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第六章 湖のほとり
六の三
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「川井さん」
と平助は、部下ではあるが年上の信十郎を立てるようにして、いつも呼ぶのだった。
そして常に信十郎に対して敬語を使う。他の隊士たちの前では、つかわないこともあったが、信十郎が、そんな丁寧な言葉づかいはやめてくれと云っても聞かないのであった。反対に、平助のほうからもっとぞんざいに話してくれていい、などと云いだすしまつで、けっきょく、お互い丁寧な言葉で会話をしていたのだった。
平助はこれまで、荒々しい人間に囲まれて、気脈を通じあえる人とはなかなか出会えなかったのかもしれない。沖田総司や斎藤一という、新選組結成当初からの同年代の朋輩とは、もちろんうまくやっているようだが、隊務となると気軽に相談できるものがいなかったようだ。へたに配下の隊士に相談を持ちかけると、侮りをまねく結果にもなりかねない。若い平助には、粗暴な隊士たちをまとめていくのに、そうとうな心労があったことだろう。
そして、初めて、気軽に悩みをうちあけられる人間があらわれた。
――川井さん、どうも私は部下からなめられているようで……。
やがてはそんな愚痴めいた相談もてしてくるようになった。
実際には、信十郎がなにか適切な助言をしたというわけではなく、ただ愚痴を聞いてやったり、自分ならこうする、というようなことを話しただけだった。信十郎自身、これまで藩の組織のなかで働いたという経験もないので、残念ながら平助の悩みを解消するほどの力にはなれなかったのだが、それでも相談できる相手ができたことで、彼はずいぶん気持ちが楽になったようだった。
そんな中、小畑栄太が同じ隊に配属された
彼はなにか自分が特別な人間であるような錯覚をもったまま、社会に出てきたような人間だった。
まだ声変わりしたばかりの、ときどき不安定な抑揚で喋るような、十六歳の若さということもあって、世間をしらず自負に凝り固まっていたのだった。
それは栄太の出自も関係していただろう。
彼の家系は代々幕府の旗本だったが、父が城づとめを嫌って、家督を弟にゆずって野に下ったのだった。それは六年ほど前の話だったが、彼は父に対する反抗心もあって、自分は旗本であるという自尊心を捨てなかった。大人になったら手づるをたぐって、また旗本に戻るつもりでいたのだった。
そうして江戸で居合の腕をみがいている時、道場に新選組の勧誘がきた。
――ついに、待ち望んでいた時節が到来したのだ。
栄太は新選組に入って活躍するのが、幕府に帰参する手っ取り早い手段だと考えた。
残念ながら、いちど捨てた旗本という地位を、そう簡単に取り戻せるものでもないのだが、そこはやはり、世間を知らない若者ゆえの、ある意味での純粋さだったのだろう。
そんな人間だから平助に対して、――出自もさだかではない、しかも、人生経験も積んでいるようには見えない若い上役に対して、敬意などは持ちあわせず、最初から小馬鹿にしたような態度をしめしたのだった。
――藤堂さん、隊長なんですから、もうちょっとしっかりしてくれないと困ります。
――どうしていつもそう不決断なんですか。
――人に意見を求めてばかりいないで、少しは自分の意志をもって、部下に命令してください。
ことあるごとに、そんなことをずけずけと云うのだった。
平助は、いつも苦笑して聞き流しているものだから、みかねた信十郎が時にはたしなめたりもしたのだが、栄太は、まったく云うことを聞こうとはしなかったのだった。
八番隊に出動命令がくだったのは、年の暮れも押し詰まった、底冷えのする日のことだった。
長州の浪士数人が、五条通りのさきをずっと東に行った清閑寺村の一軒に潜伏しているのを、密偵をしていた仙念の藤次が突きとめたのだった。
清閑寺村は京のはずれの、山の狭間の閑静な集落で、そんなところまで浪士の足どりをたどったのは、藤次の執念の探索だったと云っていいだろう。
夜陰に乗じて、隊士たちは隠れ家へと向かった。
空には、満月に近い月が中天にさしかかっていた。
十二月の月は冴え冴えとして氷のように冷たく見え、実際吐く息が月明かりにてらされて、灰色にふわふわと空中を流れていくのだった。
移動する間じゅう、信十郎は、手も脚もがくがくと震えながら歩いていた。寒さのせいばかりではない。真剣での斬りあいなどは初めてだったし、自分が斬られる恐怖も、人を斬らなくてはならない恐怖もあった。屯所を出るときからずっと、腹のなかからこみあげてくる吐き気を無理に抑えこんで、歩いて来たのだった。
「怖いですか、川井さん」
そっと、平助が声をかけてくれた。
信十郎は答えに窮した。心情を吐露してしまえば、臆病者とそしられそうだったし、かといって、怖くないと云えるほど強い心は持っていなかった。
「なに、心配することはありません」平助は普段通り、ほほ笑みながら話すのだった。「意外と、戦闘が始まってしまえば恐怖などどこかへ行ってしまいますし、終わってみれば、こんなもんか、という程度のものです」
信十郎は驚いた。実際驚いた顔をしてしまったかもしれないが、闇にまぎれて平助には気づかれなかっただろう。
――さすがに、何度も白刃の下をくぐってきた人間は違うな。
身体の震えが、少しやわらいだように思えた。
やがて、八番隊の隊士たちは、浪士たちの隠れ家へと到着した。
と平助は、部下ではあるが年上の信十郎を立てるようにして、いつも呼ぶのだった。
そして常に信十郎に対して敬語を使う。他の隊士たちの前では、つかわないこともあったが、信十郎が、そんな丁寧な言葉づかいはやめてくれと云っても聞かないのであった。反対に、平助のほうからもっとぞんざいに話してくれていい、などと云いだすしまつで、けっきょく、お互い丁寧な言葉で会話をしていたのだった。
平助はこれまで、荒々しい人間に囲まれて、気脈を通じあえる人とはなかなか出会えなかったのかもしれない。沖田総司や斎藤一という、新選組結成当初からの同年代の朋輩とは、もちろんうまくやっているようだが、隊務となると気軽に相談できるものがいなかったようだ。へたに配下の隊士に相談を持ちかけると、侮りをまねく結果にもなりかねない。若い平助には、粗暴な隊士たちをまとめていくのに、そうとうな心労があったことだろう。
そして、初めて、気軽に悩みをうちあけられる人間があらわれた。
――川井さん、どうも私は部下からなめられているようで……。
やがてはそんな愚痴めいた相談もてしてくるようになった。
実際には、信十郎がなにか適切な助言をしたというわけではなく、ただ愚痴を聞いてやったり、自分ならこうする、というようなことを話しただけだった。信十郎自身、これまで藩の組織のなかで働いたという経験もないので、残念ながら平助の悩みを解消するほどの力にはなれなかったのだが、それでも相談できる相手ができたことで、彼はずいぶん気持ちが楽になったようだった。
そんな中、小畑栄太が同じ隊に配属された
彼はなにか自分が特別な人間であるような錯覚をもったまま、社会に出てきたような人間だった。
まだ声変わりしたばかりの、ときどき不安定な抑揚で喋るような、十六歳の若さということもあって、世間をしらず自負に凝り固まっていたのだった。
それは栄太の出自も関係していただろう。
彼の家系は代々幕府の旗本だったが、父が城づとめを嫌って、家督を弟にゆずって野に下ったのだった。それは六年ほど前の話だったが、彼は父に対する反抗心もあって、自分は旗本であるという自尊心を捨てなかった。大人になったら手づるをたぐって、また旗本に戻るつもりでいたのだった。
そうして江戸で居合の腕をみがいている時、道場に新選組の勧誘がきた。
――ついに、待ち望んでいた時節が到来したのだ。
栄太は新選組に入って活躍するのが、幕府に帰参する手っ取り早い手段だと考えた。
残念ながら、いちど捨てた旗本という地位を、そう簡単に取り戻せるものでもないのだが、そこはやはり、世間を知らない若者ゆえの、ある意味での純粋さだったのだろう。
そんな人間だから平助に対して、――出自もさだかではない、しかも、人生経験も積んでいるようには見えない若い上役に対して、敬意などは持ちあわせず、最初から小馬鹿にしたような態度をしめしたのだった。
――藤堂さん、隊長なんですから、もうちょっとしっかりしてくれないと困ります。
――どうしていつもそう不決断なんですか。
――人に意見を求めてばかりいないで、少しは自分の意志をもって、部下に命令してください。
ことあるごとに、そんなことをずけずけと云うのだった。
平助は、いつも苦笑して聞き流しているものだから、みかねた信十郎が時にはたしなめたりもしたのだが、栄太は、まったく云うことを聞こうとはしなかったのだった。
八番隊に出動命令がくだったのは、年の暮れも押し詰まった、底冷えのする日のことだった。
長州の浪士数人が、五条通りのさきをずっと東に行った清閑寺村の一軒に潜伏しているのを、密偵をしていた仙念の藤次が突きとめたのだった。
清閑寺村は京のはずれの、山の狭間の閑静な集落で、そんなところまで浪士の足どりをたどったのは、藤次の執念の探索だったと云っていいだろう。
夜陰に乗じて、隊士たちは隠れ家へと向かった。
空には、満月に近い月が中天にさしかかっていた。
十二月の月は冴え冴えとして氷のように冷たく見え、実際吐く息が月明かりにてらされて、灰色にふわふわと空中を流れていくのだった。
移動する間じゅう、信十郎は、手も脚もがくがくと震えながら歩いていた。寒さのせいばかりではない。真剣での斬りあいなどは初めてだったし、自分が斬られる恐怖も、人を斬らなくてはならない恐怖もあった。屯所を出るときからずっと、腹のなかからこみあげてくる吐き気を無理に抑えこんで、歩いて来たのだった。
「怖いですか、川井さん」
そっと、平助が声をかけてくれた。
信十郎は答えに窮した。心情を吐露してしまえば、臆病者とそしられそうだったし、かといって、怖くないと云えるほど強い心は持っていなかった。
「なに、心配することはありません」平助は普段通り、ほほ笑みながら話すのだった。「意外と、戦闘が始まってしまえば恐怖などどこかへ行ってしまいますし、終わってみれば、こんなもんか、という程度のものです」
信十郎は驚いた。実際驚いた顔をしてしまったかもしれないが、闇にまぎれて平助には気づかれなかっただろう。
――さすがに、何度も白刃の下をくぐってきた人間は違うな。
身体の震えが、少しやわらいだように思えた。
やがて、八番隊の隊士たちは、浪士たちの隠れ家へと到着した。
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