49 / 80
症状五、処方箋求む。
症状五、処方箋求む。①
しおりを挟む
ブザーを押す手が、馬鹿みたいに震えている。
漸く押せたと思ったら、心の準備ができないまま颯真さんが扉を開けた。
「わかば」
「……片づけに来ました」
何もしらないふりをして笑顔――なんて出来なかった。でもきっと彼は、今朝のエレベーターのことが気まずいのだと勘違いしてくれたのか、クスクス笑った。でも顔が見れない。
彼の履いているホテルのスリッパだけが鮮明に頭の中へ入ってくる。
泣きだしてしまいそうで、見れない。
「そろそろ手が開く時間だと思ったんだ」
店長と恋人ならば、確かに手が開く時間も分るってわけだよね。
「で、そろそろ上がりじゃない?」
早番の時間まで知ってる。それが何だか余計に辛い。知らないふりをしてくれたら良かったのに。
「いえ。まだ終わってません」
「ちょっと顔色悪そうだけど、疲れてる?」
心配そうに覗きこもうとした彼を避けて、部屋の中にあるワゴンを持った。
彼が片づけてくれていたおかげで、持っていくだけで済む。早く此処から出られる。
「わかば?」
「風邪を、風邪を引いたんです。きっと」
震える声は、自分でも笑ってしまうほど弱々しかった。
絶景が見えるスイートルームで、窓に映った自分の顔は、この場所には不似合いだった。似合わない。
幸せそうな顔もしていないと、茜さんに指摘されるほど。
「風邪を、引きました。――用心もしていなかったから、きっと悪化したんです。熱もあるし、息をするのも苦しいんです」
ワゴンを握り締めながら、そう言うのがやっとだった。
「なので、今日は家に帰ります。ごめんなさい」
自分で拾っておきながら子猫の容体よりも、自分の心が傷つくのを押しれた私は最低だ。そんな自分を、気づかれたくなかった。
「……確かに具合が悪そうだよね。病院に連れていくから下で待ち合わせしようか」
「いえ。先輩が送ってくれるから大丈夫です」
菊池さんならとっくにエステへ行ってしまったから嘘だけど、今、この状況から逃げ出せるなら何でも良かった。
「本当に?」
「はい。颯真さんもお仕事頑張って下さい」
深く頭を下げて、すぐにドアを閉めた。
エレベーターに乗り込むまで、もしかして追いかけて来たらどうしようかと不安でいっぱいだったけれど、乗りこむその瞬間まで扉の向こうから音がすることは無かった。
どうやって挨拶をしてどうやってレストランまで戻ってきたのかはっきり思い出せないまま、休憩室へ辿りついた私は、風邪を引いた心から一つ涙を流した。
店長に挨拶する時も、どんな顔をして良いのか分からずそそくさと犯罪者の様に逃げ出して帰った。
ざわざわする心のまま家に帰りたくなくて、自分の家の駅で降りてからまた本屋へ向かった。今度は本屋のカフェで、颯真さんの本を読もうと珈琲を注文し本を広げる。広げても、全く頭に入って来なくて、開いても開いても頭は真っ白になって行くばかりで読むのを止めた。
漸く押せたと思ったら、心の準備ができないまま颯真さんが扉を開けた。
「わかば」
「……片づけに来ました」
何もしらないふりをして笑顔――なんて出来なかった。でもきっと彼は、今朝のエレベーターのことが気まずいのだと勘違いしてくれたのか、クスクス笑った。でも顔が見れない。
彼の履いているホテルのスリッパだけが鮮明に頭の中へ入ってくる。
泣きだしてしまいそうで、見れない。
「そろそろ手が開く時間だと思ったんだ」
店長と恋人ならば、確かに手が開く時間も分るってわけだよね。
「で、そろそろ上がりじゃない?」
早番の時間まで知ってる。それが何だか余計に辛い。知らないふりをしてくれたら良かったのに。
「いえ。まだ終わってません」
「ちょっと顔色悪そうだけど、疲れてる?」
心配そうに覗きこもうとした彼を避けて、部屋の中にあるワゴンを持った。
彼が片づけてくれていたおかげで、持っていくだけで済む。早く此処から出られる。
「わかば?」
「風邪を、風邪を引いたんです。きっと」
震える声は、自分でも笑ってしまうほど弱々しかった。
絶景が見えるスイートルームで、窓に映った自分の顔は、この場所には不似合いだった。似合わない。
幸せそうな顔もしていないと、茜さんに指摘されるほど。
「風邪を、引きました。――用心もしていなかったから、きっと悪化したんです。熱もあるし、息をするのも苦しいんです」
ワゴンを握り締めながら、そう言うのがやっとだった。
「なので、今日は家に帰ります。ごめんなさい」
自分で拾っておきながら子猫の容体よりも、自分の心が傷つくのを押しれた私は最低だ。そんな自分を、気づかれたくなかった。
「……確かに具合が悪そうだよね。病院に連れていくから下で待ち合わせしようか」
「いえ。先輩が送ってくれるから大丈夫です」
菊池さんならとっくにエステへ行ってしまったから嘘だけど、今、この状況から逃げ出せるなら何でも良かった。
「本当に?」
「はい。颯真さんもお仕事頑張って下さい」
深く頭を下げて、すぐにドアを閉めた。
エレベーターに乗り込むまで、もしかして追いかけて来たらどうしようかと不安でいっぱいだったけれど、乗りこむその瞬間まで扉の向こうから音がすることは無かった。
どうやって挨拶をしてどうやってレストランまで戻ってきたのかはっきり思い出せないまま、休憩室へ辿りついた私は、風邪を引いた心から一つ涙を流した。
店長に挨拶する時も、どんな顔をして良いのか分からずそそくさと犯罪者の様に逃げ出して帰った。
ざわざわする心のまま家に帰りたくなくて、自分の家の駅で降りてからまた本屋へ向かった。今度は本屋のカフェで、颯真さんの本を読もうと珈琲を注文し本を広げる。広げても、全く頭に入って来なくて、開いても開いても頭は真っ白になって行くばかりで読むのを止めた。
0
お気に入りに追加
63
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑
岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。
もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。
本編終了しました。
社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
憧れのあなたとの再会は私の運命を変えました~ハッピーウェディングは御曹司との偽装恋愛から始まる~
けいこ
恋愛
15歳のまだ子どもだった私を励まし続けてくれた家庭教師の「千隼先生」。
私は密かに先生に「憧れ」ていた。
でもこれは、恋心じゃなくただの「憧れ」。
そう思って生きてきたのに、10年の月日が過ぎ去って25歳になった私は、再び「千隼先生」に出会ってしまった。
久しぶりに会った先生は、男性なのにとんでもなく美しい顔立ちで、ありえない程の大人の魅力と色気をまとってた。
まるで人気モデルのような文句のつけようもないスタイルで、その姿は周りを魅了して止まない。
しかも、高級ホテルなどを世界展開する日本有数の大企業「晴月グループ」の御曹司だったなんて…
ウエディングプランナーとして働く私と、一緒に仕事をしている仲間達との関係、そして、家族の絆…
様々な人間関係の中で進んでいく新しい展開は、毎日何が起こってるのかわからないくらい目まぐるしくて。
『僕達の再会は…本当の奇跡だ。里桜ちゃんとの出会いを僕は大切にしたいと思ってる』
「憧れ」のままの存在だったはずの先生との再会。
気づけば「千隼先生」に偽装恋愛の相手を頼まれて…
ねえ、この出会いに何か意味はあるの?
本当に…「奇跡」なの?
それとも…
晴月グループ
LUNA BLUホテル東京ベイ 経営企画部長
晴月 千隼(はづき ちはや) 30歳
×
LUNA BLUホテル東京ベイ
ウエディングプランナー
優木 里桜(ゆうき りお) 25歳
うららかな春の到来と共に、今、2人の止まった時間がキラキラと鮮やかに動き出す。
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
ハズレ嫁は最強の天才公爵様と再婚しました。
光子
恋愛
ーーー両親の愛情は、全て、可愛い妹の物だった。
昔から、私のモノは、妹が欲しがれば、全て妹のモノになった。お菓子も、玩具も、友人も、恋人も、何もかも。
逆らえば、頬を叩かれ、食事を取り上げられ、何日も部屋に閉じ込められる。
でも、私は不幸じゃなかった。
私には、幼馴染である、カインがいたから。同じ伯爵爵位を持つ、私の大好きな幼馴染、《カイン=マルクス》。彼だけは、いつも私の傍にいてくれた。
彼からのプロポーズを受けた時は、本当に嬉しかった。私を、あの家から救い出してくれたと思った。
私は貴方と結婚出来て、本当に幸せだったーーー
例え、私に子供が出来ず、義母からハズレ嫁と罵られようとも、義父から、マルクス伯爵家の事業全般を丸投げされようとも、私は、貴方さえいてくれれば、それで幸せだったのにーーー。
「《ルエル》お姉様、ごめんなさぁい。私、カイン様との子供を授かったんです」
「すまない、ルエル。君の事は愛しているんだ……でも、僕はマルクス伯爵家の跡取りとして、どうしても世継ぎが必要なんだ!だから、君と離婚し、僕の子供を宿してくれた《エレノア》と、再婚する!」
夫と妹から告げられたのは、地獄に叩き落とされるような、残酷な言葉だった。
カインも結局、私を裏切るのね。
エレノアは、結局、私から全てを奪うのね。
それなら、もういいわ。全部、要らない。
絶対に許さないわ。
私が味わった苦しみを、悲しみを、怒りを、全部返さないと気がすまないーー!
覚悟していてね?
私は、絶対に貴方達を許さないから。
「私、貴方と離婚出来て、幸せよ。
私、あんな男の子供を産まなくて、幸せよ。
ざまぁみろ」
不定期更新。
この世界は私の考えた世界の話です。設定ゆるゆるです。よろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる