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症状一、自覚症状はなし。

症状一、自覚症状はなし。⑨

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「結構です! 信じられない」
「いつまでも死んだヤスのことで泣くな。さっさと忘れて俺と付き合え!」
「死んだなんて簡単に言わないで! 意味分からない!」
「お前は俺の事を全然見てねーって言ってるんだよ! ヤスなんかと比べるな!」

『ヤスなんか』『ヤスはもう居ない』『さっさと忘れろ』『たかが猫』

幼馴染なら私がヤスと朝から寝る時までずっと一緒だったことを知ってて、どうしてこんな酷い言葉を吐けるんだろう。
見たくない。ヤスを否定する柾なんて見たくない。
悔しくて悲しくて、我慢していた涙が一つ、零れ落ちた。
するとふわりと甘い匂いが私に近づいてきた。

「此処にいたのか、わかば」
私の腕を引っ張ると、泣き顔を隠
すように胸の中に閉じ込めてくれた。

「あ、貴方は……」

マスクもサングラスもしていなかったけれど、私には分かった。深いブラウンの瞳で私を覗きこむその人を見上げる。その人は今朝の調律師さんだった。
息を切らして、私を探してくれていたのか、髪が乱れている。

「ふー。ワインを君が持って来てくれると思わなかったから、慌てたよ」
「へ?」

何の話しか首を傾げていたら、テーブルを蹴り、威嚇しながら柾が立ち上がった。

「お前、誰だよ。ってか、わかばに馴れ馴れしく触るな」

怒っている柾を見て、私が調律師さんの胸にしがみ付くと、大きく舌打ちする。

「君こそ、俺の婚約者を怒鳴って泣かせていたみたいだが?」

婚約者――?
びっくりして顔を上げると、彼は優しく笑った。

「婚約者? そんなの幼馴染の俺が知らないのはおかしいだろ」
「ふ。俺も君みたいな幼馴染がいるとはわかばから聞いたことないけどな」

挑発するように彼は柾を小馬鹿に笑う。柾もピリピリと今にも殴りかかりそうで怖い。駄目だ。調律師さんは風邪気味だって言ってた。柾に殴られたら、悪化してしまうかもしれない。

「君は自分の気持ちを彼女に押し付けるだけで、ガキみたいだ」
「なんだと」
「俺は大切な存在を無くした彼女の傷が癒えるまで、待つよ」

肩を優しく抱きしめ引き寄せると、再び私の瞳を覗きこんだ。

「君の傷が癒えるまで、待つよ。俺は」

その言葉が、もしかして柾から助けてくれるための婚約者のふりの台詞だとしても、嬉しかった。嘘でも、その言葉は私の胸の中へ落ちてきて染み込ませていく。

「泣いてもいいよ。悲しみを流すのは、心がきっとすっきりするだろうしね」

 優しい彼の言葉に、胸に顔を押し付けて溢れだす涙を拭く。
そして深呼吸しながら柾を見た。混乱して呆然としている柾に、私はゆっくり言う。

「柾、ごめんなさい。言いすぎた。けど、ごめんなさい。柾の恋人にはなれません」
「本当にそいつが婚約者なのか」
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