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痛みと優しさは似ている
しおりを挟む親指にできたささくれをいじり続けていたら、いつのまにか血が出ていた。
もう、30分近く歩き続けている。
どうやら私は道を間違えたらしい。
「駅から歩いて5分って言ってたのになぁ」
一時的なバグか、あるいは電波が悪かったのか、さっきはうまく動かなかったスマホの地図アプリを再び開いてみる。
改めて確認すると、私はずっと、目的地とは逆方向に向かって歩いていたらしい。
どうりで、いつまで歩いても目的地につかないわけだ。
地図をよく見たら、さっき降りたのとは別の駅がすぐ近くにあるらしい。
都会ってすごいなぁ。歩いて行ける距離に、こんなにたくさん駅があるんだ。
便利そうだけど、どこに行っていいのか迷ってしまいそうだ。
今の私みたいに。
もういっそ、一番近い駅から電車に乗って、帰ってしまおうか。
勇気を出してここまで来たはずなのに、道を間違えていたとわかった途端、気持ちが萎えてくる。
でもよく考えたら、ここから電車に乗っても無事に自宅までたどり着けるとも限らない。東京の電車の乗り換えは複雑だっていうから。
仕方なく引き返して、やっとのことでさっき私が下りてきた駅まで戻ってみたけど、やっぱりあの人に会いに来たこと自体が間違いだったんじゃないか、という気持ちは高まるばかりだった。
ちょっといったん冷静になりたい。
ちょうどお腹もすいてきたことだし、近くにあった店に入ってみた。
ずっと昔からここでやっていたような雰囲気の、どこか古い時代を感じさせながらも都会らしい、お洒落な洋食店だ。
店内は狭く、カウンター席と、2人席と4人席が2組ずつしかない。
幸いにも、カウンター席の端がひとつあいていた。
「ハンバーグセットを……」
「あれ? お客さん、指から血が出てるよ」
メニューを見ながら注文を伝えようとしたその時、店員の若いお兄さんが、私の声を遮ってきた。
「ああ……えっと、大丈夫です……ささくれから血が出ただけで……」
「絆創膏、ありますよ! 待っててください!」
「え、いや……」
けっこうです、と伝える間もなく、お兄さんは厨房まで行き、絆創膏を手に戻ってきた。
ここまでくると、断る方が申し訳ない気分になってくる。
「……ありがとうございます」
丁重に絆創膏を受け取ろうとしたら、にっこり笑ったお兄さんが「巻いてあげますよ。右手に巻くの、やりづらいでしょ」と言ってくる。
都会の人って、もっと冷たくて他人に無関心なイメージがあったけど、このお兄さんはずいぶんと人懐っこいんだな、などと思いながら指を差し出していたら、親指の上の絆創膏はぐにゃっと歪んだ状態で私の皮膚にへばりついていた。
どう見ても失敗だ。
「あれっ? すみません!」
「不器用が慣れないことするんじゃないよ!」
「うるせーよ!」
別のお客さんに料理を出していた年配の女店員さんがたまたま一部始終を見ていたらしく、私たちの間に割って入ってきた。
「すみませんねぇ、息子が」
「……親子でお店をされているんですね」
「ええ。なにせ、小さい店ですから」
おかみさんは手早く私の指の絆創膏を貼り直すと、改めて注文を聞いてくる。
「ハンバーグセットをお願いします」
「はい、かしこまりました!」
注文の品を運んできたのはさっきのお兄さんだ。
「すみません、さっきは」
「いえ……お母さん、ってあんな感じなんですね」
「え?」
「あ、す、すみません! 私、母がいないもので、つい……」
つい、余計な言葉をさらに口にしてしまった自覚はあったが、一度口に出した言葉は、口の中にはもう戻ってくれないものだ。
お兄さんは困った顔をしてしまっている。
「ごめんなさい」
私はもう一度謝った。
すると、お兄さんはまたにこっと笑って、ついさっきあいたばかりの隣の席に腰かけてきた。
「おねーさん、ここの店にくるのはじめて? 職場、ここから近いの?」
「え……」
ずいぶんと馴れ馴れしい態度だ。
でも、ここのお客さんのほとんどは店員と顔見知りみたいだから、店自体が、そういう雰囲気なのかもしれない。
「違います。仕事じゃ……なくて……」
いま私が着ているのは、スーツほど堅苦しくはないが、比較的フォーマルな服装だ。
仕事帰りのOLだと思われても仕方ない。
「……母に、会いにきたんです。山梨から」
嘘をつくのが苦手な私は、つい、また余計なことを正直に答えてしまう。
「お母さん? いないんじゃなかったの?」
きょとんとしながら問われる。
うん、確かにさっきそう言った。それも嘘じゃない。
「……ずっと、離れて住んでて……ここは、母が今住んでる家の近くらしいんです」
正確には、置いて行かれたのだ、私は。
十五年前、まだ小学生だった私を、あの人は捨てた。
それから私はずっと、山梨のおばあちゃんの家で暮らしている。
「へぇー。きみのお母さん、近くに住んでるなら、もしかしてこのお店にきてくれたことあるかな?」
「……どうでしょうね」
駅のすぐそばの店だ。通りがかることはあるかもしれない。
「……お兄さんは、この街にずっと住んでるんですか?」
「そうだよ。このへん、金持ちばっかり歩いてそうに見えるけど、ちょっと行けば、普通に庶民的な住宅街もあるからさ! やっすい借家に住んでるんだ」
「……この街、住みやすい、ですか?」
人も店も駅もたくさんあって、私は歩いているだけで目がチカチカしてくる。
そんな街で暮らしている人の気持ちが……母の気持ちが、知りたくなった。
「俺はこの街、気に入ってるから、住んでて楽しい、かな? あ、物件探すつもりなら、声かけてよ。友達の親が賃貸マンションのオーナーやってるんだ。マンションっつっても、そんなお高いところじゃないからさ」
「……はい」
「……あ、いらっしゃいませーっ!」
どう答えるべきか悩んでいたところ、店に新しい客が入ってきて、お兄さんはそちらに行ってしまった。
「こちらのお席にどうぞ」
さっきお兄さんが腰かけていた席に、女性の一人客がやってくる。
「……あ」
「あ」
ほぼ二人同時に声を上げる。
そこにいたのは、母だった。
「かよこ、よね……?」
「うん……」
「ごめん、なかなか来ないから、今日はもう来ないつもりなのかと思って、ごはん食べにきちゃったわ」
「……道に迷って、この店にたどり着いたの」
「そっか……」
会話はそこで途切れた。
私は気まずい雰囲気の中、肉汁がたっぷりの美味しいハンバーグを、時間をかけて咀嚼した。
「…………その指、どうしたの? 怪我?」
ようやく母が口を開いた。
私は苦笑する。
「ただの、ささくれ」
冬がくるたびに思い出す。
毎晩寝る前、この人が私の手にクリームを塗りこんでくれていたことを。
あの頃、私は確かに母に愛されていたと思っていた。
この人はまだ、覚えてくれているだろうか?
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