上 下
1 / 1

痛みと優しさは似ている

しおりを挟む

 親指にできたささくれをいじり続けていたら、いつのまにか血が出ていた。
 もう、30分近く歩き続けている。
 どうやら私は道を間違えたらしい。

「駅から歩いて5分って言ってたのになぁ」
 一時的なバグか、あるいは電波が悪かったのか、さっきはうまく動かなかったスマホの地図アプリを再び開いてみる。

 改めて確認すると、私はずっと、目的地とは逆方向に向かって歩いていたらしい。
 どうりで、いつまで歩いても目的地につかないわけだ。

 地図をよく見たら、さっき降りたのとは別の駅がすぐ近くにあるらしい。
 都会ってすごいなぁ。歩いて行ける距離に、こんなにたくさん駅があるんだ。
 便利そうだけど、どこに行っていいのか迷ってしまいそうだ。
 今の私みたいに。

 もういっそ、一番近い駅から電車に乗って、帰ってしまおうか。

 勇気を出してここまで来たはずなのに、道を間違えていたとわかった途端、気持ちが萎えてくる。

 でもよく考えたら、ここから電車に乗っても無事に自宅までたどり着けるとも限らない。東京の電車の乗り換えは複雑だっていうから。

 仕方なく引き返して、やっとのことでさっき私が下りてきた駅まで戻ってみたけど、やっぱりあの人に会いに来たこと自体が間違いだったんじゃないか、という気持ちは高まるばかりだった。

 ちょっといったん冷静になりたい。
 ちょうどお腹もすいてきたことだし、近くにあった店に入ってみた。
 ずっと昔からここでやっていたような雰囲気の、どこか古い時代を感じさせながらも都会らしい、お洒落な洋食店だ。

 店内は狭く、カウンター席と、2人席と4人席が2組ずつしかない。
 幸いにも、カウンター席の端がひとつあいていた。

「ハンバーグセットを……」
「あれ? お客さん、指から血が出てるよ」

 メニューを見ながら注文を伝えようとしたその時、店員の若いお兄さんが、私の声を遮ってきた。

「ああ……えっと、大丈夫です……ささくれから血が出ただけで……」

「絆創膏、ありますよ! 待っててください!」
「え、いや……」
 けっこうです、と伝える間もなく、お兄さんは厨房まで行き、絆創膏を手に戻ってきた。

 ここまでくると、断る方が申し訳ない気分になってくる。
「……ありがとうございます」
 丁重に絆創膏を受け取ろうとしたら、にっこり笑ったお兄さんが「巻いてあげますよ。右手に巻くの、やりづらいでしょ」と言ってくる。

 都会の人って、もっと冷たくて他人に無関心なイメージがあったけど、このお兄さんはずいぶんと人懐っこいんだな、などと思いながら指を差し出していたら、親指の上の絆創膏はぐにゃっと歪んだ状態で私の皮膚にへばりついていた。
 どう見ても失敗だ。
「あれっ? すみません!」

「不器用が慣れないことするんじゃないよ!」
「うるせーよ!」

 別のお客さんに料理を出していた年配の女店員さんがたまたま一部始終を見ていたらしく、私たちの間に割って入ってきた。

「すみませんねぇ、息子が」
「……親子でお店をされているんですね」
「ええ。なにせ、小さい店ですから」

 おかみさんは手早く私の指の絆創膏を貼り直すと、改めて注文を聞いてくる。

「ハンバーグセットをお願いします」
「はい、かしこまりました!」

 注文の品を運んできたのはさっきのお兄さんだ。
「すみません、さっきは」
「いえ……お母さん、ってあんな感じなんですね」
「え?」
「あ、す、すみません! 私、母がいないもので、つい……」

 つい、余計な言葉をさらに口にしてしまった自覚はあったが、一度口に出した言葉は、口の中にはもう戻ってくれないものだ。
 お兄さんは困った顔をしてしまっている。

「ごめんなさい」
 私はもう一度謝った。
 すると、お兄さんはまたにこっと笑って、ついさっきあいたばかりの隣の席に腰かけてきた。

「おねーさん、ここの店にくるのはじめて? 職場、ここから近いの?」
「え……」
 ずいぶんと馴れ馴れしい態度だ。
 でも、ここのお客さんのほとんどは店員と顔見知りみたいだから、店自体が、そういう雰囲気なのかもしれない。

「違います。仕事じゃ……なくて……」
 いま私が着ているのは、スーツほど堅苦しくはないが、比較的フォーマルな服装だ。
 仕事帰りのOLだと思われても仕方ない。

「……母に、会いにきたんです。山梨から」
 嘘をつくのが苦手な私は、つい、また余計なことを正直に答えてしまう。

「お母さん? いないんじゃなかったの?」
 きょとんとしながら問われる。
 うん、確かにさっきそう言った。それも嘘じゃない。

「……ずっと、離れて住んでて……ここは、母が今住んでる家の近くらしいんです」
 正確には、置いて行かれたのだ、私は。
 十五年前、まだ小学生だった私を、あの人は捨てた。
 それから私はずっと、山梨のおばあちゃんの家で暮らしている。

「へぇー。きみのお母さん、近くに住んでるなら、もしかしてこのお店にきてくれたことあるかな?」
「……どうでしょうね」
 駅のすぐそばの店だ。通りがかることはあるかもしれない。

「……お兄さんは、この街にずっと住んでるんですか?」
「そうだよ。このへん、金持ちばっかり歩いてそうに見えるけど、ちょっと行けば、普通に庶民的な住宅街もあるからさ! やっすい借家に住んでるんだ」

「……この街、住みやすい、ですか?」
 人も店も駅もたくさんあって、私は歩いているだけで目がチカチカしてくる。
 そんな街で暮らしている人の気持ちが……母の気持ちが、知りたくなった。

「俺はこの街、気に入ってるから、住んでて楽しい、かな? あ、物件探すつもりなら、声かけてよ。友達の親が賃貸マンションのオーナーやってるんだ。マンションっつっても、そんなお高いところじゃないからさ」
「……はい」
「……あ、いらっしゃいませーっ!」
 どう答えるべきか悩んでいたところ、店に新しい客が入ってきて、お兄さんはそちらに行ってしまった。

「こちらのお席にどうぞ」
 さっきお兄さんが腰かけていた席に、女性の一人客がやってくる。

「……あ」
「あ」
 ほぼ二人同時に声を上げる。

 そこにいたのは、母だった。

「かよこ、よね……?」
「うん……」
「ごめん、なかなか来ないから、今日はもう来ないつもりなのかと思って、ごはん食べにきちゃったわ」
「……道に迷って、この店にたどり着いたの」
「そっか……」

 会話はそこで途切れた。
 私は気まずい雰囲気の中、肉汁がたっぷりの美味しいハンバーグを、時間をかけて咀嚼した。

「…………その指、どうしたの? 怪我?」
 ようやく母が口を開いた。
 私は苦笑する。

「ただの、ささくれ」

 冬がくるたびに思い出す。
 毎晩寝る前、この人が私の手にクリームを塗りこんでくれていたことを。
 あの頃、私は確かに母に愛されていたと思っていた。

 この人はまだ、覚えてくれているだろうか?


しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

両隣から喘ぎ声が聞こえてくるので僕らもヤろうということになった

ヘロディア
恋愛
妻と一緒に寝る主人公だったが、変な声を耳にして、目が覚めてしまう。 その声は、隣の家から薄い壁を伝って聞こえてくる喘ぎ声だった。 欲情が刺激された主人公は…

【完結】捨ててください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと貴方の側にいた。 でも、あの人と再会してから貴方は私ではなく、あの人を見つめるようになった。 分かっている。 貴方は私の事を愛していない。 私は貴方の側にいるだけで良かったのに。 貴方が、あの人の側へ行きたいと悩んでいる事が私に伝わってくる。 もういいの。 ありがとう貴方。 もう私の事は、、、 捨ててください。 続編投稿しました。 初回完結6月25日 第2回目完結7月18日

ロリっ子がおじさんに種付けされる話

オニオン太郎
大衆娯楽
なろうにも投稿した奴です

親戚のおじさんに犯された!嫌がる私の姿を見ながら胸を揉み・・・

マッキーの世界
大衆娯楽
親戚のおじさんの家に住み、大学に通うことになった。 「おじさん、卒業するまで、どうぞよろしくお願いします」 「ああ、たっぷりとかわいがってあげるよ・・・」 「・・・?は、はい」 いやらしく私の目を見ながらニヤつく・・・ その夜。

夫の幼馴染が毎晩のように遊びにくる

ヘロディア
恋愛
数年前、主人公は結婚した。夫とは大学時代から知り合いで、五年ほど付き合った後に結婚を決めた。 正直結構ラブラブな方だと思っている。喧嘩の一つや二つはあるけれど、仲直りも早いし、お互いの嫌なところも受け入れられるくらいには愛しているつもりだ。 そう、あの女が私の前に立ちはだかるまでは…

♡蜜壺に指を滑り込ませて蜜をクチュクチュ♡

x頭金x
大衆娯楽
♡ちょっとHなショートショート♡年末まで毎日5本投稿中!!

【完結】返してください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
ずっと我慢をしてきた。 私が愛されていない事は感じていた。 だけど、信じたくなかった。 いつかは私を見てくれると思っていた。 妹は私から全てを奪って行った。 なにもかも、、、、信じていたあの人まで、、、 母から信じられない事実を告げられ、遂に私は家から追い出された。 もういい。 もう諦めた。 貴方達は私の家族じゃない。 私が相応しくないとしても、大事な物を取り返したい。 だから、、、、 私に全てを、、、 返してください。

処理中です...