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三、白い部屋:「見つけないで」

三、白い部屋:「見つけないで」

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 周りに心が読まれることはなくなった。
 これが皆の普通でも私にとっては人を殺して得た特別な日々だ。
 気づけば夏は終わり、私は成績を落としていた。
 真中さんが通っていた高校は、私立松咲高校で、県下トップクラスの高校。
 今までの成績だったら余裕だったけれど、今の成績ではギリギリ。
 秋はフリースクールと塾と家を行き来して日々を過ごした。
 何も考えなくて良い勉強は、私の空になった頭には丁度よいのか成績はすぐに戻った。
 でもね。
 壁に掛けられた絵画を見たり、空を見上げたり、ひまわりのイラストを見ただけでも私の心は簡単に折れる。誰に土下座しても救われることはない。彼が生き返ることもない。
 そんなときは白い部屋に逃げ込んだ。
 誰の心も声も思い出も聞こえない場所で、真中さんを思ってひたすらに下唇をかむ。
 ちゃんとしたお別れも、気持ちも伝えていない私が泣くのは卑怯だと思って我慢し耐える。
 でもね。
 きっと一生苦しいし、一生私はひとごろしだと忘れてはいけないんだ。


 二学期の終わりに久しぶりに学校に行った。
 松咲高校には、うちの中学から八人受験するらしいけど、私のクラスからは居ない。
 一から頑張るには良い場所だよって担任の先生が教えてくれた。
「松咲高校はな、陸上部が有名だぞ。巳波は手足が長いしスポーツもいいぞ」
「軽音部と美術部もあるって聞きました」
 私が初めて自分から発した会話に、熊みたいな先生は目を輝かせて驚いていた。
「おお。あるぞ。近くのカフェで展示会したり。もう文化祭は終わったが、文化祭では軽音部が朝から終わりまでずっとステージで演奏している。……先生の母校なんだ」
 先生は、美術部の先生は知り合いだから俺の名前を出していいぞっていろんな松咲高校の話をしてくれて、私は受験する気持ちを固めた。
「結構、勉強が大変みたいだけど、大丈夫? 無理しなくて良いのよ」
 お母さんは先生に断ってから、携帯で学校のホームページを見ながら心配そうに言う。
 でも私は決めていた。だって真中さんがおいでって言ってくれた高校だったから。
「走り幅跳びとか、どうかな。巳波」
「陸上部には入りませんってばあ」
「お前なら一メートル七十センチぐらいすぐに飛べるぞ」
「……え?」
 その距離をいきなり口にされて驚いて固まってしまった。
 いつの間に私の心の部屋の距離を先生が知ってるの。
「女子中学生の走り幅跳びの平均だよ。一メートル七十セントちょっと。これぐらい巳波なら簡単に飛べる。目標があるスポーツは楽しいぞ」
 先生は、陸上部のコーチが自分の同級生だと教えてくれて、いい人だから絶対に入れ、見学だけでも行けとしつこく食い下がってきた。
 でも私はその距離が呪いの数字みたいで大嫌い。
 真中さんの身長でもあり、私を苦しめていた心の距離だ。

「あっれー。巳波さん、来てるじゃん」

 進路指導室から出てくるのを待っていたと言わんばかりに、同じクラスの女子生徒数人が立っていた。私を見て手を振っている。
 その中には真昼さんは当然居なかった。       

「お母さん、車回してくるわね」
 同級生との触れあいに、母が嬉しそうだったので私も会釈した。
 同級生にはあまり良い思いはないけど、母には感づかれたくない。
「受験どこにするの? うちら、制服の可愛い東高だよ。巳波さんは?」
「まだ分からない」
「ふうん」
 話しかけてきた人は、真昼さんと仲が良かった華音さんって人だったと思う。
茶髪に耳にピアスが輝いているのが見える。その後ろに数人、ひそひそ話をしている子たちはちょっとだけ感じが悪い。元々、私が心を読まれたくなくて遠ざけていた人たちだから、嫌われていて当然。ただ、私からは関わらないから、関わってほしくない。
同年代の人たちとの接し方なんて、私には全く未知のものだから。
「真昼も巳波さんに会いたがってたよ。机の上にプレゼントが置いてあるからちょっと来て」
「いや、母が待ってるし」
「ちょっとだけだからあ」
 強引に背中を押され、手をつかまれ一階の三年の教室へ引きずられるように連れて行かれた。教室に入るのは怖くはないが億劫で、今まで良い思い出がない場所に自分から来たいとは思えなかった。
 放課後の教室なので、誰も居ない。三者面談で帰宅しているのと部活だからかもしれない。
 私の席は誰も座りたがらない教卓の目の前。そこにどうせ来ないからと定位置とされている。
 一年、二年の時は、席替えで同じように移動してもらっていたらしいけど、三年になって益々来なくなったせいかここに追いやられていた。  
 その席に、花瓶が置かれている。黄色の菊の花が一輪刺さっているが、そこは私の席だ。
 菊の花の意味ぐらい、分かっている。けれど怒りも悲しみも沸かなかった。私はこの人たちに興味がないから。
「真昼は、お兄ちゃんと同じ高校を目指すために塾行ったり、勉強頑張ってたんだけどね」
「誰かのせいで、学校にもあんま来なくなっちゃったし、成績も落ちちゃってもう受験は無理なんだってさ」
「ほんっとう、お前、なんなの?」
 机に飾られた菊の花を触ろうとしたら、机が吹っ飛んだ。
 華音さんが足で蹴りとばしたらしい。
「お前、まじうぜえんだけど」
 床に転がる花瓶を、ほかの女子生徒が蹴り飛ばして笑っている。
「三者面談だけ来るっておかしくねえの。学校来ないなら大人しくしとけよ。顔も見たくねえんだよ」
 女子生徒たちは目配せすると机を蹴り出した。
 次々と倒れていく机を見ながら笑い合っている。
「あんな風にボロボロに泣く真昼を見たくなんてなかった」
「あんたのせいなんだろ」
 私が頷くと、怒りで無表情になった華音さんが私を突き飛ばし、廊下へ飛び出すと大声で叫ぶ。
「不登校の巳波さんが教室で暴れてますーっ」
「先生、たすけてー」
「きゃー」
 笑いながら机を蹴飛ばす女子生徒たちは、手を叩いて楽しそう。
 ついでに私も間違えて何回か蹴ったあと、廊下に飛び出して駆けつけた先生に事情を話し出した。
 泣きながら事情を話している数人の生徒と、机が倒れた教室の真ん中で佇む私。
 信用されるのがどちらかなんて明白。
 これは意地悪ではない。皆が大事にしている、大好きな真昼さんのための復讐。

「あ、忘れてた。巳波さん、その花瓶プレゼントするから。必死で言い訳しなよ。花瓶が飾られていたから発狂しちゃいましたって。信じてくれる人もちょっとは居るんじゃない?」
 ドアから華音さんがありがたいアドバイスをしてくれたので、花瓶を隠した。
 見苦しい言い訳はしたくない。嫌われているなら嫌われたままで良い。
 騒ぎを嗅ぎつけ、廊下には人が騒ぎ始めている。
 中には「うそ、私の机がひどい」とか「え、だれ、あいつ」とか。
 三者面談で保護者も来ているので、何人かこちらを覗いているのが視界の隅で確認できる。

「おい、どうしたんだ。巳波」
 担任の先生が、のっしのっしと大きな熊みたいな体でほかの人たちを押しのけながら駆け寄ってくる。
 先生は廊下の生徒の様子と私を見て困惑していた。
「……何があった?」
「いえ。ちょっと音に驚いてしまって」
 聴覚過敏症って偽っていたのが助かった。
 けれど言い訳は、ひとごろしの私には卑怯かもしれない。
「私、真昼さんのお兄さんをころしたんですよ」
「――辛い事故だったな。分かってる」
「私に出会わなかったら、私が存在しなければ、私が声を漏らさなければ、真昼さんは学校に来れたのに」
「おい、――ちょっと色々と一度に話すな。何か本当はあったんだろう」
 優しい先生は、机を起き上がらせながら優しい声で私に話そうとする。
 ああ、良かったな。私の声が聞こえなくなって本当に良かった。
「むしゃくしゃしてやっただけ。先生、あと廊下の人たち、片付けといて」
「おい、巳波、おいって」
 廊下に飛び出して、華音さんに花瓶を押しつけた。
「悪いけど、机戻しておいて。私は面倒だから帰る」
「はあ? お前がやれよ」
 睨まれ凄まれたけど、微笑んでおく。
 私の汚い本音が漏れない世界は美しい。
「ひとごろしだから、やりたくない」
 華音さんにだけ聞こえる声で囁いて笑う。
 一瞬息をのんで後ずさるのが分かって私も満足だ。
「せんせー、私、見ました。彼女たちが巳波さんを連れ出してここで彼女を蹴ってるの。私見ました」
「はあ!?」
 これで解決したって思っていたのに、知らない女の子が担任の熊の前に立ち塞がっていた。ハッと息を飲むような綺麗な女の子。華音さんたちとは違う。スカートを折っておらず、切って短くしている。堂々とした校則違反の制服を見にまとった美少女が無表情で私と華音さんとクマを交互に見て、華音さんを指さした。
「この人たちが引きずってこの教室に巳波さんを――」
「喧嘩です。ここで華音さんたちと喧嘩したせいで、机が倒れちゃったんです。喧嘩です」
「それで巳波さんがいいなら、喧嘩ってことにすれば? 被害者の意見が喧嘩なら喧嘩でどうぞ。けど気が変わった時は証言なら私がしてあげますので」
 長い髪をなびかせて、名前も知らないその人はまとまりかけていた話に嵐を呼んで、居座っている。腕を組んで片足に体重を乗せて立っているだけなのに、化粧して派手な姿の華音さんたちより綺麗で迫力がある。
「私、別に巳波さんの肩をもってるわけじゃないよ。悪い奴が悪いことして、罪にならないのが腹立つだけ。胸糞悪いじゃん」
「はあ!?」
「大声あげて威嚇すればいいと思ってるしさあ」
 華音さんと四人の女子生徒相手に、一人で堂々と立ち向かう美少女。
 この人、一体誰なんだろう。
「面倒くさくなってきたから、私は帰るよ。先生、さよーなら」
 お礼を言わなければいけないのかもしれないが、本当に余計なことだった。
 私にはこれぐらいどうってことないのに。どうせ来ない学校なのに。 
 彼女は先生以外の、私や華音さんたちには目もくれず、爽快に去っていく。
「真実は、どっちなんだ。巳波」
「……ああ、面倒くさい」
 私なら耐えられたのに。
 ここで私が悪いって言えば、助けてくれた彼女が嘘つきになってしまう。
 助けてくれてお礼も言えなかった彼女は、たった一人で数人相手に助けてくれたのに。
「彼女の言っていることが全て正しいです。なので、失礼します」
 ひとごろしだと分かれば、『悪い奴が悪いことして罪にならないのが腹立つ』精神の彼女は、私を助けなかったかもしれない。こんな風にいじめられることは罰だって、見て見ぬふりをしてくれたかもしれない。
 隠したらいけなかった。
 急いで靴に履き替えて外に出ても、謎の美少女はとっくに姿を消していた。
「香澄―。遅いからどうしたのかなって何度もメールしたのよ」
 職員専用の駐車場から母が携帯を持った手を振ってくる。
 ……心が読めなくなって本当に良かった。
 車で帰っている間に、何が起こったか伝わってしまう。これではだめだ。
 これで良かったんだ。
「ついでに机に何か置いてなかったかって、先生と確認しに行ってた」
「あら、先生は次の生徒さんと面接じゃなかった?」
「副担任だよ。眼鏡かけたモップみたいな髪の」
「香澄」
 外見の特徴について言及したら窘められた。
「ちょっとドライブして帰ろうか」
「お母さん、松咲高校って私立だけど、大丈夫? 学費高いんだよね」
 私が行きたいところに反対はしなかった。でも私はそこに行きたいだけで学費とか何も考えていない。
 しがないサラリーマンと通販アクセサリーショップ運営で、いまさらながら私立に行っていいのか気になった。
「そんなこと気にしなくていいのよ。それよりも周りを気にしたり、目標を持ってくれて嬉しいの」
 母はミラー越しに微笑む。いつもそう。私が心の本音を言えた時から、全部受け入れてくれる。
「それより松咲高校前をドライブして、お茶して帰りましょう。近くにケーキが美味しいカフェがあるらしいの」
 母の提案で松咲高校の前を通った。
 制服はブレザーに憧れがあったのに、松咲はワンピース型。紺色のワンピースに深紅の色のリボンが揺れている。
 男の子は普通の学ランで、学校指定のハイブランドのロングコートを着ているのを見かけた。華音さんたちの行く商業高校は華やかなブレザーだったけれどこちらはお嬢様っぽい。
 一瞬しか見えなかったけど、庭には松が植えられていた。そして奥にはマリア像。
 カトリックだったっけと携帯で調べたけれど、共学になるまえがカトリック系の女学園だったらしい。
「制服、可愛いワンピースだったわねえ。お母さん、あそこのブランド好きなのよ」
「ブランドものって高くない?」
「香澄ったら。子どものくせに心配しずぎね」
 ふふって母が笑いつつ、今度は目的地のカフェに到着しても第一声が『かわいいっ』だった。
 さすが可愛くてキラキラしたアクセサリーを作っている母だ。可愛いものに飛びつくのが早い。
 カフェは白と茶を基調としたモダンなカフェで、一本木で作られたテーブルが五席と外のカフェテラス、二階からは音楽が聴こえてくる。
「まあ。ケーキも全部可愛い。どれにしようか迷うわあ」
 私がチョコタルトと紅茶を選んだのに、母は苺タルトと紅茶シフォンケーキとラズベリーパイに悩んでいた。 
 こんなに幸せそうな母に、さきほどの学校での喧嘩を知られたくないなって思う。
 優しくていい人には、幸せの中に居てほしいって思うものだ。
「ねえ、香澄ちゃん、二つずつたべない? どっちか食べてよ」
「えー。ご飯はいらなくなるよ」
「あ、今、香澄ちゃんの声が聞えちゃった。ご飯は簡単に済ましていいから、二つ食べたいって。すいませーん」
 全く心の声が届いていないし、勝手に決めてくるしで思わず笑ってしまった。
 母はこんな人だ。さっきの学校のことで、心を痛めるのだけは申し訳ないけど、でも私も場を丸く収めるために今度はもっとうまく立ち回ろうって決めた。
「二階って何があるんです? 綺麗な音ですねえ」
 注文を取りに来た若い女性に母が聞くと、女性は申し訳なさそうに天井を見上げた。
「松咲高校の軽音部がたまに練習につかったりライブしたりするんです。うるさくてすみません」
「いいえー。賑やかで素敵ですよ」
「一階は、文化祭の時に美術部の作品を展示したりするのでよかったら来てください。次は三年生の卒業作品を展示しますねえ」
 テーブルの横のメニューの横におかれていた三枚折にされたプリントを抜くと、テーブルの上に置いた。
 松咲高校の美術部がカフェで作品展をする。
 その話は――真中さんから聞いていた。ここがそのカフェだったんだ。
「すみません。と、トイレに」
 まだ思い出は浄化できない。私と出会って私にころされてしまった真中さん。
 彼の思い出や言葉や声が思い出されると、泣き叫びたくなる私はひとごろしなのに、自分勝手で傲慢だ。
 トイレで涙を押さえてから、落ち着いてから戻ろうと思ったんだ。
 なのに共同のトイレに入ろうと横切った通路の先。
 カウンター席の横に飾られていた一枚の絵に目を奪われた。
 リスがカフェを開いて、切り株の上には溢れんばかりのごちそうが並べられ、動物が囲んでいる。
 あったかくて絵本テイストの雰囲気のこの絵に見覚えがあった。
 一歩一歩近づいて、でも途中で膝から崩れ落ちてしまった。
 真中さんの絵。でも近づけない。見るのが怖い。現実が怖い。
 目の前にあるのに私は近づいていいのか分からなくなる。
「おい。具合悪いのか?」
 二階の階段から降りてくる男の人に声をかけられ顔をあげた。
 鋭い目つきで、愛想もない顔。ピアスが不良だよって主張していて怖い。
「無視? 具合悪くてしゃべれないのか」
 立ち上がらせようと手を伸ばしてきたので、私は腰が腰が抜けたような情けない体制で後ろへ下がった。
「……このイラストが、し、……知り合いの絵に似ていて」
「あー……ああ、はいはい。なるほど。だよな。この絵は家族がまだ見るのが辛いからって俺が全部預かってんだよ」
「貴方が……?」
「でも忘れられんのもむかつくから飾ってもらってんだ。まだ数か月しか経ってないからさ。お前、美術部の後輩か?」
 私の制服を見て怪訝そうか顔をする。
 表情はやはり怖い。怒っているのかってぐらい表情も硬く声も低い。
 なのに彼の首に揺れているネックレスを見て固まった。
 レジンで私が作ったギターのネックレス。
 それだけだったら、もしかしたら似たやつかなって流すこともできたんだけども、ギターの横にもう一つ揺れているキャンパスのモチーフに涙が零れ落ちた。
「おい、どっか痛いのか? おい、馬鹿姉、こっちお客が倒れてんぞ」
「だ、いや、大丈夫です、ちがうから、大丈夫だから」
「大丈夫な奴が泣くかよ。ほら、俺につかまれって。奥にバイト用の休憩室あるから」
「違うの、違うんです」
 あの事故の日、そのネックレスも血まみれになったはず。
 ネックレスの部分は粉々になった。それなのにどうしてこの人の首にぶら下がっているの。
 そのギターだって、真中さんの親友用に作ったネックレスだ。
 こんなへたくそなレジンのネックレス、なんでまだ持ってくれてるの。
「香澄ちゃん、どうしたの?」
「大丈夫。久々にいっぱい歩いたから立ち眩みしただけ」
 母がお店の人と話している間に、私の目の前に男の人がやってくると、ゆっくりと屈んで私の顔を覗き込もうとしてきた。
必死で顔を背けるのに、目力が怖くて、逃げられない。
「『かすみ』って名前、どっかで聞き覚えがあるんだけど」
「私は、知りません」
「かすみ、かすみ、……その制服も真昼と同じ学校だし、なんだっけなあ」
「す、みません。立ち眩みだけなんで」
 急いで母のもとへ逃げようとしたら、腕を掴まれた。
「待てよ。今、真中の絵を見て泣いてただろ。お前、もしかして」
「違います! お願いだからそれ以上、もう言わないで」
 私の怒鳴り声に他のお客さんたちからの視線が集まってくる。
 バツが悪そうに男の人も手を離した。
 母が箱にいれてもらったケーキを持って私のもとへ駆け寄ってくる。
「大声を出してすみません。でも、本当に、お願いです。私のことは気にしないで忘れてください」

 深々と会釈して、母の背中を押して慌ててカフェの外に出た。
 相手の人の表情も確認したくなくて、急いで出た。
 あの人は真中さんの親友だ。軽音部でギターをしているって言っていた。
 『けいと』さんだ。おそろいのネックレスをするような、親友。
 私の思い出を詰めたガラス瓶を作った人。
 真中さんを大切に思ってくれていた親友さんにどんな顔をして会えばいいのか、どんな言葉を言えば正解なのかが私には見えなかった。


車に乗り込み、座席に倒れながらも私の心は落ち着かなくて、震えていた。


「松咲高校の受験、やめた方がいいのかな」

助手席にケーキを置いていた母に言うと、嘆息された。

「だって――真中さんを知る人たちが沢山いる。分かってたのに、分かっているつもりだったのに」

 あの人たちの前で私は平然と高校生活を送れるほど、面の皮が厚いわけもない。
 それともこれがひとごろしの私の罰なのかな。

「香澄ちゃんはね、前に進むために松咲高校に行くべきだと思う。この先、楽しかった思い出も記憶も、好きな人の全ても逃げないで大切にできる人になってほしいから」

母は真っ赤な鼻をすすりながら言う。

「松咲高校を受験しなさい」

 さっき勉強が大変だって心配してくれていたはずなのに。
 今は私の全力で逃げる私の姿勢に喝をいれようと、普段そんな口調で話さないのに言ってきた。
 車内は甘酸っぱいラズベリーや苺、甘いチョコの香りが漂っていた。


 逃げていたい。全力で逃げていたい。今までそれでよかった。
 今までそれで生きてこれた。
 退化しないが進歩もしない私の宙ぶらりんな状況。

 いつも優しい母が厳しい言葉を告げたのは、後にも先にもこれだけだったけど、馬鹿な私には十分すぎる言葉だった。
 それから一度も中学には登校しないまま私は松咲高校を受験し、合格した。
 そして卒業式も参加しないまま中学を卒業。
 ほぼ私を知らない人ばかりの高校で、――真中さんが通っていた高校で0からのスタート。
 右も左も上も下も分からない。人と関わることなんて真中さんでこりているのに。
 それなのに、もう一度0から頑張ってみたいって思ったんだ。
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