠からは、
――卑怯な技だから、あまり使うな。
と念を押されたくらいの技で、これが信十郎の得意技だと認識されてしまうのは、困惑せざるをえないのだった。
ただ、はやかぜが信十郎の性に合っているのはたしかで、ほんとうは自分は卑怯な人間なのではないか、という気もするくらいだった。
「どうなんです。噂は本当なんですか」
と平助は剣士としての好奇心を顔ににじませて訊いた。
信十郎はただ、
「あったら楽に勝てるんですけどね」
と苦笑して答えただけだった。
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