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ドライヤーの音、目玉焼きがフライパンの上で音を立てて焼けていく、歯ブラシが振動している、そして二階から転びそうなほど急いで降りていく私の足音。
「遅刻だ。遅刻すぎる。一河はもう車で出てってしまった」
「しょうがないでしょ。流伽が遅くまで一慶くんと電話待つからよ」
呆れ気味のお母さんが、テーブルのお皿の上にほかほかの目玉焼きを置いていく。
私は少し冷めたウインナーを口の中に放り込むと、玄関の方へ向かった。
昨日、一慶さんが引退パーティで五次会まで行って、私に終わったら連絡するってって言ったくせに全く連絡くれなかったんだもん。連絡が来たのが朝方の三時で、真夜中に電話してくるなって切ってしまった。
でも声が聴きたかったんだもん。
一慶さんが、プロレスを続けていた理由が純粋なものでないことを悩んでいて、本当は自分が肥満ぎみで苦しんでいた時、笹目さんや師匠さんにトレーニングしてくれたことが嬉しかったと。ジムでトレーニングトレーナーになってみたいと夢を打ち明けてくれた。
その夢のための引退も分かる。吾妻プロレスの一番人気の選手だったから惜しまれてお別れ会が盛り上がったのも分かる。でも、そのお別れ会はお酒を飲む人が多いからって私は参加できなかった。笹目さんたちに会いたかったし。森苺先輩たちと出待ちしようか悩むぐらい悲しむ私に「終わったら一番に会いに行く」って言ったからずっと待っていたんだ。
うう私ったら女々しい。嫌な女だ。少女漫画の主人公からはきっと程遠い存在になっているだろう。
気になって気になって寝不足で、現在は遅刻確定。電車でもバスでもこの時間ならどれを選択しても遅刻にしかならない。
「待って。俺が送るよ、流伽」
「へ? 一慶さん?」
なぜ、と玄関を見ると一慶さんの靴が置いてある。
昨日、うちに帰ってきてたんだ。じゃあテーブルのあのご飯の量も一慶さんの分だったんだ。うちの家族は一慶さんに甘いから、合鍵渡してほぼ居座らせてるんだよね。
うちに筋トレの機械を置き出したらどうするつもりなんだろう。
「一慶さん、疲れてるし何をどうやっても遅刻だろうからいいよ」
「なーにを。俺のバイクで絶対に流伽を遅刻させない」
ドライヤーの音が止み、脱衣所のドアが開いた。
有言実行の一慶さんだからこそ、信用できる。
「ちょっと待って。なんか服置いてあるのなかったっけな」
「あ、服なら外に何枚か乾かし――ぎゃあああああ」
脱衣所から出てきた一慶さんは、タオルも身にまとわず下着一枚。
日頃自分の体をキャーキャー言われていただけあって恥じらいがない。
「お、あったあった。このシャツとズボンにしよっと」
私の叫びなんて気にもせず目の前で着替えていく一慶さん。
その瞬間、私は再び悲鳴を上げた。
「一慶さんが、ハムスターに見える!」
「はあ!? なんで?」
「彼女の前で恥じらいがないから、幻滅したってことじゃない。もう知らない。行ってきます!」
「あ、おーい、流伽」
急いでズボンを履こうとして扱けた一慶さんが、本当に数か月前のあのハムスターの姿に見えてしまって私は頭を押さえながら家を飛び出した。
その私の後を、バイクのハンドルにぶら下がったハムスターが必死で追いついてきている。
「流伽あ、悪かったって。パン一でうろうろはもうやめるよ」
「知りません」
「本当にハムスターに見えるの?」
私が頷くと、彼はハンドルにぶら下がったまま項垂れた。
「なんでだよー、お見合いなんてしてないじゃん。恋愛結婚憧憬症候群にまたなったってこと?」
苦し気に悩む一慶さんを見ていたら少し申し訳なくなったので、薬指を指さした。
「だって恋愛結婚に夢を見ずにはいられないんだもん」
「それは俺だって」
「二年になったらまたお見合いが強制じゃないけど来るわけじゃん。それまでにはこの薬指を予約しなきゃ面倒なことになるんじゃないの」
あと半年もないよって拗ねながら言ってしまった。
一河だって水咲だってお見合いからの恋愛に、今だ手探りで立ち向かっている中、私たちはもう先に進んでもいいと思ったんだ。
もうお見合いを解消してから数か月。手だってつないでデートするし、抱きしめ合ったり抱き着いたりして、キスまでもう少しって段階。
恋愛結婚にあこがれちゃう私は再び、そんな症状が出てしまっても仕方ない。
だって結婚したいって思ってる相手が呑気に下着一枚で家をうろついちゃうんだもん。
「……いいの? 俺、今より全力で行くよ」
「ハムスターの姿で何を言ってるんだが」
クスクス笑うと、不意に私を大きな影が覆った。
次の瞬間、両手を掴まれ覆いかぶさってくる影。
唇に柔らかい感触があったと思うと、目の前に一慶さんが現れていた。
お風呂上がりの、ボディソープのいい匂いがする一慶さんが、いた。
「お姫様のキスでハムスターから戻っちゃったね」
勝ち誇った顔。そして掴んだ腕を離すと、私の薬指を触った。
「今日の放課後、迎えに行くから指輪を選びに行こうか」
「うん。でも、その前に」
私は自分の唇を人差し指でトントンと示した。
不意打ちが卑怯だからちゃんともう一度キスをしてッて意味。
一慶さんには伝わったのか、耳まで真っ赤にして大きな体を屈ませて再び私の唇に触れた。
私たちのペースでゆっくり。けれど確実に真っすぐ進んでいく。
熱くなる唇に、二人で笑いながら。
終
「遅刻だ。遅刻すぎる。一河はもう車で出てってしまった」
「しょうがないでしょ。流伽が遅くまで一慶くんと電話待つからよ」
呆れ気味のお母さんが、テーブルのお皿の上にほかほかの目玉焼きを置いていく。
私は少し冷めたウインナーを口の中に放り込むと、玄関の方へ向かった。
昨日、一慶さんが引退パーティで五次会まで行って、私に終わったら連絡するってって言ったくせに全く連絡くれなかったんだもん。連絡が来たのが朝方の三時で、真夜中に電話してくるなって切ってしまった。
でも声が聴きたかったんだもん。
一慶さんが、プロレスを続けていた理由が純粋なものでないことを悩んでいて、本当は自分が肥満ぎみで苦しんでいた時、笹目さんや師匠さんにトレーニングしてくれたことが嬉しかったと。ジムでトレーニングトレーナーになってみたいと夢を打ち明けてくれた。
その夢のための引退も分かる。吾妻プロレスの一番人気の選手だったから惜しまれてお別れ会が盛り上がったのも分かる。でも、そのお別れ会はお酒を飲む人が多いからって私は参加できなかった。笹目さんたちに会いたかったし。森苺先輩たちと出待ちしようか悩むぐらい悲しむ私に「終わったら一番に会いに行く」って言ったからずっと待っていたんだ。
うう私ったら女々しい。嫌な女だ。少女漫画の主人公からはきっと程遠い存在になっているだろう。
気になって気になって寝不足で、現在は遅刻確定。電車でもバスでもこの時間ならどれを選択しても遅刻にしかならない。
「待って。俺が送るよ、流伽」
「へ? 一慶さん?」
なぜ、と玄関を見ると一慶さんの靴が置いてある。
昨日、うちに帰ってきてたんだ。じゃあテーブルのあのご飯の量も一慶さんの分だったんだ。うちの家族は一慶さんに甘いから、合鍵渡してほぼ居座らせてるんだよね。
うちに筋トレの機械を置き出したらどうするつもりなんだろう。
「一慶さん、疲れてるし何をどうやっても遅刻だろうからいいよ」
「なーにを。俺のバイクで絶対に流伽を遅刻させない」
ドライヤーの音が止み、脱衣所のドアが開いた。
有言実行の一慶さんだからこそ、信用できる。
「ちょっと待って。なんか服置いてあるのなかったっけな」
「あ、服なら外に何枚か乾かし――ぎゃあああああ」
脱衣所から出てきた一慶さんは、タオルも身にまとわず下着一枚。
日頃自分の体をキャーキャー言われていただけあって恥じらいがない。
「お、あったあった。このシャツとズボンにしよっと」
私の叫びなんて気にもせず目の前で着替えていく一慶さん。
その瞬間、私は再び悲鳴を上げた。
「一慶さんが、ハムスターに見える!」
「はあ!? なんで?」
「彼女の前で恥じらいがないから、幻滅したってことじゃない。もう知らない。行ってきます!」
「あ、おーい、流伽」
急いでズボンを履こうとして扱けた一慶さんが、本当に数か月前のあのハムスターの姿に見えてしまって私は頭を押さえながら家を飛び出した。
その私の後を、バイクのハンドルにぶら下がったハムスターが必死で追いついてきている。
「流伽あ、悪かったって。パン一でうろうろはもうやめるよ」
「知りません」
「本当にハムスターに見えるの?」
私が頷くと、彼はハンドルにぶら下がったまま項垂れた。
「なんでだよー、お見合いなんてしてないじゃん。恋愛結婚憧憬症候群にまたなったってこと?」
苦し気に悩む一慶さんを見ていたら少し申し訳なくなったので、薬指を指さした。
「だって恋愛結婚に夢を見ずにはいられないんだもん」
「それは俺だって」
「二年になったらまたお見合いが強制じゃないけど来るわけじゃん。それまでにはこの薬指を予約しなきゃ面倒なことになるんじゃないの」
あと半年もないよって拗ねながら言ってしまった。
一河だって水咲だってお見合いからの恋愛に、今だ手探りで立ち向かっている中、私たちはもう先に進んでもいいと思ったんだ。
もうお見合いを解消してから数か月。手だってつないでデートするし、抱きしめ合ったり抱き着いたりして、キスまでもう少しって段階。
恋愛結婚にあこがれちゃう私は再び、そんな症状が出てしまっても仕方ない。
だって結婚したいって思ってる相手が呑気に下着一枚で家をうろついちゃうんだもん。
「……いいの? 俺、今より全力で行くよ」
「ハムスターの姿で何を言ってるんだが」
クスクス笑うと、不意に私を大きな影が覆った。
次の瞬間、両手を掴まれ覆いかぶさってくる影。
唇に柔らかい感触があったと思うと、目の前に一慶さんが現れていた。
お風呂上がりの、ボディソープのいい匂いがする一慶さんが、いた。
「お姫様のキスでハムスターから戻っちゃったね」
勝ち誇った顔。そして掴んだ腕を離すと、私の薬指を触った。
「今日の放課後、迎えに行くから指輪を選びに行こうか」
「うん。でも、その前に」
私は自分の唇を人差し指でトントンと示した。
不意打ちが卑怯だからちゃんともう一度キスをしてッて意味。
一慶さんには伝わったのか、耳まで真っ赤にして大きな体を屈ませて再び私の唇に触れた。
私たちのペースでゆっくり。けれど確実に真っすぐ進んでいく。
熱くなる唇に、二人で笑いながら。
終
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安奈安奈さま
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