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28 ありがとう、そしてさよなら

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「凛音……ここにいたのか」

 空のてっぺんまで昇った太陽が眩しい。
 息を切らしながら走ってきた愁は、汗でびっしょりになっていた。

 白い雲に向かって手を伸ばす。
 雲の形がアイスクリームに見えるといって、あれを食べたいと愁と語り合っていたのは、いつのことだっただろうか。
 伸ばした腕は健康的に日に焼けていて、夏でも真っ白な肌だったリンネの細い腕とは似ても似つかなかった。

「……帰ろう。潮風に当たりすぎるのはよくない」
「……ねぇ、せっかくだから、泳いでみる?」
 目の前には、小さな海水浴場。
 地元の人しかこないような場所だが、それなりに人がたくさんいる。
 楽しそうな歓声が、堤防の上に座る凛音たちのもとまで響いてきていた。
 足元にはたくさんのテトラポッド。
 足をぶらぶらさせながら、凛音は言ってみた。

「ふざけるな!」
 予想以上に大きな声が返ってきて、凛音の肩がビクリと震える。

「……あ、すまん……」
 凛音を怯えさせてしまったことに気づいた愁が、慌てて謝ってくる。
 それほど、愁にとっては、反射的に拒絶してしまうほどのありえない誘いなのだとわかった。

「なんで? ここが、リンネが死んだ場所だから?」
「……っ」
 愁が視線をそらすのと同時に、凛音はゆっくりと立ち上がった。
 海風が凛音の髪を舞いあげたが、光に当たると透き通って見える白金の髪は、もうない。夜の闇色よりも深い真っ黒な髪が揺れるだけだ。

「ねぇ、リンネは、火葬場で燃やされて骨になったんだよね?」
 白い波が立つ彼方の水平線を見つめながら問う。
「……それが、どうした?」
 ぎこちない愁の返事。思い出したくない、みたいな感じが伝わってくる。
(ごめんね、嫌なこと思い出させて)

「もし……海に流されたまんま見つからなくて、魚の餌になっちゃったら、自然の循環の一部になれたのかな?」
「…………」
 ずいぶんと昔の、幼稚園時代の話を愁が覚えているかはわからなかったけど、愁は神妙な面持ちで黙り込んでいる。

「どうせなら、海の一部になって消えたかったな。そしたら……海のどこかにリンネがいるって思ってくれたら、愁ちゃんもみんなも、もっとあったかい気持ちで海を見ることができたでしょう……?」
「リンネがもし海に消えたまま見つからなかったら……オレはきっと、見つかるまで海に潜り続けただろう。何度でも。たとえそれでオレがいつか海の藻屑になったとしても」
 静かだが揺るぎない声に、凛音は振り返る。

「そうだね。シュウちゃんは、そういう人だったね」
 凛音はかすかに微笑んだ。

「……思い出したよ。シュウちゃんとの約束。リンネがもし先に死んじゃったら、シュウちゃんがリンネのお墓を作ってくれる、って約束してくれたね」
 愁は下唇を噛みながら頷いた。
「すまない……家族でもない小学生のオレに、リンネの墓を作ることはできなかった」
「ううん」
 ゆるやかにリンネは首を振る。

「なんか、プロポーズみたいで嬉しかったよ」
「プロポーズ……そうかもな」
 ずっと難しい顔をしていた愁が、そこでようやく、口元を緩めた。

「お墓、今からでも作ってくれる?」
「でも……おまえはここにいるじゃないか」
「うん。リンネは生まれ変わって凛音になった。でも、リンネは十年前に死んじゃった。それは、誰にも変えられない、事実なんだよ」
「……そうだな」

「リンネを……みんなが好きだった来栖リンネを、ちゃんと葬ってあげよう。それが終わったら、僕はもう、ただの黒崎凛音に戻るよ」
「……そうか」

 また会えただけで、もうじゅうぶん。
 新しい人生を歩いてもいい。
 先にそう言ったのは愁だから、凛音の決断を否定することなく、愁は静かに頷いた。

 ――だけど、そんな寂しそうな顔で納得しちゃうのはずるいと思う。

「だから、ね……今度からは、愁さん、って呼んでもいい?」
「……なんだって?」
 恥ずかしそうに言い出した凛音に、愁は目を瞠る。

「だって、十四歳も年上の人を『ちゃん』付けで呼ぶのは変だし、失礼でしょ?」
「……別にオレは失礼だとは思わないが」
「とにかく、愁さん、って呼ぶの!『シュウちゃん』っていうのはリンネだけの呼び方だったから、僕はいいの!」
「……凛音?」
「愁さんのこと、僕も好きになっちゃった。だから、リンネから奪うね」
 へにゃりと笑って、堤防から飛び降りる。

「な……っ」
 慌てて差し出された腕の中に、凛音は落ちていった。
 ぷらんとつま先が宙に浮く。
 もちろん、無傷だ。

「危ないだろう。そういうのはやめなさい」
 年上が年下に言い聞かせる口調。
 リンネには使わなかった言葉遣い。
「えへへへへ……」
「なにがえへへだ」


「……どういう状況?」
 声がしたので振り返ると、汗だくの四人が立っている。
 最初に声を発したのは礼香だった。
「ぐふふ、ラブストーリーの予感……」
 気持ち悪い笑みを浮かべる綾子を咎めるように、貴希がムッとした表情で綾子の耳を引っ張る。
「ごめん、リンネ! みんなに話し聞いてもらって、リンネのお化けはオレの幻覚だったってようやくわかった! そうだよな、リンネは、たとえ死んだとしても誰かを恨むようなやつじゃなかったもんな……! だから、ごめん! 許してくれないか!?」
 目の前まで駆けてきた仁八が頭を下げてくる。
 愁の腕からおろしてもらって、改めて仁八と向かい合った凛音は、にこりと笑った。

「そうだね。誰も、恨んでなんかなかったよ。でも、きっといたんだね、リンネのおばけ」
「リンネ……?」
 屈強そうな顔に似合わぬ鼻水をたらしながら、仁八がおそるおそる見上げてくる。
「ジンパチだけじゃない。みんなの中に、リンネのお化けがずっと棲みついてたんだね。だから、今日はそのお化けと、バイバイしよう?」

「……墓を、作りたいんだそうだ。リンネの。……凛音、みんなに手伝ってもらってもいいか?」
「もちろん」

 みんなで顔を見合わせる。
 愁も仁八も綾子も貴希も礼香も、みんな笑ってくれた。
 一瞬だけ、ここにいる全員が小学生だった頃に戻ったような錯覚を覚える。
 みんなの姿も、小学生の姿に。
 でも、それは幻で、すぐに潮風にさらわれて消えた。

 こんな風に笑い合えていた日々が永遠に続けばいいと思っていた。
 でも、永遠なんていうのは幻想で、もう、あの頃には二度と戻れない。
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