湖水のかなた

優木悠

文字の大きさ
上 下
6 / 62
第一章 追うもの、逃げるもの

一の六

しおりを挟む
「旦那、おめざめですか、旦那」
 としわがれた声で、ぶっきらぼうな喋りかたをする、五十がらみの男がこちらをみている。
 ひきしまった身体つきをして、肌はまいにち陽のしたで働いているとひと目でわかるほど黒々としていた。
 おそらく、おゆいの云っていた、漁師の男だろう。
「お、もう起きてましたか。傷はどうです、痛みますか」云いながら布団のわきまできて腰をおろした。
「いや、それほどでもない」
「そりゃよかった。あたしは、熊蔵ともうします」
「ああ、やっぱり。いろいろと世話になったね」
「いえ、あたしゃ、なんにもしちゃいません。おゆいが、岸で人が倒れているから、小屋に運んでくれ、と頼みにきたんで、運んでやって、膏薬やら包帯やらをとどけただけです」
「そうか、ありがとう」
「旦那」と熊蔵は、余計な話はしたくないように、急くように云う。「はっきりいいますが、傷が治ったんなら、はやいとこここを出ていってくんなさい」
 唐突だった。云っていることは懇願のようであったが、たのまれているというより命令されているようであった。
 信十郎は、返事に困った。云われなくとも、彼自身はやく出立したいのはやまやまだが、ここがどこだかも、今どういう状況になっているかさえ、わかっていないのだ。
「あの子はね、いい子なんです」信十郎のとまどいをよそに、熊蔵はつづけた。「あたしはね、あんたを、番屋に届け出るつもりだったんだ。だけどね、おゆいがダメだと云う。なぜと聞くと、この人は、悪い人に追われているのではないか、だから、隠してあげたい、と云うんです。あんたが本当に善人かどうかもわからないのにですぜ」
 熊蔵は、さらに、まくしたてるように喋りつづける。
「おゆいが、この店でどんな目にあっているか、ご存じじゃないでしょう。そこに、あんたみたいな、何者かもわからない男をかくまっていると店のものに知られたら、なにをされるかわかったもんじゃない。あたしはね、あの子が不憫でならないんです。どうか、すぐに出ていってくんなさい」
「いや、出ていくことには異存はないが、まず、話をきかせてくれ」
「なんです」
「ここはどこだ」
 熊蔵は、え、という顔をした。そして、腕をくんで首をひねり、考え込むような仕草をする。
「すんません、旦那。どうも、あたしはせっかちでいけない」
「いや、いいんだ、教えてくれ」
「ええ、そうですね。ここは、鱒川ますかわ屋という旅籠はたごで、おゆいは下女奉公させられています」
「ところはどこかな」
薄田すすきだといいまして、坂本よりちょっと北に位置します」
 そうか、と信十郎も考え込んだ。思っていたよりも、ずいぶん流されたようだ。よくおぼれなかったものだと、肝をひやす思いだった。
「いや、世話になった」と信十郎は熊蔵に頭をさげた。「あんたの云うとおり、すぐにでていくよ」
 云って、枕元の紙入れに手をのばした。それは、刀といっしょにならべておいてあって、中のものには、いっさい手はつけられていなかったのを、さきほど確認している。
 中から、一分銀をとりだすのを、
「よしてください。あたしゃ、おゆいのためにやったんですから」
 いかにも不愉快だというようすで熊蔵は立ちあがり、金はうけとらずに床を踏み鳴らして小屋から出ていった。
 信十郎は、彼の自尊心を大きくそこなったことを、恥じた。だが、その悔悟はすぐに消え去り、ゆくすえに対する不安が心中を支配していった。
「さて、どうしたものか」
 傷にさわらぬように這うようにして、明り取りの窓までいき、外の様子をうかがった。
 窓からは、半町ほどさきに岸がみえ、湖面が静かにゆらいでいた。
 新選組の追っ手をやりすごすためにも、もうしばらく、ここにいさせてもらいたい、という思いがある。だが、そうすることで、熊蔵の云うように、おゆいに迷惑がかかるというのなら、別の手段を考えなくてはいけない。

 だが、二日がすぎた。
 すぐにここを離れなければ、と思いながらも、おゆいの親切にあまえ、納屋にいつづけることになってしまった。
 信十郎は目が覚めた日の夜に、出ていくつもりで、おゆいに礼と別れの挨拶をした。
 だが、おゆいは、
「傷が、まだ」
 とぽつりと云って、首を横にふった。
 子供の云うことなど無視して出ていくこともできたが、なぜかそういう気持ちにはなれなかった。
 静かな声で、もう少し寝ていなくてはいけないと云われると、なぜだかそんな気になってきたのだった。
 それはやはり、おゆいに甘えているのかもしれなかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

朝敵、まかり通る

伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖! 時は幕末。 薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。 江戸が焦土と化すまであと十日。 江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。 守るは、清水次郎長の子分たち。 迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。 ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

桜の花弁が散る頃に

ユーリ(佐伯瑠璃)
歴史・時代
 少女は市村鉄之助という少年と入れ替わり、土方歳三の小姓として新選組に侵入した。国を離れ兄とも別れ、自分の力だけで疾走したいと望んだから。  次第に少女は副長である土方に惹かれていく。 (私がその背中を守りたい。貴方の唯一になりたい。もしも貴方が死を選ぶなら、私も連れて行ってください……)  京都から箱館までを駆け抜ける時代小説。信じた正義のために人を斬り、誠の旗の下に散華する仲間たち。果たして少女に土方の命は守れるのか。 ※史実に沿いながら物語は進みますが、捏造だらけでございます。 ※小説家になろうにも投稿しております。

夜に咲く花

増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。 幕末を駆け抜けた新撰組。 その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。 よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。

空蝉

横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。 二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。

藤散華

水城真以
歴史・時代
――藤と梅の下に埋められた、禁忌と、恋と、呪い。 時は平安――左大臣の一の姫・彰子は、父・道長の命令で今上帝の女御となる。顔も知らない夫となった人に焦がれる彰子だが、既に帝には、定子という最愛の妃がいた。 やがて年月は過ぎ、定子の夭折により、帝と彰子の距離は必然的に近づいたように見えたが、彰子は新たな中宮となって数年が経っても懐妊の兆しはなかった。焦燥に駆られた左大臣に、妖しの影が忍び寄る。 非凡な運命に絡め取られた少女の命運は。

処理中です...