4 / 62
第一章 追うもの、逃げるもの
一の四
しおりを挟む
どこかで、鴬が鳴いている。
けきょう、けきょう。ほう、けきょう――。
まるで朝起きたばかりで寝ぼけまなこをこすりながら、子供が、母ちゃんおはよう、とでも云っているように、たどたどしく鳴いている。
川井信十郎は、その鳴き声に呼ばれたように、眠りから覚めた。
目をひらいた。
天井が妙に近い。
自分がどこにいるのか、まったくわからない。
なぜ、こんなところで、寝ているのだろう。
藤堂平助に、斬られ、崖から琵琶湖へ落ちた。
背中から落ちたせいで、水面に身体と後頭部をしたたかに打ちつけた。薄れていく意識のなかで、刀だけは失いたくないと、水中で必死に鞘に収めた。
そこまでは、覚えている。
ここは、どこだろう。
天井が低いということは、家屋の中二階にでもいるのだろうか。
どこかから、光が差し込んでいるので、明り取りの窓はあるようだ。
しかし、人の気配がまるでない。
身体を起こしかけたが、とたんに胸に痛みを感じ、また布団に横たわった。
藤堂に斬られた傷が痛んだのだ。
見ると、着物は、洗いざらしではあったが、これも見覚えのないものを着ていて、胸には包帯がまかれていた。
身体も、小ざっぱりとした感じがする。
誰かが、傷の手当てをし、身体をぬぐい、着物を着がえさせてくれたのだろう。
頭のよこには、しめった手ぬぐいが、ころがるようにしてあった。寝ているときに頭から落ちたのだろう。ということは、熱がでていたのかもしれない。
刀傷にそっとさわって、痛みを確かめてみた。動いたり、強くさわったりしなければ、さほどの痛みはないようだ。傷口は完全にふさがってはいないようだが、血はとまっていた。傷自体、さほど深いものではなかったのだろうが、誰かが包帯を根気よくとりかえてくれたようで、それがよかったのではなかろうか、という気がする。
首を動かすたび枕――と云っても、うすい座布団をふたつに折ったものだったが――に置いた後頭部がすこし傷んだ。同時に着物の衿に髭がじょりじょりとこすれた。髭のこの長さから察すると、三日ほど眠っていたのではなかろうか。
ふと、咽喉の渇きをおぼえた。頭もちょっと起こしただけで少しくらくらとする。熱が出ていたせいかもしれないが、腹が減っているせいかもしれなかった。
「あの」
と信十郎は声を出した。
「あの、どなたか、いませんか」
まるで、家の外で鳴いている鴬のように、もつれる舌をむりやり動かして、どうにかこうにか声をだした。
返事はない。
やはり、家のなかは無人のようだった。
鴬の声もやがて聞こえなくなり、しんと静まり返った部屋のなかにいると、まるで海原に手漕ぎ舟でひとりただよっているような、心細さがわきおこってきた。
傷は痛んだが、身体をなんとか起こし、立ちあがった。
見回すと、八畳くらいの部屋で、隅には行李や長持ちが無造作に置かれていた。
下におりる階段は、すぐそばにあり、下をのぞいてみたが、やはり人けはなかった。
梯子段を、ふみはずさないように慎重におりると、そこも、板敷きの、物置きのような部屋だった。行李、長持ち、陶器でも入っているような小さな木箱、あとは、掛け軸やら花瓶などが、ろくに手入れもされずに乱雑に積み重ねられていた。
先には、土間があって、そこのわきにある戸が出入口のようだった。
家というより納屋のようで、建てられてからもうずいぶん経つのだろう、壁も床も黒ずんで埃っぽかったし、壁板には隙間があいていて、床も歩くたびにぎしぎしと音をたてる。
ともかく、外にでてみようか、と出入り口に足を向かわせた。
すると、その戸が、がたがたと音をたてて開いた。
そこには、まだ、十歳にも満たないだろう、女の子供が立っていて、驚いた顔をしてこちらをみていた。
着物はつぎはぎだらけで紺色の生地はずいぶん色あせてしまっているし、髪も丸めて櫛でとめているだけで、ところどころほつれた毛が跳ねていた。みるからに、どこかの商家の下女といった風体だった。
けきょう、けきょう。ほう、けきょう――。
まるで朝起きたばかりで寝ぼけまなこをこすりながら、子供が、母ちゃんおはよう、とでも云っているように、たどたどしく鳴いている。
川井信十郎は、その鳴き声に呼ばれたように、眠りから覚めた。
目をひらいた。
天井が妙に近い。
自分がどこにいるのか、まったくわからない。
なぜ、こんなところで、寝ているのだろう。
藤堂平助に、斬られ、崖から琵琶湖へ落ちた。
背中から落ちたせいで、水面に身体と後頭部をしたたかに打ちつけた。薄れていく意識のなかで、刀だけは失いたくないと、水中で必死に鞘に収めた。
そこまでは、覚えている。
ここは、どこだろう。
天井が低いということは、家屋の中二階にでもいるのだろうか。
どこかから、光が差し込んでいるので、明り取りの窓はあるようだ。
しかし、人の気配がまるでない。
身体を起こしかけたが、とたんに胸に痛みを感じ、また布団に横たわった。
藤堂に斬られた傷が痛んだのだ。
見ると、着物は、洗いざらしではあったが、これも見覚えのないものを着ていて、胸には包帯がまかれていた。
身体も、小ざっぱりとした感じがする。
誰かが、傷の手当てをし、身体をぬぐい、着物を着がえさせてくれたのだろう。
頭のよこには、しめった手ぬぐいが、ころがるようにしてあった。寝ているときに頭から落ちたのだろう。ということは、熱がでていたのかもしれない。
刀傷にそっとさわって、痛みを確かめてみた。動いたり、強くさわったりしなければ、さほどの痛みはないようだ。傷口は完全にふさがってはいないようだが、血はとまっていた。傷自体、さほど深いものではなかったのだろうが、誰かが包帯を根気よくとりかえてくれたようで、それがよかったのではなかろうか、という気がする。
首を動かすたび枕――と云っても、うすい座布団をふたつに折ったものだったが――に置いた後頭部がすこし傷んだ。同時に着物の衿に髭がじょりじょりとこすれた。髭のこの長さから察すると、三日ほど眠っていたのではなかろうか。
ふと、咽喉の渇きをおぼえた。頭もちょっと起こしただけで少しくらくらとする。熱が出ていたせいかもしれないが、腹が減っているせいかもしれなかった。
「あの」
と信十郎は声を出した。
「あの、どなたか、いませんか」
まるで、家の外で鳴いている鴬のように、もつれる舌をむりやり動かして、どうにかこうにか声をだした。
返事はない。
やはり、家のなかは無人のようだった。
鴬の声もやがて聞こえなくなり、しんと静まり返った部屋のなかにいると、まるで海原に手漕ぎ舟でひとりただよっているような、心細さがわきおこってきた。
傷は痛んだが、身体をなんとか起こし、立ちあがった。
見回すと、八畳くらいの部屋で、隅には行李や長持ちが無造作に置かれていた。
下におりる階段は、すぐそばにあり、下をのぞいてみたが、やはり人けはなかった。
梯子段を、ふみはずさないように慎重におりると、そこも、板敷きの、物置きのような部屋だった。行李、長持ち、陶器でも入っているような小さな木箱、あとは、掛け軸やら花瓶などが、ろくに手入れもされずに乱雑に積み重ねられていた。
先には、土間があって、そこのわきにある戸が出入口のようだった。
家というより納屋のようで、建てられてからもうずいぶん経つのだろう、壁も床も黒ずんで埃っぽかったし、壁板には隙間があいていて、床も歩くたびにぎしぎしと音をたてる。
ともかく、外にでてみようか、と出入り口に足を向かわせた。
すると、その戸が、がたがたと音をたてて開いた。
そこには、まだ、十歳にも満たないだろう、女の子供が立っていて、驚いた顔をしてこちらをみていた。
着物はつぎはぎだらけで紺色の生地はずいぶん色あせてしまっているし、髪も丸めて櫛でとめているだけで、ところどころほつれた毛が跳ねていた。みるからに、どこかの商家の下女といった風体だった。
0
お気に入りに追加
8
あなたにおすすめの小説
平安ROCK FES!
優木悠
歴史・時代
2024/06/27完結
――つまらねえ世の中をひっくり返すのさ!――
平安ROCK FES(ロックフェス)開幕!
かつての迷作短編「平安ロック!」が装いも新たに長編として復活。
バイブス上がりまくり(たぶん)の時代ライトノベル!
華やかな平安貴族とは正反対に、泥水をすするような生活をおくる朱天と茨木。
あまりの貴族たちの横暴に、ついにキレる。
そして始まる反逆。
ロックな奴らが、今、うごめきはじめる!
FESの後にピリオドがいるだろう、って?
邪魔なものはいらないさ、だってロックだもの!
時代考証も無視するさ、だってロックだもの?
部分的に今昔物語集に取材しています。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――
黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。
一般には武田勝頼と記されることが多い。
……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。
信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。
つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。
一介の後見人の立場でしかない。
織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。
……これは、そんな悲運の名将のお話である。
【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵
【注意】……武田贔屓のお話です。
所説あります。
あくまでも一つのお話としてお楽しみください。
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
桜の花弁が散る頃に
ユーリ(佐伯瑠璃)
歴史・時代
少女は市村鉄之助という少年と入れ替わり、土方歳三の小姓として新選組に侵入した。国を離れ兄とも別れ、自分の力だけで疾走したいと望んだから。
次第に少女は副長である土方に惹かれていく。
(私がその背中を守りたい。貴方の唯一になりたい。もしも貴方が死を選ぶなら、私も連れて行ってください……)
京都から箱館までを駆け抜ける時代小説。信じた正義のために人を斬り、誠の旗の下に散華する仲間たち。果たして少女に土方の命は守れるのか。
※史実に沿いながら物語は進みますが、捏造だらけでございます。
※小説家になろうにも投稿しております。
夜に咲く花
増黒 豊
歴史・時代
2017年に書いたものの改稿版を掲載します。
幕末を駆け抜けた新撰組。
その十一番目の隊長、綾瀬久二郎の凄絶な人生を描く。
よく知られる新撰組の物語の中に、架空の設定を織り込み、彼らの生きた跡をより強く浮かび上がらせたい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる