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【番外編】 あの夜のこと
【番外編】 あの夜のこと ①
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気づいたら、侑哉に電話していた。
***
優しい婚約者がいました。
いつもぐいぐい引っ張ってくれるような、私の意見も聞かない俺様とばかり付き合っていた私に、
その人は穏やかに笑って尋ねてくれました。
『みなみさんは、どこに行きたい?』
何でも私に決めさせてくれる。
そんなの初めてで。
ただ、何も決めれない優柔不断な人だったのかもしれないけど、それでも好きだから苦痛じゃなかった。
上司で私の指導係の部長は、仕事はできるけと自分にも部下にも厳しい人だったから、――自分の意見を飲み込んでしまう私はなかなか心を開けなくて。
だから、笑うと目が細くなる穏やかな厚一(こういち)さんに惹かれたんだと思う。
そう思ってたのに。
あの夜の少し前。
プロポーズを受けて仕事も辞めたあの日。
珍しく厚一さんから行きたい場所があると言ってきた。
「えっと……? ここ?」
連れて来られた場所は、かなり趣のある小さな産婦人科。
日焼けしたポスターが貼られた入り口の窓はヒビが入っているし、年季が入った壁には手入れもされていないような、草の蔓が巻き付いている。
「うん。安くて腕が良いって、母さんが調べてくれたんだ」
母さん……。
その言葉にぴくりと無意識に反応してしまう。
厚一さんはよく会話に『母さん』を出すから。
『母さんが買ってくれた服』
『あの政治家は裏で録な事をしてないって母さんが』
『母さんが作る煮物が好きで』
母親思いの良い人だと今まで信じていたんだけれど。
「ここで何、するの?」
「ブライダルチェックって。母さんが結婚する前に女性は必ず受けるって言ってたよ」
「……そうなんですね」
ちょっと、いやかなり躊躇する外見の産婦人科だけど、さらりと言う厚一さんを見ていたらそんなものなのかもしれない。
ブライダルチェックて何するんだろう?
検査は血液検査や分泌物検査、あとは内診。
厚一さんは廊下の長椅子で居眠りしているだけで。
何も分からず不安な私は、暇をしているであろう弟の侑哉にメールをしてみた。
バイトのし過ぎで大学の単位がヤバくなった侑哉は、今は土日しかバイトを入れていなかったはず。
バイクも買えてルンルンな侑哉とは、ほぼ毎日メールをしていたし。
携帯だけがこの空間で安心できるものだったけれど。
診察に呼ばれ、診察室の台に寝転ぶと、医師はカルテを記入しながらこちらを見る事なく言う。
「性交の経験は?」
「え!?」
自分の父親より年上のご老人一人。受け付けに奥さんか年配の女性が一人。
そんな二人しかいない小さな産婦人科だったのだけど、そんな事を質問されるなんて。
「な、ないです……」
「じゃあ触診はしないからエコーだけだね」
事務的にそう言われ、なんだか居心地が悪くて廊下にいる厚一さんを見る。
すると退屈そうに起き上がった厚一さんは、非情な事を言った。
「一応受けてみたらいいのに」
「性病検査みたいなものだから大丈夫ですよ」
「――初めてだって言うのも調べれます?」
「こ、厚一さん!」
そんなの嫌だと言おうとして、名前を呼んだら厚一さんも押し黙る。
沈黙が続く中。
厚一さんはぼそっと吐き出した。
「だって母さんが嘘かもしれないって」
ぞわっと背中が一瞬で鳥肌が立つ。
この人、デリケートな話まで母親にしているのか。
どこまでしているんだろうか。
聞けなくて怖くて。
――私たちは会話を止めてしまった。
待ち合わせまではデートだと思ってわくわくしていたのに。
今は不安でたまらない。
『姉ちゃん、バイク納車した!』
そのタイミングで侑哉から楽しそうなメールが来て救われる。
『すごいね。これで勉強にも身が入るね』
そう打つ。
スマホをタッチする音だけが待合室にひびく。
『今からバイクで姉ちゃんとこまで行こうかな』
『いきなり遠出は危ないよ。でも』
――でも会いたいな。
そう打って送信したら厚一さんが携帯を覗いてきた。
「メール?」
「うん。弟に」
それを聞くと、ちょっと面白くなさそうな顔をした後、また長椅子に横になる。
***
優しい婚約者がいました。
いつもぐいぐい引っ張ってくれるような、私の意見も聞かない俺様とばかり付き合っていた私に、
その人は穏やかに笑って尋ねてくれました。
『みなみさんは、どこに行きたい?』
何でも私に決めさせてくれる。
そんなの初めてで。
ただ、何も決めれない優柔不断な人だったのかもしれないけど、それでも好きだから苦痛じゃなかった。
上司で私の指導係の部長は、仕事はできるけと自分にも部下にも厳しい人だったから、――自分の意見を飲み込んでしまう私はなかなか心を開けなくて。
だから、笑うと目が細くなる穏やかな厚一(こういち)さんに惹かれたんだと思う。
そう思ってたのに。
あの夜の少し前。
プロポーズを受けて仕事も辞めたあの日。
珍しく厚一さんから行きたい場所があると言ってきた。
「えっと……? ここ?」
連れて来られた場所は、かなり趣のある小さな産婦人科。
日焼けしたポスターが貼られた入り口の窓はヒビが入っているし、年季が入った壁には手入れもされていないような、草の蔓が巻き付いている。
「うん。安くて腕が良いって、母さんが調べてくれたんだ」
母さん……。
その言葉にぴくりと無意識に反応してしまう。
厚一さんはよく会話に『母さん』を出すから。
『母さんが買ってくれた服』
『あの政治家は裏で録な事をしてないって母さんが』
『母さんが作る煮物が好きで』
母親思いの良い人だと今まで信じていたんだけれど。
「ここで何、するの?」
「ブライダルチェックって。母さんが結婚する前に女性は必ず受けるって言ってたよ」
「……そうなんですね」
ちょっと、いやかなり躊躇する外見の産婦人科だけど、さらりと言う厚一さんを見ていたらそんなものなのかもしれない。
ブライダルチェックて何するんだろう?
検査は血液検査や分泌物検査、あとは内診。
厚一さんは廊下の長椅子で居眠りしているだけで。
何も分からず不安な私は、暇をしているであろう弟の侑哉にメールをしてみた。
バイトのし過ぎで大学の単位がヤバくなった侑哉は、今は土日しかバイトを入れていなかったはず。
バイクも買えてルンルンな侑哉とは、ほぼ毎日メールをしていたし。
携帯だけがこの空間で安心できるものだったけれど。
診察に呼ばれ、診察室の台に寝転ぶと、医師はカルテを記入しながらこちらを見る事なく言う。
「性交の経験は?」
「え!?」
自分の父親より年上のご老人一人。受け付けに奥さんか年配の女性が一人。
そんな二人しかいない小さな産婦人科だったのだけど、そんな事を質問されるなんて。
「な、ないです……」
「じゃあ触診はしないからエコーだけだね」
事務的にそう言われ、なんだか居心地が悪くて廊下にいる厚一さんを見る。
すると退屈そうに起き上がった厚一さんは、非情な事を言った。
「一応受けてみたらいいのに」
「性病検査みたいなものだから大丈夫ですよ」
「――初めてだって言うのも調べれます?」
「こ、厚一さん!」
そんなの嫌だと言おうとして、名前を呼んだら厚一さんも押し黙る。
沈黙が続く中。
厚一さんはぼそっと吐き出した。
「だって母さんが嘘かもしれないって」
ぞわっと背中が一瞬で鳥肌が立つ。
この人、デリケートな話まで母親にしているのか。
どこまでしているんだろうか。
聞けなくて怖くて。
――私たちは会話を止めてしまった。
待ち合わせまではデートだと思ってわくわくしていたのに。
今は不安でたまらない。
『姉ちゃん、バイク納車した!』
そのタイミングで侑哉から楽しそうなメールが来て救われる。
『すごいね。これで勉強にも身が入るね』
そう打つ。
スマホをタッチする音だけが待合室にひびく。
『今からバイクで姉ちゃんとこまで行こうかな』
『いきなり遠出は危ないよ。でも』
――でも会いたいな。
そう打って送信したら厚一さんが携帯を覗いてきた。
「メール?」
「うん。弟に」
それを聞くと、ちょっと面白くなさそうな顔をした後、また長椅子に横になる。
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