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本編

胡蝶、自覚する

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 …………

 ……

 

 それは二日前のこと、



「お嬢様、これはチャンスですわ」



 紫苑が帰った後、隣の部屋で二人の会話を盗み聞きをしていたお佳代が、目をキラキラさせながら胡蝶に言った。



「いくら偽装婚約とはいえ、お相手が公爵家の跡取りで、しかも若く、皇子殿下に負けず劣らずの美男子――こんな優良物件……いいえ、超高級物件を逃す手はありませんわ」



 突然何を言い出すのかと、胡蝶は呆れてしまう。



「かあさんったら、聞いていなかったの? 一眞様は女性嫌いでいらっしゃるのよ」

「そんなの、お嬢様の魅力でどうとでもなりますわっ」



 鼻息荒く断言するお佳代に、親バカもここまでくると……胡蝶は視線を遠くに向けてしまう。



「私に殿方を惹きつけるだけの魅力があったら、そもそも離婚されたりしないはずでしょ?」



「北小路子爵は例外ですわ。おそらく特殊な性癖をお持ちなのでしょう。それに、お嬢様の魅力は、若さや美しさだけではありません。昔からよく言うではありませんか、好きな殿方をものにするには、まず胃袋を掴めと」



 露骨な言い方をされて、胡蝶は頬に熱を感じた。



「ちなみに妻が料理上手だと、夫は仕事を終えてまっすぐ帰宅するので、浮気の心配をしなくていいそうです」



 それ本当? と思わずお佳代の顔をまじまじと見てしまう。

 お佳代は意味深な笑みを浮かべてうなずくと、



「ところで、お嬢様のほうは龍堂院様のことをどう思っていらっしゃるんですか?」

「……どうって」

「お好きですか? お嫌いですか?」

「……嫌いではないけれど……」



 それどころか素敵な方だなと密かに思っている。

 だったら何も問題ないとお佳代は満面の笑みを浮かべた。



「女性が苦手だろうと何だろうと、龍堂院様の胃袋さえ掴めば、もうこっちのものですわ。毎日でもお嬢様の料理を食べたいと思わせさえすれば良いのです」



「それが一番難しいと思うのだけど」

「お嬢様にならできますわっ」



 力強くお佳代は言った。



「まずは相手の好みを知ることが大事です。龍堂院様は職業柄、お身体を鍛えていらっしゃるでしょうし、脂身たっぷりのお肉よりも、赤身の肉や鶏肉を好まれるかもしれません。量は多めにお作りなさいませ。いくら美味しくても、量が少ないと食べた気がしないでしょうし。あとは……そうそう、具材は大き目に切ったほうが食べごたえがありますわ」



 凝った料理よりも定番料理を作ること、調理に時間をかけすぎないこと……等など、お佳代は様々なアドバイスをくれたものの、肝心の胡蝶は右から左へ聞き流していた。



 ――あの人を振り向かせるなんて無理よ。







『だったら……貴方がお嫁にもらってくださる?』

『どうか自棄にならないで、御身を大切にされてください』



 

 

 既にやんわりと断られているのだから。





 …………

 ……





「胡蝶様、どうかされたのですか?」



 つい回想に耽っていたらしく、怪訝そうに一眞がこちらを見ていた。

 胡蝶は慌てて我に返ると、笑ってごまかす。

 

「ちなみに何かリクエストは?」

「ありません」

「嫌いな食べ物や苦手なものはおあり?」

「いいえ」



 だったら、と今ある材料で作れるものを考える。

 

 待たせるのは悪いので時間のかかるものは作れない。ともあれ相手は男性だし、辰之助の時と同様、ガッツリ食べごたえのあるものがいいだろう。手軽で簡単な肉料理と言えば――鶏の照り焼き? いいえ、トンテキにしましょう。



 まず、夕食用に買っておいた分厚い豚肉の筋を切って、竹串で両面を何十回と突き刺す。こうするとお肉が反り返らず、ソースとのからみもよくなり、火も通りやすくなる。先ににんにくを炒めて、片栗粉をまぶした豚肉を加える。両面に焼き色が付いたら、醤油やソース類などの調味料をくわえて、お肉に絡めるようにしつつ、軽く煮込んだら完成だ。



 それに、ほうれん草のお吸い物と大根の漬物を添えて、山盛りの白ご飯と一緒に持っていく。



「量が多いようでしたら、残していただいてもかまいませんわ」

「……胡蝶様の分は?」



 そういえば、自分の分を用意するのを忘れていた。



「私は後で母と一緒に食べますから」



 自分に見られながらでは食べにくいだろうと思い、「台所にいますので、食べ終わったら声をかけてください」と言って台所へ戻る。しばらくすると、



「長居をして申し訳ありません。大変美味しかったです」



 空になった皿を手に、一眞が顔をのぞかせた。



「まあ、わざわざお持ちにならなくても、呼んで下さればよかったのに」

「そうはいきません。洗い場はここですか?」



 袖をまくりあげ、てきぱきと皿洗いを始めた彼に慌ててしまう。



「片付けは私がやりますから……」

「とんでもない、自分でやります」

「ですが」

「私は客人ではなく、婚約者なので」



 彼は真面目な顔をしてそう言ったが、胡蝶はなぜか胸が熱くなって、うつむいてしまう。



「どうかされましたか?」

「いいえ、ただ……」



 嬉しいと思ってしまった。婚約者という言葉に、これほど胸がときめいたのは初めてのことで、自分でも戸惑ってしまう。



 ――ああ、私はきっと、一眞様のことが好きなんだわ。



 本当は嘘の婚約なんてしたくなかったけれど、相手が一眞だと知って、矢も盾もたまらず飛びついてしまった。そそくさと帰ろうとする彼を引き止めてしまったのも、単純に離れ難かったから――もっと彼と一緒にいたかったからだ。





『女性が苦手だろうと何だろうと、龍堂院様の胃袋さえ掴めば、もうこっちのものですわ。毎日でもお嬢様の料理を食べたいと思わせさえすれば良いのです』





 ――私にできるかしら?



 はっきり言って自信はなかったものの、ふと彼の言葉を思い出して背筋を伸ばす。





『戦わずして負けるおつもりですか?』





 そうだ、まずはやってみなければ分からない。

 

 

 
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