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第二章 ふたりのゆくえ
二の七
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信十郎はそのあとすぐに、旅立つ支度を手早くすませた。夜まで待って立つほうが本当はよいのだろうが、追っ手が至近にまで迫っているおそれがあったし、悠長にしていると、また自分の気持ちがぐらついて、おゆいと離れがたくなりそうでもあった。
門口に、三人が見送りにきてくれた。
経国とみちと、その間にはさまれておゆいが立っていて、三人が並んでいるのをみると、本当の親子みたいに、信十郎には見えたのだった。安心しておゆいをあずけられると思った。
「なに、ほんのひと月か、ふた月の話だ」
信十郎は、腰を落として、おゆいと目線をあわせて、いいきかせるように云った。
おゆいは、突然の別れに、驚きと悲しみがないまぜになった顔をして、信十郎をみつめていた。
「越前に帰っておちついたら、迎えの者を寄こすから。それまで、ふたりの云うことをちゃんときいて、いい子でいるんだよ」
それから、信十郎はさよならも云わなかった。ちょっとそこまで行ってくる、というくらいの気軽な感じで、三人に手を振って、その場を後にしたのだった。
歩きだし、後ろをふりかえることもなかった。
おゆいの顔をみると、衝動的に踵を返してしまいそうだったし、ほんのちょっとの間だ、ほんのちょっとだ、と自分にいい聞かせて足を進めたのだった。
二里近く歩いただろうか。
この辺りはあまり景色が変わらない。
右手にはずっと琵琶湖があったし、左手には山が連なっているし、そのあいだの狭い平地に田畑があって、百姓たちが手入れをしているのを時々見かけるのだった。
空には鳶が弧を描いてぴいぴい云いながら飛んでいて、足元をみれば、青々とした野草が、だんだん茶色い地面を覆い隠しはじめていたし、春の到来を感じさせる、穏やかな日和だった。
刺客の襲撃も警戒しながらの行程ではあったが、くるならこい、という、半分いなおったような気持ちで信十郎は歩いていた。
「ああ、やっと追いついた」
後ろから、聞きなれた、癇にさわる声がした。
「足が速いですな、旦那」
信十郎は振り返った。刀の柄に右手をかけて、いつでも抜けるようにして。
そこには、仙念の藤次が、いやらしい笑みを浮かべて立っていた。
すばしっこそうな小さな身体つきで、気張るようすもなく何気ない様子だった。だが、そんな一見した印象とはうらはらに、鼠のような大きくて落ち窪んだ、ぐりぐりとよく動く目だけは、油断なく信十郎の動きを警戒していた。彼は云った。
「おっと、抜かないでください。あたしゃあ、戦うつもりなんてこれっぽっちもないんです」藤次はにたにたと笑いながら続けた。「あたしの役目は、新選組の旦那がたに手柄をあげてもらうことで、自分であんたをどうこうしようなんて気はないわけでして」
信十郎は、いらっとしたはずみで、一歩踏み出した。藤次は、一歩さがる。
「おどかさないでください。言伝をあずかってきただけなんですから」
云いながら、藤次はおびえた様子もみせない。完全に信十郎をなめきっている態度だった。
「研師の家で、御堂さまたちお三方がお待ちです」
瞬間に、信十郎の頭が、かっと熱くなった。
「これだけ言えばおわかりでしょう」
投げすてるように云って、藤次はくるりと振り返り、一目散に駆けていく。
逃げ去る藤次を見つめながら、信十郎は、考えが甘かったことを悔いた。まったく浅はかだった。自分が単独で行動すれば、敵はこちらを襲ってくるものと思いこんでいた。だが、彼らはおゆいたちを狙ってきた。
たしかにそうだ。
御堂たちからすれば、信十郎を安直に追ってしまって、かえって逃げられたり姿を隠されたりする可能性をとるよりも、自分たちのほうへ呼び寄せたほうが確実だ。
信十郎は唇をかんだ。
だが、逡巡している間などない。
駆け出した。
そのまま、いま来た道を、走って戻る。
ひょっとすると、藤次は、ずっと前から信十郎のあとをつけていたのではなかろうか、という気がした。あとをつけていたのに、経国の家からずいぶんな距離を遠ざかるのを、あえて待っていたのではなかろうか。こうして走らせて、疲れさせるために。
それが、誰の策略か考える余裕などなかった。
頭をよぎるのは、おゆいと、経国夫婦の安否だけだった。
門口に、三人が見送りにきてくれた。
経国とみちと、その間にはさまれておゆいが立っていて、三人が並んでいるのをみると、本当の親子みたいに、信十郎には見えたのだった。安心しておゆいをあずけられると思った。
「なに、ほんのひと月か、ふた月の話だ」
信十郎は、腰を落として、おゆいと目線をあわせて、いいきかせるように云った。
おゆいは、突然の別れに、驚きと悲しみがないまぜになった顔をして、信十郎をみつめていた。
「越前に帰っておちついたら、迎えの者を寄こすから。それまで、ふたりの云うことをちゃんときいて、いい子でいるんだよ」
それから、信十郎はさよならも云わなかった。ちょっとそこまで行ってくる、というくらいの気軽な感じで、三人に手を振って、その場を後にしたのだった。
歩きだし、後ろをふりかえることもなかった。
おゆいの顔をみると、衝動的に踵を返してしまいそうだったし、ほんのちょっとの間だ、ほんのちょっとだ、と自分にいい聞かせて足を進めたのだった。
二里近く歩いただろうか。
この辺りはあまり景色が変わらない。
右手にはずっと琵琶湖があったし、左手には山が連なっているし、そのあいだの狭い平地に田畑があって、百姓たちが手入れをしているのを時々見かけるのだった。
空には鳶が弧を描いてぴいぴい云いながら飛んでいて、足元をみれば、青々とした野草が、だんだん茶色い地面を覆い隠しはじめていたし、春の到来を感じさせる、穏やかな日和だった。
刺客の襲撃も警戒しながらの行程ではあったが、くるならこい、という、半分いなおったような気持ちで信十郎は歩いていた。
「ああ、やっと追いついた」
後ろから、聞きなれた、癇にさわる声がした。
「足が速いですな、旦那」
信十郎は振り返った。刀の柄に右手をかけて、いつでも抜けるようにして。
そこには、仙念の藤次が、いやらしい笑みを浮かべて立っていた。
すばしっこそうな小さな身体つきで、気張るようすもなく何気ない様子だった。だが、そんな一見した印象とはうらはらに、鼠のような大きくて落ち窪んだ、ぐりぐりとよく動く目だけは、油断なく信十郎の動きを警戒していた。彼は云った。
「おっと、抜かないでください。あたしゃあ、戦うつもりなんてこれっぽっちもないんです」藤次はにたにたと笑いながら続けた。「あたしの役目は、新選組の旦那がたに手柄をあげてもらうことで、自分であんたをどうこうしようなんて気はないわけでして」
信十郎は、いらっとしたはずみで、一歩踏み出した。藤次は、一歩さがる。
「おどかさないでください。言伝をあずかってきただけなんですから」
云いながら、藤次はおびえた様子もみせない。完全に信十郎をなめきっている態度だった。
「研師の家で、御堂さまたちお三方がお待ちです」
瞬間に、信十郎の頭が、かっと熱くなった。
「これだけ言えばおわかりでしょう」
投げすてるように云って、藤次はくるりと振り返り、一目散に駆けていく。
逃げ去る藤次を見つめながら、信十郎は、考えが甘かったことを悔いた。まったく浅はかだった。自分が単独で行動すれば、敵はこちらを襲ってくるものと思いこんでいた。だが、彼らはおゆいたちを狙ってきた。
たしかにそうだ。
御堂たちからすれば、信十郎を安直に追ってしまって、かえって逃げられたり姿を隠されたりする可能性をとるよりも、自分たちのほうへ呼び寄せたほうが確実だ。
信十郎は唇をかんだ。
だが、逡巡している間などない。
駆け出した。
そのまま、いま来た道を、走って戻る。
ひょっとすると、藤次は、ずっと前から信十郎のあとをつけていたのではなかろうか、という気がした。あとをつけていたのに、経国の家からずいぶんな距離を遠ざかるのを、あえて待っていたのではなかろうか。こうして走らせて、疲れさせるために。
それが、誰の策略か考える余裕などなかった。
頭をよぎるのは、おゆいと、経国夫婦の安否だけだった。
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