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本編*第二章 - 展開編 -*
第8話、廃病院【後編】
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投げた剣を抜こうと柄を手にすると、刺さった人形も周囲の人形もケタケタと笑い出した。まるで操り人形、人形達は空中に浮き上がり笑いながら診察室中にある器具やカルテ等が浮かび襲い掛かってくる。一方でシルイートの剣が刺さったままの人形は、剣で床に縫い付けられているせいかその場に残ったままケラケラと笑い続ける。
そんな人形を見て多少の攻撃を受けつつもシルイートは避け、剣を引き抜けばその見た目に似合わぬ威力の蹴りで人形の頭を潰す。頭を潰された人形はピクリとも動かなくなったので、あまりにもわかりやすい弱点に自分達がからかわれている気がして不快だ。
……いや、実際にからかっているのだろう。この人形達を操っている者が自殺者なのかあの妙な気配の者達なのかは知らないが、厄介だという事だけは確かだ。シルイートは冷めた目で潰れた人形を見下ろしぐりんと怠そうに首を傾げる仕草をする。
「ふーん、頭をぷっちんすれば止まるわけかー。この子じゃちょっと面倒だからなー。」
まだその場にいる人形達はこちらの様子を窺っているようだ。この時点でおかしい。通常の自殺者なら逃れたい一心でからかう余裕等無いはず、恐らく先程感じた妙な気配の方の仕業だろう。シルイートは自分の愛剣を見つめ、この状況には合わないと判断する。
「出番だよー、“ハリー”くーん」
シルイートはそう言うと愛剣を床に突き刺し、カーテシーをしながらスカートの両端をつまみ、軽く持ち上げる……カーテシーというのは西洋文化的な挨拶の一種だ。
呼びかけに答え、スカートの中から針と同じくらいに細い苦無が無数に現れる。苦無は孔雀の羽を連想させる扇状に、シルイートの後ろに意思を持つように展開した。“針孔雀”と名を冠するこの暗器は、シルイートの愛剣と共に使われる補助武器の一つである。どういう構造なのかは謎だが、彼のスカートの中身にはこのようにいろんな物が備えられている。
ニコッと可愛らしい笑顔を浮かべながら、人形達を指差し無慈悲に言い放つ。
「さ、ハリーくん、あんなカワイクナーイ子達なんて可愛いハリネズミにしちゃえー!」
針孔雀は迷いなく人形達の攻撃に阻まれながらも、数の暴力にものをいわせて頭を狙い突き刺していく、その多さに耐えきれず次々と人形の頭は破壊され、落ちていった。
「もー! せっかくの服がぁーさいあーくー……」
役目を終えた針孔雀に「おつかれさまー、戻っていいよ」と指示すると、針孔雀はスッとシルイートのスカートの中へ戻っていった。何度か受けた攻撃でボロついた服にため息をつきつつ、血が出てないのを確認している時、視界の端に光る物に気づいて近づく。
それは注射器だった。シルイートは何かこの状況の手掛かりになりそうな気がしたため持っていこうと、手を伸ばす。
「……この注射器」
触れた瞬間、この注射器とは別にもう一つ何かアイテムらしき物が近くにある気配を感じ取る。注射器ともう一つのアイテムは何かしらリンクしている可能性がある。今は少しでも情報が欲しい……なら、罠の可能性もあるが調べるしかないだろう。注射器とリンクしているであろうアイテムの気配を追って、一度落ち着こうと息を吐いてから行動を開始するも、織鶴の身を案じそのスピードは走ってると言っていい程早かった。シルイートは診察室のドアへ行き、外へ出る。
「え」
ふと、シルイートの体が少し揺れ、部屋を出たかと思えばそこはレントゲン室だった。
「どういうコトかなー……てか、なまぐさー!?」
今まで織鶴と離れてしまった状況や、突然の敵出現で他を考える余裕がそれ程なかったが、背中に違和感がある事に漸く気づいたシルイートは不快そうに叫んだ。サンシュユの描かれたシルイートの背中が、ほんの少しだけ湿っていたのだ。
「え、なにこれ、え、最悪ー!」
本気で嫌そうに顔を歪める。大体は見知らぬ液体が服に付き、背中がどことなくひんやりと感じる事に対してだが、自分の反応できない速度で触れられた事への嫌悪感もある。
あまり時間をかけると織鶴が危険だと再確認したシルイートは、気を引き締め直しながら「これじゃー、鶴ちゃんが危ないっ」と呟いた。
(切りがない……なら、)
一本一本では埒が明かない。ここは“あれを使うしかない”と判断する。
「“千羽鶴”」
そう言うと織鶴は自らの髪を一本抜き取り、前へパラリと放る。するとバサバサッと何かが羽搏く音がしたかと思えば、五十羽くらいの鶴が織鶴の周りに現れた。この技は千羽鶴という名の通り、最大千羽まで出す事もできるが、今のターゲットの数的に千羽も必要ないと判断し五十羽くらいにしたのだ。
織鶴は目を細め、弓に触れていない左手を前へ突き出し口を開く。
「“別れの飛び立ち”!!」
技名を聞いた鶴達は一斉にバランスボールに目掛けて飛び掛かり、嘴で攻撃を仕掛ける。バンッバンッと弾け響くバランスボールの音が喧しく、鼓膜が破けそうになり織鶴は両手で両耳を見ざる聞かざる言わざるの聞かざるのようにして塞いだ。鶴達は使い捨てタイプらしく、バランスボールを一羽に一つ破裂させる度に姿を消して一本の矢に姿を変えて床に落ちる。
暫く室内は連続で花火でも打ち上げているのかというくらいに騒がしかったが、次第に鳴り響く数が少なくなっていき、最後の一つが破裂すると信じられないくらいに静まり返る。織鶴は両手をゆっくり離すと、それと同時にカランッと小さい金属が落ちる音が響く。音のした方向を見ると床にキラリと光る物が見えた。
「これは……ひゃあ!」
最後に力を振り絞ったのか拾おうとした物が跳んできた。しかしまだ近くで余って待機していた鶴が織鶴を庇って盾になり、跳んできた物に首を裂かれ血を吹き出し消え、その姿を矢に変えた。織鶴は申し訳なく感じながらも、今度こそ跳んできた物を拾うとそれは──
「メス……?」
手術等で使う刃物、金属音がしたのはステンレス製だからだ。替刃は鶴の血でベットリと付いて汚れてしまっている。
この時、シルイートと同じくメスとは別にもう一つ何かアイテムらしき物が近くにある気配を感じ取る。メスともう一つのアイテムは何かしらリンクしている可能性があると考えた織鶴は、シルイートと合流するための手掛かり欲しさにメスを持ちながら歩き出した。
とりあえず部屋を出るためドアノブに手をかけ開くと、そこは先程までシルイートがいた診察室だった。床には人形の残骸が散らばっているが、織鶴は入れ違いに気づくはずもない。それより、リハビリテーション室から出たら廊下ではなく診察室という事がおかしい。
それに、一つ気になる感覚があった。ドアを開け一歩踏み出した時に、自分の体が一瞬揺れた気がしたのだ。シルイートと同じく、織鶴もここで漸く背中がほんのり湿っている事に気づく。恐らく最初に階段を上り切った時、濡れた何かが背中に触れてもそれ程湿っていなかったため気づきにくかったのだろう。
「どうなってるの?」
その頃シルイートは、もう一度ドアを開け一歩踏み出したら次は診察室ではなくまたレントゲン室だった。この時も先程と同じく体が濡れた何かによって一瞬揺れ、背中が更に湿った。
確信する。部屋が変わっているのではなく、"何者かによって移動させられている"のだと……。
「そっちがその気なら……」
これ以上気味の悪い物が自分の体に触れるのも嫌だが、仕組みがわかってしまえば部屋を出ようとも同じ事の繰り返しで、いつまで経っても織鶴と合流する事はできない。シルイートはある方法を思いついた。
自分の今回の任務は自殺者対応、正直この自殺者相手に一人で片付けるのは容易い。しかしコンビを組んだ相手を守り、成長に繋がるように教えていくのが任務と同等に大切にしているために、彼女がこの状況でどう動くか少し楽しみになっていた。
シルイートは部屋から出ようとせず、室内を走り回り出す。これには意味があった。
(僕の方へ意識が向いたカナー?)
恐らく織鶴も自分と同じように自殺者に場所を移動させられているだろうと想像つく。織鶴は一見頼りなさそうな子に見えるが、あれでもサフィニアに昇進した実力を持っている削除者だ。何も考えず未だにドアを開けて行ったり来たりの繰り返し等をせず、今頃は異変に気づいて自殺者の気配を探って待機しているだろう。
室内を走り回り続ければ、部屋から出た瞬間に自分達の体に触れて移動させていた自殺者は、自ら体に触れに行こうと動き出す。意識が向きやすいのは、何故か部屋から出ようとせず室内を動き回って目立っているからだろう。そうすれば、織鶴が行動しやすくなるだろうと考えたのだ。
(さて鶴ちゃん、君はどー動くかなー?)
──シルイートの予想通り、織鶴は異変に気づき始めていた。織鶴は冷静に今までの状況を頭の中で整理していく、次第にシルイートと同じように自分は移動させられているのだと理解すると、このままでは無駄に魂が削られていくだけだと思い別の方法を考える。
ふと、過去に先輩のアロンザと任務に行った時の言葉を思い出す。削除者歴の長い彼女は、カカオの法則が通じないこのような状況の時は「何もしない」と言っていた。
──「相手から出てくるのを待つ、ただ、自殺者が一瞬でも気配を出した時に対処できる腕でないと命取りになる場合もある。新人にはお勧めしない。やるかやらないかは自己責任だがな。」
そう言っていたのを思い出し、織鶴は自分にできるかどうか不安になる。しかし迷っている余裕はなかった。
(魂玉はいくつかある……やってみる価値はある。)
それに、動いている間は気づきにくいものだが、耳を澄ませ周りを意識すると気配も感じ取りやすい。
(一か八か……!!)
髪を一本引き抜き放ると何羽か鶴がバサリと現れる。鶴達は織鶴の意志のまま動く、自殺者が現れた時に攻撃を仕掛けるつもりだ。
……暫くじっとしていると、段々自殺者の気配が微かに感じ取れるようになっていく。その気配がゆっくりと、どこかへ移動しているのがわかった。
初めは自殺者がこちらに来るのを待っていた織鶴だが、気配はこちらに来るどころか別の場所へ向かっている事に気づく。相手の意識が別の対象に向いている内に、気づかれないようこちらから近づけるチャンスかもしれない。織鶴は自分の気配を押し殺しつつ、ゆっくりと歩き出した。
ドアの方まで来ると、自殺者は別の対象に意識を向いているため今なら部屋から出られると確信し、ドアを開けると予想通りそこは廊下だった。もう一つのアイテムの気配を感じる方向へ足を進め、着いた先はレントゲン室のドアの前だった。ドアノブに手を伸ばそうとすると、中で探していた相手の気配がして安堵する。
ゆっくりとドアを開け中を覗くと、シルイートが室内を走り回っていた。その様子はまるでダンスパーティーで誰かと優雅に踊っているようにも見えたが、同時に何かを挑発しているようにも見えた。実際後者の方だろう……シルイートは「鬼さんこちらー手のなるほーへー」と無邪気に笑いながら動いている。
(あれは……!)
中の様子を観察しているとある事に気づいた。シルイートが動き回る中──ほんの一瞬だが円型の異空間がシルイートの後ろに追うように現れ、中から"長い何かが"出てきていた。異空間は大体90cmくらいのマンホールの蓋サイズ、長い何かはまだよく見えない。恐らく、あれが自分達を別の場所に移動させていた自殺者だろう。
自殺者は室内であちこち動き回るシルイートに苛立ってきたのか、ついにシルイートの真正面から異空間を作り出し出てきた。その時少しだけ出現時間が二秒長かったのではっきりと織鶴の目に映り込む。
……それは蛙の舌だった。今回の自殺者は飛び降り自殺──何度も繰り返す内に、体に怨念が溜まっていくと同時に姿形まで潰れていき変化。その結果、伏せをする蛙の姿になったのだろう。舌はシルイートの体に触れられず地面に当たってはすぐに異空間に引っ込む。
「へたっぴー、獲物も狙えないカエルクーン? 僕はここだよー? 疲れちゃったかなー?」
足元への不発に、ニコニコとしたかと思えば煽るように言葉を発して、動きをさらに不規則に変えていく。その途中で視界の端に織鶴の姿を目視すれば、一瞬安堵の表情を浮かべるが、すぐに楽しげな表情で自分に意識が向くように煽るように声を出し続ける。
シルイートが囮になっている間に、織鶴は先程放った後に鶴から姿を変えた矢を箙から抜き取り、ググッと手に力を込め弓を構える。傍に鶴がいつでも攻撃を仕掛けられると待機しているが、鶴を動かせば気づかれてしまう。ここは矢の方が仕留めやすいと判断した。
シルイートが動く場所は不規則のようで、よく見てみると大体決まった場所に動いている事がわかった。これならば狙いやすい。後は……舌が出てくるタイミング、今ならカカオの法則が通じる。
カカオの法則──自殺者の出現する場所を“確”認。
(壁の隅、椅子の隣に出てくるのを確認。)
自殺者の姿を“確”認。
(円型の異空間、そこから舌が現れる。)
自殺者の時間を“覚”える。
(一秒……タイミング、先輩が三歩移動した後に一度、また三歩移動した後に一度。)
一、二、三──織鶴の目が大きく開く。矢が放たれると柔らかいものが無慈悲に刺さる音と、床に縫い付けられる音が長くビィィンと室内に響いた。一度鶴だった矢はただの矢になっても力は強く、寧ろ普通の矢より頑丈だ。刺さった物は逃れられず、藻掻ている。数秒後……異空間が大きくなりベチャリと想像通りの巨大な蛙が床に落ちてきた。
織鶴はしっかりと自殺者を仕留めていた。縫い付けられた舌の傷口から、黒い霧が出てきて織鶴の弓に吸い込まれていく。
「で、きた……?」
蛙は元の人型姿に戻り、また自殺をしに屋上へ戻るためスゥッと消えていった。
「鶴ちゃんー! やったね!」
ふぅ……と息を吐き、やっと走り続ける事から解放されて一息つく。だが、すぐに自分の事のように嬉しそうに織鶴に声をかけて手を振った。
数秒間実感が湧かなかったが、シルイートの言葉が耳に入り我に返る。言われて初めて漸く実感が湧いてくると、嬉しさのあまりじわりと涙が浮かび、シルイートに顔を向ける。宝石のアメジストと同じ色の瞳が涙でゆらゆらと揺れる。
「しる、いぃど、ぜんぱぃ~……」
「大丈夫大丈夫ー、鶴ちゃんがやったんだよー。すごーいね!」
その言葉は本心だ。先輩として、後輩が無事に獲物を仕留めた事に喜ばないはずがない。シルイートは「特別に胸、貸してあげるよー?」と優しく声をかけ両手を広げる。髪色は月と同じ銀なのに、太陽のように暖かい心に織鶴は一瞬戸惑いながらも、緊張の糸が切れたのか照れながらも近寄った。
──その時だった。
「なぁにぃユリィ? ってやつぅ?」
ハンドベルをカラカラ鳴らしたような声で笑いながら、近くで女性が撮影台に座りながら一人薄っすらと姿を現す。その後すぐに「すぐ姿を見せちゃうなんてむぼーびすぎるよぉ~!」ともう一人の女性も、ブランと天井に両足を付けぶら下がりながら薄っすらと姿を現した……長い髪がだらんと下に下がっている。
シルイートは咄嗟に守るよう織鶴の傍に行き、反射的に手を伸ばし彼女の腕を引いた。削除者歴が長い彼は、瞬時にこの二人がそこらの自殺者とは違い危険だと察知する。
「看護師……?」
第一印象はそれだった。織鶴は目を丸くさせながら思った事をそのまま口に出す。
一人は血でも流したかのような濃い赤色の髪にふわふわショートヘア、服装は桃色のナースのようなもので緑タイツ、ナースキャップとナースシューズは服に合わせた桃色。ナースキャップには何故か鼠の飾りもある。
もう一人は毒を連想させる濃い紫色の髪にふわふわロングヘア、服装はこちらも水色のナースのようなもので緑タイツ、ナースキャップとナースシューズは服に合わせた水色だった。こちらもナースキャップには何故か蜘蛛の飾りがあり、蜘蛛の下から出た糸がまるでウェディングベールみたいだ。
「やほぉー? アンタら強いジャン?」
左手をヒラヒラさせながらふざけた様子で、片足を太ももに組みながらこちらをニタリとした笑みで見てくる赤髪ショートのナース。
「ほんとほんとっ! つよすぎぃ!」
天井に両足を付けぶら下がっている紫の長髪ナースは、両手で拳を作り跳ねるように体と長い髪を上下に揺らす。
「……自殺者じゃないねー。何か用かなー?」
そっと織鶴を庇うように前に立ち、シルイートは二人に用件を聞く。できれば何事もなく帰らせてほしいところだがそうはいかないだろう。この二人の漂うオーラは自殺者そのものだが、自殺者と同じ白目部分は墨汁と同じくらいに黒いが赤い瞳を持っている上、体が自由だ。通常の自殺者とは確実に違う……自殺者ならば考える能力もなく、余裕を持って自由に動けないはずだ。
実は幹部や一部の削除者達の間では度々騒がれていた。“妙な自殺者がいる”と……。神出鬼没、ランク付けができない程の恐ろしい力を持っている。フラワーランクの低い削除者達の中からは何人か死亡者も出ている。
運悪く……その謎の自殺者がシルイート達の前に現れてしまった訳だ。
「一応冥土の土産にネーム教えちゃう! わたしはヲルル……元此処のかんごしぃ~、こちらのぶら下がってるのは?」
「わ、わ、え、あ、えと……!」
「わたしの妹ン、ラ、ラ~! らーるるらァ~」
赤髪の女性はヲルルと名乗り、その後すぐヲルルから急に自分に振られて紫の長髪女性は慌て出す。結局慌てて言えない事を想定してたのか、流れるように間を置かずヲルルが自分で答え、気分がいいのか続けて歌い出す。どうやら紫の長髪女性はンララという名前で、どちらも変わった名前だ。
「"キミたち"、おいで?」
ヲルルがそう言うと、シルイートと織鶴がポケットにしまっていた注射器とメスが勝手に動き出し、空中に浮かび謎の看護師二人の元へ移動する。どうやら、あの注射器とメスは二人がシルイート達を試すため別々の場所で戦わせ、案内人のような役目でもさせられていたというところだろう。
織鶴が持っていたメスはヲルルの元へ、シルイートの持っていた注射器はンララの元へ帰って行き、二人は自分達の道具を手にする。
「わたしらトクベツ、そこらの自殺者みたいに常に誰かをたべてなくても自由でいられるけぇどぉ……やっぱり定期的に力はたくわえなきゃいけないのぉ……だから、ユリちゃんたちが力あるコたちかためしましたァ~」
ヲルルは変わらずヘラヘラと笑いながら説明し、左手でメスをくるくると回しながら「キミら合格。わたしらのゴハンになってぇ?」と言いながらニコッとした笑みを浮かべる。"ユリちゃんたち"というのはシルイート達の事だろう。
初めシルイートは相手が自殺者とは別物だと考えていたが、半分合っていて半分は合っていなかったようだ。存在もやっている事も自殺者と変わりないようで、通常の自殺者の頭に考える能力を与え、体が解放されたというだけな気がする。それでも、通常の自殺者とは大分違い、厄介な存在になっているのは確かだった。
「戦える相手……でしょうか? そもそも、逃げられるでしょうか?」
自分にはどう判断すれば良いかわからず、眉を八の字にさせ困惑しつつも弓を構え、織鶴はシルイートの判断を待つ。シルイートは数秒間考え、長い銀の髪を揺らし織鶴の顔を見上げ指示を出す。
「逃げるのに専念してほしーかなー。エルくんに報告お願いー、僕が足止めするから、ね?」
織鶴には荷が重い上、シルイート自身も彼女を守りながらでは苦戦するだろう。ならば彼女を逃がし、エルネストに報告した方がこちらとしては損はない。自殺者の怨念は回収しているため、本来の任務は終わっているのだ。相手にするのは立て直してからでも良いのだから。
織鶴は自分だけ逃げる行為はしたくなかったが、自分より長く仕事をしている彼の言う事は正しいのだろう。悔しいが、今の自分では逆にお荷物になってしまう。
「了解です! すぐに──」
しかし、二人が話している間にぶら下がっていたンララは慌てる素振りを見せつつも、二人が見ていない時にフッと怪しげな笑みを浮かべる。右手で持っていた注射器の押し子に左手の中指で触れ、中に怨念を込め禍々しい黒い液体を作り出す。
怨念の液体が溜まった注射器を自らの左腕に刺すと、ンララの下半身がぶくぶくと何やら膨れ上がっていき何本か足が生えていく、あれは誰もが見覚えがあるものだった。
「わ、!?」
「鶴ちゃっ!?」
蜘蛛の腹部だ……ンララはニタッと笑みを浮かべ、汗をかきながら慌てて糸疣から糸を出し、織鶴の体をもの凄い速度でグルグルに巻いていく。シルイートは手を伸ばすが、ヲルルのメスが飛んできて、攻撃を受けないため手を引っ込めてしまう。
(ダメ、今は動いちゃダメだ。)
織鶴は抜け出そうと体を動かすがすぐにやめる。力では抜け出せないくらいの硬さな上、動けば動く程服が溶けていき、肌がチリチリと焼けていって危ない。巻かれてしまった織鶴はそのまま引っ張られンララに抱き止められる。
「やった! やった! ヲルルぅはやくいこっ?!」
「あわてんぼぉ~さんめっ! ……まぁ、確かにココじゃせまいよねぇ?? そーだ場所変えようそうしよう! おじょーさん、ばいばーいっ!」
二人は勝ち誇った表情を浮かべシルイートを見ると、スゥッと織鶴ごと姿を消してしまった。シルイートは目の前で連れ去られ、何もできなかった自分に愕然とする。
自分は何をしていた? 彼女を守るのではなかったのか? 何が守る? と自分に対しての絶望が押し寄せ、顔から表情が消え雰囲気が変わる。
「おいで、おいで僕の半身達ぃ……醜い僕を隠してほしーなぁー」
優しげな口調はそこにはなく、懺悔するように呟けばザワリと空気が揺れる。先程まで出していた針孔雀が現れ、ベールのようにシルイートの周囲を囲み見えなくする。
カランカランと短剣がスカートの中から落ちる音が響く、それに合わせるよう針孔雀が背後へと移動すると足は黒い蔦に見える物が巻き付き、顔には目も口も鼻もないつるりとした銀色の仮面が顔を隠す。両手には彼女の愛剣、デューティーフラワーを半分ずつ刻まれた白と黒の短剣が対で握られていた。
「針孔雀……鶴ちゃんを守ってー? 敵は簡単に殺しちゃ駄目だよぉ? 僕が行くまで遊んでおいでー」
明らかに先程より多い、針孔雀は命令に嬉しそうに震えると四方へと飛んでいく。カツンカツンと靴音を響かせながらシルイートは歩き出した。
──青色のフラッシュを浴びた気がしたかと思えば、そこは何もない空間だった。景色は基本黒なのだが、完全な黒ではなくその中にほんのりバチバチと赤色が混じっているようにも見えた。
一言で表現するなら、目を閉じた時の色だろう。閉じた時の一瞬は青色に見えなくもないし、完全な黒ではなく、黒の中白と赤がバチバチと混じっているようにも見えるそんな色が広がった場所……織鶴はそう感じた。
今彼女はヲルルとンララの作り出した異空間に居た。織鶴の状態は変わらず、体は糸疣から出された糸でグルグルと巻かれており動けず、蜘蛛の足の内一本で担がれている。二人は織鶴を無視しこれからどうするか話し合っていた。
ンララは疑問だった──何故織鶴を今すぐに喰わないのかと、ヲルルはその疑問に対し「ばっかじゃなぁい?」と眉間に皺を寄せ、空中に浮かびながら片足を太ももに組む。
「このアマよりあっちのおじょーさんのがおいしいのぉ~、ボリューム満点たくわえまくりぃ~」
ンララはおっとりとした雰囲気の女性だが、常に内心落ち着きがなく、よく自分の頭で考えずすぐに質問してしまうので「つまり? え、なに? なにぃ?」と急かすように聞く。ヲルルは姉妹として長年付き合ってきて慣れているとはいえ、そんな彼女にうんざりとした様子で深い溜め息を一つつき答える。
「アマをエサにすればぁ~、あのおじょーさん探しにくるでしょお」
その後すぐに「アッハ! わたし天才満点ンララバカ満点! アッハ! アッハッハ!」と機嫌よく自分を褒めて笑う。何気に自分が馬鹿にされたにも関わらず鈍感なンララは、「さっすがヲルルぅ~!! はァ~ゆうかいせいこうしてよかったぁぁ」と心から安心し胸を撫で下ろす。
「さてンララ、おびき寄せる場所は決まってる……行こうか。」
ヲルルはそう言うと、ンララ達に顔を向けず先にふわりと跳ねる動きをして異空間から姿を消す。ンララは慌てて自分も織鶴を担ぎながら後を追った。
***
場所は病院の屋上、糸で巻かれた織鶴が柵から吊り下げられる。織鶴の周りには数えきれない程のメスが並んで浮かんでおり、何十枚もの窓はンララの糸で頑丈に張られちょっとやそっとでは開けられない。
織鶴は自分が情けなかった。今回の任務、シルイートの手も借り無事自殺者の怨念が没収できたかと思えば、結局先輩である彼に迷惑をかけてしまったのだ。あの時、自分が糸から避けれていればこんな状況にはならなかったのだ。
近くで監視していたンララが、糸にぶら下がりながら降りてきて織鶴の顔を見れば「なきそぉなかおぉ」と呟く。
「でもぉ、わたしたちがたべちゃえばぁ……かなしー気持ちもなにもかんがえるヨユーもなくきえるからァ……安心してぇ?」
ニコリと安心させるように笑みを浮かべていってくるが、言っている事が物騒なので織鶴はゾクリと恐怖を感じ全身に鳥肌が立つ。ヲルルは一人屋上でシルイートが織鶴を助けにくるのを待ち、機嫌がかなりいいのか鼻歌まで歌い踊っていた。
……暫くすると、カツンカツンと靴音を鳴らし誰かが屋上の階段を上ってくる。天を仰ぐように踊っていたヲルルはピタリと動きを止め、曇ってきた空を見上げたままガコンと顔だけを横に動かし扉の方へ顔を向け、ニヤリと怪しく笑みを浮かべる。
「待ちくたびれたヨ」
「あかがみちゃんはー、相手の力をみきわめたほーがいいよー? 命知らずのおろかものだ。」
姿は見えないが、先に彼の武器は様々な強化されていない窓ガラスを次々と割っていき、外へと出てきてはヲルルにそう言う。先程名乗られたはずなのに名前を呼ばなかったのは、そもそも覚える気がないかららしい。
糸の張られていない窓の割れる威力を目にし怯んだンララは、やはり慌てん坊でヲルルにどうすればいいか聞きに行こうとあわあわする。大きな蜘蛛の巣を揺らしながら動き出すが、屋上にいるであろうヲルルが「エサからはなれちゃあだめでしょお?!」と苛立った様子で怒鳴り、ンララはピタリと止まる。
「だ、だってぇ」
「ンララの糸はがんじょーなんだからぁ~、あわてるひつよーなくなァーい?」
余裕そうに言う姉の声を耳にしても、それでも不安で仕方がなかったンララはそわそわと落ち着きがなかった。「鶴ちゃんを返して」と言いながら一歩踏み出すシルイートの雰囲気は不気味で、声に色はなかった。
柵から何かが吊り下がっているのを確認すればそこに織鶴がいるのだろうとヲルルからフィッと視線をそらし、一瞬の内にヲルルの真横に移動する。ヲルルは何が起きたのかわからず何秒か目をパチクリさせ間を置くが、自分の目では追えなかった事を理解すると流石に焦りを見せた様子でシルイートに顔を向ける。
「ゆっくりと嬲ってあげるから、大人しくしてればいいよー」
まずは織鶴の救出が先、ゆっくりと歩き出しすれ違う際に囁くシルイートの声は氷のように冷たい。ただの強い奴程度に思っていたヲルルだが、今の速さで漸く自分が彼を甘く見ていたのだと察する……どうやら自分達は狩ってはいけないレベルの相手に手を出してしまったようだ。
ヲルルは自分達では敵わない相手だとわかると、先程までのまったりとした雰囲気を全て捨て怒鳴った。
「ンララに手を出そーとすんじゃねぇえぇえ!!」
最早餌の心配ではなく、妹の身の事だけが頭に浮かんだ。「イけメス共ォオ!!」と叫んで指示すると、空中に数えきれない程のメスが出現し、ユラリと動き一斉にシルイートに攻撃を仕掛ける。それに対しシルイートは「ならお前達も、僕の鶴ちゃんに手を出したのが間違いだったねー?」と感情なく言い、針孔雀に指示を出す。
織鶴までの道さえあればいい。針孔雀で致命傷になりそうな攻撃だけを防ぎ足を止めない。服が破れようが肌を裂かれようが行動に対して支障がなければ問題ない。
「鶴ちゃんを返してもらうよー? 蜘蛛のいもーとちゃん」
柵を超え、織鶴を助けるために落下しながら武器を構えンララを狙う。防ぎきれなかったメスでシルイートの髪の一部が舞い、花弁が散る様子にも見えた。
「ぅえ! あ、ぅ、え!」
いくら能力が厄介だとしても、それを上手く使いこなせなくては意味がない。上から降ってくる相手にどうすればいいかわからず糸を張ろうと糸疣を構えようとモタモタするが──ンララにだけ聞こえる声量で「邪魔」と言えば剣ではなく、くるりと体を回転させ糸疣ごと蹴り落とした。
彼女にとって一番の武器は弱点でもあったらしい。吐き気と激痛にンララはバランスを崩し、体を支えていた蜘蛛の巣も術者がダメージを受けたせいで威力が弱まり、破れて体が落ちていく。ドシャリと地面に頭から叩きつけられ、通常の人間には出せない墨汁のような黒い血を流し、口から泡を吹いて白目を剥く。長い蜘蛛の足も何本か折れて動けない状態だ。
ヲルルは血の気が引き妹の名を叫びながら、少し残っていた蜘蛛の巣へ向かい自ら飛び込み、もう一度飛び降りて地面に着地した。ンララに駆け寄り、急いで治療を始める。
自殺者にとっての応急処置は怨念だ。ヲルルは自分の近くで浮いていたメスを一本手に取り、自らの左腕を傷付けた。黒い液体が滲み出てきたかと思えば、すぐに黒い霧に変わり地面に落ちていたンララの注射器に吸い込まれていく。
注射器に吸い込まれた怨念はまた液体に変わり溜まっていき、それを確認するとヲルルはンララの腕に注射する。何度か繰り返していく内に、段々頭の傷が塞がっていった。
「鶴ちゃん大丈夫ー!?」
そんな二人に目もくれず、シルイートは落ちないよう片方の剣を壁に突き刺していた。それを支えに仮面を外しながら、いつもの声音で吊り下げられたままの彼女に声をかける。
ンララの糸は服を溶かし、皮膚を少々焼かれていたため織鶴は痛みで気絶していたらしい。だから大人しかったのだ……声をかけてもまだ気づかないらしく目を閉じている。術者であるンララが気絶したため威力が落ち、今なら窓に張られている糸が剣で切れそうだ。
もう片方の短剣で織鶴を捉える糸を切り、すぐに落ちそうになる織鶴を片手で支えればそのまま近くの窓の糸を破き、思いっきり足で窓を蹴り割って中へと跳んで入った。
シルイートに支えられながら、窓の割れる音で微かに目を覚ましたのか数秒後目を開く。織鶴が目覚めた事に気づいたシルイートは、自分のノースリーブジャケットを脱いで床に敷き、その上に織鶴を寝かせる。簡単な治療をと、スカートから出したガーゼを傷口に当て包帯を巻いていく。
織鶴はピリッとした痛みを感じ顔を一瞬歪ませるが、すぐにそれどころではなくなる。
「シルイート先輩……かみ、髪は?」
銀に輝く月と同じ色の長髪は、乱雑に切られ中途半端なショートになっていた。織鶴はもしやと思い悲しそうな表情を浮かべそう聞いた。
それだけではない。髪以外にも、身体中に鋭い刃物のような物で引き裂かれ血まで出ている。原因は? それは──自分のせいだろう。罪悪感に血の気が引いていき「わたし、わたしの……せいで、」と声を出し、唇を震わせながら目を大きく開き涙を浮かべる。シルイートは涙を浮かべる彼女の頭を優しく撫でながら、安心させるように言う。
「違うよー、今回はよそーがいだったからこれくらいで済んだほう。鶴ちゃんが無事でほんとーに良かったー。」
彼女の無事が一番であるのは間違いない。だが織鶴の体と心を傷をつけてしまった事に、本当に自分の力不足がこういう時嫌になる。
一部が切れてショートになった髪を見る。可愛くないなぁと思えばそれを邪魔にならない程度の場所まで愛用の短剣で切るとヘアゴムをポケットから取り出し纏め、「これ、預かっててほしいかな。一応後で処分しないとだから。」と言い織鶴の手に持たせ立ち上がった。
「サフィニアの鶴野恩織鶴ちゃん、よく頑張りましたー! 後は先輩である僕に任せてね? 終わったらまたおいしースイーツ食べないとだよー」
太陽のように暖かい笑みだった。その表情を見る度、不思議と不安や罪悪感に苛まれ荒ぶっていた心が静まっていく……気づけば涙は自然と止んでいた。一気に疲れがきたのか、織鶴は礼を言った直後眠ってしまった。
シルイートは織鶴が眠ったのを確認すると、敵がいる窓の外へと向かった。
……ンララの傷の治療は予想以上に時間がかかっていた。漸くある程度の治療が済んだ頃には、少し離れた距離からこちらへ近づいてくるシルイートの気配があった。
力の差は充分に知った。あの者と戦うべきではないと逃げる判断したヲルルは、自分の近くに浮いていたメスを一本手に取り、また自らの左腕を傷つけた。傷口から出た黒い液体を地面に落とすと、数え切れない程の大量な黒い鼠が現れシルイートの方へ向かう。
「覚えてやがれっ!!」
こちらに向かってくるシルイートにそう吐き捨てる。まさか悪役の代表格とも言える台詞を自分の口から発するとは思わなかったヲルルは、悔しい気持ちを抑え鼠達がシルイートを相手している隙にンララを担ぎ、スゥッと姿を消した。
展開したままの針孔雀を鼠にぶつける。鼠の多さに追加分の針孔雀を顕現させれば、激闘の疲れと武器を扱う際に使う能力の使い過ぎで頭に激痛が走る。鼠を倒し終えれば敵の姿はなく、逃したが今はここで引くべきだと判断し、頭を押さえながら織鶴の元に戻る。
「エルくんにたくさん文句言わないとねー」
眠ったままの織鶴を優しく抱き上げてお姫様抱っこの状態でそう言えば、ペガサスの馬車を呼んで天界に帰還した。
天界に帰還し、急いでシルイートは報告のため執務室に来ると、二人の姿を見たエルネストは急いで病院に連絡してくれた。救急車が来るまで織鶴はソファーに寝かされ、エルネストは例の自殺者についてシルイートに話そうとするが、その前にシルイートの両肩に手を置き真剣な顔つきで労いの言葉をかける。
「本当にお疲れ様。」
気持ちは嬉しいが、肩も怪我していたシルイートは両手を置かれた内の左手に触れ「こっちも痛いから加減してれると嬉しいかな」と苦笑いを浮かべ伝えると、エルネストは慌てて謝り両手を引っ込める。上の立場のはずなのに、姉のアロンザに比べ感情がコロコロとわかりやすく、反応が一々新人っぽくて微笑ましい。
それより、シルイートは織鶴を守り切れていなかった事に申し訳なさを感じる。エルネストは幹部として、信頼して彼女を任せてきたのだ。まだ気を疲労で眠ったままの織鶴を見て、シルイートは弱々しい表情で謝る。
「彼女を頼まれていたのにこんなに怪我させちゃってごめんねー。女の子なのに傷残ったらどーしよ……」
傷の手当てはできる限りしたが、今回は彼女のランクでは確実に出会う事がない相手のはずだった。彼女は新人ではあるが磨けば優秀な削除者になるだろう……ここで職場復帰できない体になってしまったら勿体ない。それに、あんな可愛らしい子の肌に傷なんて残ってしまったら可哀想だ。
シルイートは普段桜馬並におちゃらけた振る舞いをするが、どちらも責任感は強い。命を預かれば身を挺して守る覚悟もあるため、珍しく落ち込んでいる様子だ。エルネストは彼のそんな様子に内心驚きつつも「君はよく頑張ったよ」と、一生懸命励ましたくて笑顔を作る。
気を遣わせてしまった事に対しまた申し訳なく思いながらも、シルイートは“例の自殺者”について話を聞いてみた。またいつ遭遇するかわからない。敵の詳細についてはなるべく知っておきたかった。エルネストもその話をするつもりだったので、自然と二人は真剣な表情にスッと切り替え、シルイートの方から口を開く。
「上位ランクの削除者にしか情報開示されてない感じ?」
「いや、既に何人かの削除者も遭遇してるから、知っておいて損はないよ。」
エルネストの話によると、まだ情報が少ないため削除者達も手探り状態らしい。また、自殺者達の中には自分達の事を"自由者"と名乗る者もいるとか……。
「自由者?」
「恐らく、元自殺者の可能性が高い。」
「……だろうね。気配がほぼ同じだったから」
そういえば今朝任務に行く前、彼のオフィスデスクにペットボトルが置いてあったのをシルイートは思い出す。見たところ、あれはいつも自分達が浄化してもらった後に見る怨念の液体だろう。しかし、あの時見た中身の水は墨汁と同じくらいに、あまりにも黒過ぎた。浄化した後の水は色があっても少し茶色く濁っている程度、それから徐々に透明の水になっていくのだ。
あの液体は例の自由者とやらから取れた怨念だという事を説明され、大体の想像ができていたシルイートは納得する。通常の浄化された怨念は濁った水で出てきて時間になれば透明な清き水になるが、話によると、自由者の怨念は濁った水にさえならず、墨汁のような液体として出てくる上、清き水にもならないらしい。
自殺者と自由者の違いについて……。自殺者は常に獲物を喰い、力を蓄え続けていないと痛みや苦しみから解放されず、考える余裕がそれ程ない。それに対し自由者は──
「自由者は自我を持ち、浮遊霊のみたいに好き勝手に動ける存在ってことー?」
ヲルルとンララの行動を散々目にしていたシルイートはすぐに察し、そういえば見た目も違いがあったと思い出す。通常の自殺者ならば目は塗り潰したみたいに黒いだけ、しかしあの二人の目には瞳があった……それも血のように赤い色のだ。
指をパチンと鳴らした後に、エルネストは「その通り、察しがよろしい。」と言う。
「厄介だよね……本当に、上位ランクはどのような自殺者に出会っても対処はできるけど、普通の削除者達は考える脳のない自殺者を相手にしてるから、自由者達にカカオの法則は通用しない。」
エルネストはゆっくりと窓の方へ行き、外の方を見ると救急車がこちらに向かってくるのを目にする。
「……救急車が来たみたいだね。続きはまた詳細がわかったら話すよ」
シルイートの方に振り向き、数秒間エルネストはシルイートの顔を見つめる。どうやらもう限界のようで、段々と幹部としての貫禄が失われていき、その表情はただのお人良しそうな男性のものになっていく。
時々、彼は幹部らしくない表情を見せる。部下に対して……いや、本当は誰に対しても大切な家族のように接する男なのだ。心の底から心配で仕方がなかったのか、眉をハの字にさせながら弱々しい声で言う。
「今後鶴野恩さんは君と組む予定だから、これからもよろしく。けど、……君も大事な部下なんだ。自分の身も大切にしてほしい。」
頷いてやりたいが、約束はできなかった。もしまた危機的状況になったとしても、自分はその時も先輩として後輩を全力で守りたい気持ちが勝ってしまうだろう。
……ふと、シルイートは短くなってしまった自分の髪を左手の指でくるくると弄る。水でも触っているかのようにサラリとした長髪をたまに弄るのが癖だったが、今は肩に付くか付かないかわからないくらいまで短く切ってしまった。織鶴の命を救えた代償と考えれば全然気にならないのだが、ショートは慣れていないので首元が寒く感じる。
「僕は相棒になる鶴ちゃんを優先するからー約束するとは言えないかなー。……善処はしてあげる」
髪を弄りながらニヤリと笑みを浮かべ、ジロリと上目遣いする。彼が男だと知らない男性がもし見たらドキッとするかもしれない。小悪魔な表情を見せるシルイートにエルネストは呆れた様子で目を閉じ、深く溜め息をついた。どうも自分の部下には自己犠牲しがちな者が多い。シルイートの他にも、アロンザや桜馬も自分より他人を優先する時がある。
(心配する身にもなってほしいな……。)
話す事がなくなった頃に、丁度執務室に救急隊がやって来た。シルイートは指示に従い、部屋を出る際心配そうにしているエルネストにいつもの調子で「またねー」と言うと手を振った。
***
三層吹き抜けのグランドロビーに迎えられると、ヲルルは背負っていたンララをそっと大理石の床に寝かせてやる。此処は造りからして元豪華客船らしき場所、しかし電気はついておらず、広々とした暗いこの場所は体が凍える程に寒かった。
階段からカツンカツンと二人分の足音が聞こえてくる。誰と誰がこちらに来ているのか想像はついていたのか、ヲルルは汗を浮かべしゃがんだまま、気絶したままのンララの長髪を見ていた。目の前にまで来た二人の内一人が両腕を組み、苛ついた様子で床を右足のヒールで強く踏みつけ音を響かせる。
「何してんンよアンタ達はッ!! ボスの負担になるじゃない!!」
そう怒鳴り散らすのは、鳥兜を連想させる紫色のきっちりと揃えられたおかっぱヘアーに、鋭い目付きの女性。服装はノースリーブシャツにワインレッドのファスナーコルセットとアームカバー、クリーム色のプリーツスカートの下は黒いベールが纏い、靴下とパンプスは白と黒で対になっている。
「チェーン、そうカリカリしないで、怪我してる子には優しくしなきゃ」
「……っ! ボス!!」
もう一人は、金鳳花を連想させる金髪のマッシュショートに、くりっとした大きなタレ目の女性。服装は胸元に包帯が巻かれ背中に大きくリボン結びがされており、両手には一本の長い包帯で腰を囲むように繋がって結ばれている。クリーム色の短パンの下には白いベールが纏い、お臍の出たファッションだ。両足にはグレーのラメ入りミュールが殆ど隠れてしまうくらいに包帯がグルグルに巻かれている。
チェーンと呼ばれた女性は、このほわほわとした暖かい春の風をそのまま具現化したみたいな女性に、"甘い"と言わんばかりに声を荒げる。とてもそうは見えないが、どうやらほわほわとした雰囲気を持つこの女性がヲルル達のボスらしい。確かに彼女達をよく見ると、目は自殺者達と同じ白目部分は黒く、瞳は血の色だ。
ボスは何か閃いたのか、花が咲いたみたいにパァッと表情を明るくさせ、パンッと両手を叩き手を合わせる。
「それより! 二人は生きて帰ってこれたもの! 治療をしたら早速生還祝いにパーティーを開きましょう!」
それに対しチェーンは、両手に拳を作りぷるぷると震わせ感情を爆発させた。
「アホなの!? アホだったわ!! そんなところもギャンかわ激シコだけど! もっとボスとしての厳格さをって言ってんでしょアンタはァアァ!」
「チェーンダメだよ! 喉が傷んじゃうよ!」
何故自分が怒られているのかわからず、ボスは脳内でクエスチョンマークを浮かべながらも目をキッとさせながら、人差し指でチェーンの唇をふにっと一瞬押し当てた。怒っているのか褒めているのかセクハラなのか一体どれなんだというチェーンの発言へのツッコミは、此処に居る全員は誰もしなかった。
ボスからの不意打ちに、チェーンは愛しさのあまり悶えつつ更に感情を爆発させた。
「アンタはなんでいつもそう!! マジぶち犯!! 好ッッきゃ~ねん!! 好ッッきゃ~なん!!」
チェーンが両目を両手で塞ぎガクンッと崩れ落ち床に座り込む隙に、ボスは満面の笑みで、目の前にいる二人に両手を広げる。
「ヲルル、ンララ! ほら来て! 私がまた“自由者”の力をあげるから!!」
そんな人形を見て多少の攻撃を受けつつもシルイートは避け、剣を引き抜けばその見た目に似合わぬ威力の蹴りで人形の頭を潰す。頭を潰された人形はピクリとも動かなくなったので、あまりにもわかりやすい弱点に自分達がからかわれている気がして不快だ。
……いや、実際にからかっているのだろう。この人形達を操っている者が自殺者なのかあの妙な気配の者達なのかは知らないが、厄介だという事だけは確かだ。シルイートは冷めた目で潰れた人形を見下ろしぐりんと怠そうに首を傾げる仕草をする。
「ふーん、頭をぷっちんすれば止まるわけかー。この子じゃちょっと面倒だからなー。」
まだその場にいる人形達はこちらの様子を窺っているようだ。この時点でおかしい。通常の自殺者なら逃れたい一心でからかう余裕等無いはず、恐らく先程感じた妙な気配の方の仕業だろう。シルイートは自分の愛剣を見つめ、この状況には合わないと判断する。
「出番だよー、“ハリー”くーん」
シルイートはそう言うと愛剣を床に突き刺し、カーテシーをしながらスカートの両端をつまみ、軽く持ち上げる……カーテシーというのは西洋文化的な挨拶の一種だ。
呼びかけに答え、スカートの中から針と同じくらいに細い苦無が無数に現れる。苦無は孔雀の羽を連想させる扇状に、シルイートの後ろに意思を持つように展開した。“針孔雀”と名を冠するこの暗器は、シルイートの愛剣と共に使われる補助武器の一つである。どういう構造なのかは謎だが、彼のスカートの中身にはこのようにいろんな物が備えられている。
ニコッと可愛らしい笑顔を浮かべながら、人形達を指差し無慈悲に言い放つ。
「さ、ハリーくん、あんなカワイクナーイ子達なんて可愛いハリネズミにしちゃえー!」
針孔雀は迷いなく人形達の攻撃に阻まれながらも、数の暴力にものをいわせて頭を狙い突き刺していく、その多さに耐えきれず次々と人形の頭は破壊され、落ちていった。
「もー! せっかくの服がぁーさいあーくー……」
役目を終えた針孔雀に「おつかれさまー、戻っていいよ」と指示すると、針孔雀はスッとシルイートのスカートの中へ戻っていった。何度か受けた攻撃でボロついた服にため息をつきつつ、血が出てないのを確認している時、視界の端に光る物に気づいて近づく。
それは注射器だった。シルイートは何かこの状況の手掛かりになりそうな気がしたため持っていこうと、手を伸ばす。
「……この注射器」
触れた瞬間、この注射器とは別にもう一つ何かアイテムらしき物が近くにある気配を感じ取る。注射器ともう一つのアイテムは何かしらリンクしている可能性がある。今は少しでも情報が欲しい……なら、罠の可能性もあるが調べるしかないだろう。注射器とリンクしているであろうアイテムの気配を追って、一度落ち着こうと息を吐いてから行動を開始するも、織鶴の身を案じそのスピードは走ってると言っていい程早かった。シルイートは診察室のドアへ行き、外へ出る。
「え」
ふと、シルイートの体が少し揺れ、部屋を出たかと思えばそこはレントゲン室だった。
「どういうコトかなー……てか、なまぐさー!?」
今まで織鶴と離れてしまった状況や、突然の敵出現で他を考える余裕がそれ程なかったが、背中に違和感がある事に漸く気づいたシルイートは不快そうに叫んだ。サンシュユの描かれたシルイートの背中が、ほんの少しだけ湿っていたのだ。
「え、なにこれ、え、最悪ー!」
本気で嫌そうに顔を歪める。大体は見知らぬ液体が服に付き、背中がどことなくひんやりと感じる事に対してだが、自分の反応できない速度で触れられた事への嫌悪感もある。
あまり時間をかけると織鶴が危険だと再確認したシルイートは、気を引き締め直しながら「これじゃー、鶴ちゃんが危ないっ」と呟いた。
(切りがない……なら、)
一本一本では埒が明かない。ここは“あれを使うしかない”と判断する。
「“千羽鶴”」
そう言うと織鶴は自らの髪を一本抜き取り、前へパラリと放る。するとバサバサッと何かが羽搏く音がしたかと思えば、五十羽くらいの鶴が織鶴の周りに現れた。この技は千羽鶴という名の通り、最大千羽まで出す事もできるが、今のターゲットの数的に千羽も必要ないと判断し五十羽くらいにしたのだ。
織鶴は目を細め、弓に触れていない左手を前へ突き出し口を開く。
「“別れの飛び立ち”!!」
技名を聞いた鶴達は一斉にバランスボールに目掛けて飛び掛かり、嘴で攻撃を仕掛ける。バンッバンッと弾け響くバランスボールの音が喧しく、鼓膜が破けそうになり織鶴は両手で両耳を見ざる聞かざる言わざるの聞かざるのようにして塞いだ。鶴達は使い捨てタイプらしく、バランスボールを一羽に一つ破裂させる度に姿を消して一本の矢に姿を変えて床に落ちる。
暫く室内は連続で花火でも打ち上げているのかというくらいに騒がしかったが、次第に鳴り響く数が少なくなっていき、最後の一つが破裂すると信じられないくらいに静まり返る。織鶴は両手をゆっくり離すと、それと同時にカランッと小さい金属が落ちる音が響く。音のした方向を見ると床にキラリと光る物が見えた。
「これは……ひゃあ!」
最後に力を振り絞ったのか拾おうとした物が跳んできた。しかしまだ近くで余って待機していた鶴が織鶴を庇って盾になり、跳んできた物に首を裂かれ血を吹き出し消え、その姿を矢に変えた。織鶴は申し訳なく感じながらも、今度こそ跳んできた物を拾うとそれは──
「メス……?」
手術等で使う刃物、金属音がしたのはステンレス製だからだ。替刃は鶴の血でベットリと付いて汚れてしまっている。
この時、シルイートと同じくメスとは別にもう一つ何かアイテムらしき物が近くにある気配を感じ取る。メスともう一つのアイテムは何かしらリンクしている可能性があると考えた織鶴は、シルイートと合流するための手掛かり欲しさにメスを持ちながら歩き出した。
とりあえず部屋を出るためドアノブに手をかけ開くと、そこは先程までシルイートがいた診察室だった。床には人形の残骸が散らばっているが、織鶴は入れ違いに気づくはずもない。それより、リハビリテーション室から出たら廊下ではなく診察室という事がおかしい。
それに、一つ気になる感覚があった。ドアを開け一歩踏み出した時に、自分の体が一瞬揺れた気がしたのだ。シルイートと同じく、織鶴もここで漸く背中がほんのり湿っている事に気づく。恐らく最初に階段を上り切った時、濡れた何かが背中に触れてもそれ程湿っていなかったため気づきにくかったのだろう。
「どうなってるの?」
その頃シルイートは、もう一度ドアを開け一歩踏み出したら次は診察室ではなくまたレントゲン室だった。この時も先程と同じく体が濡れた何かによって一瞬揺れ、背中が更に湿った。
確信する。部屋が変わっているのではなく、"何者かによって移動させられている"のだと……。
「そっちがその気なら……」
これ以上気味の悪い物が自分の体に触れるのも嫌だが、仕組みがわかってしまえば部屋を出ようとも同じ事の繰り返しで、いつまで経っても織鶴と合流する事はできない。シルイートはある方法を思いついた。
自分の今回の任務は自殺者対応、正直この自殺者相手に一人で片付けるのは容易い。しかしコンビを組んだ相手を守り、成長に繋がるように教えていくのが任務と同等に大切にしているために、彼女がこの状況でどう動くか少し楽しみになっていた。
シルイートは部屋から出ようとせず、室内を走り回り出す。これには意味があった。
(僕の方へ意識が向いたカナー?)
恐らく織鶴も自分と同じように自殺者に場所を移動させられているだろうと想像つく。織鶴は一見頼りなさそうな子に見えるが、あれでもサフィニアに昇進した実力を持っている削除者だ。何も考えず未だにドアを開けて行ったり来たりの繰り返し等をせず、今頃は異変に気づいて自殺者の気配を探って待機しているだろう。
室内を走り回り続ければ、部屋から出た瞬間に自分達の体に触れて移動させていた自殺者は、自ら体に触れに行こうと動き出す。意識が向きやすいのは、何故か部屋から出ようとせず室内を動き回って目立っているからだろう。そうすれば、織鶴が行動しやすくなるだろうと考えたのだ。
(さて鶴ちゃん、君はどー動くかなー?)
──シルイートの予想通り、織鶴は異変に気づき始めていた。織鶴は冷静に今までの状況を頭の中で整理していく、次第にシルイートと同じように自分は移動させられているのだと理解すると、このままでは無駄に魂が削られていくだけだと思い別の方法を考える。
ふと、過去に先輩のアロンザと任務に行った時の言葉を思い出す。削除者歴の長い彼女は、カカオの法則が通じないこのような状況の時は「何もしない」と言っていた。
──「相手から出てくるのを待つ、ただ、自殺者が一瞬でも気配を出した時に対処できる腕でないと命取りになる場合もある。新人にはお勧めしない。やるかやらないかは自己責任だがな。」
そう言っていたのを思い出し、織鶴は自分にできるかどうか不安になる。しかし迷っている余裕はなかった。
(魂玉はいくつかある……やってみる価値はある。)
それに、動いている間は気づきにくいものだが、耳を澄ませ周りを意識すると気配も感じ取りやすい。
(一か八か……!!)
髪を一本引き抜き放ると何羽か鶴がバサリと現れる。鶴達は織鶴の意志のまま動く、自殺者が現れた時に攻撃を仕掛けるつもりだ。
……暫くじっとしていると、段々自殺者の気配が微かに感じ取れるようになっていく。その気配がゆっくりと、どこかへ移動しているのがわかった。
初めは自殺者がこちらに来るのを待っていた織鶴だが、気配はこちらに来るどころか別の場所へ向かっている事に気づく。相手の意識が別の対象に向いている内に、気づかれないようこちらから近づけるチャンスかもしれない。織鶴は自分の気配を押し殺しつつ、ゆっくりと歩き出した。
ドアの方まで来ると、自殺者は別の対象に意識を向いているため今なら部屋から出られると確信し、ドアを開けると予想通りそこは廊下だった。もう一つのアイテムの気配を感じる方向へ足を進め、着いた先はレントゲン室のドアの前だった。ドアノブに手を伸ばそうとすると、中で探していた相手の気配がして安堵する。
ゆっくりとドアを開け中を覗くと、シルイートが室内を走り回っていた。その様子はまるでダンスパーティーで誰かと優雅に踊っているようにも見えたが、同時に何かを挑発しているようにも見えた。実際後者の方だろう……シルイートは「鬼さんこちらー手のなるほーへー」と無邪気に笑いながら動いている。
(あれは……!)
中の様子を観察しているとある事に気づいた。シルイートが動き回る中──ほんの一瞬だが円型の異空間がシルイートの後ろに追うように現れ、中から"長い何かが"出てきていた。異空間は大体90cmくらいのマンホールの蓋サイズ、長い何かはまだよく見えない。恐らく、あれが自分達を別の場所に移動させていた自殺者だろう。
自殺者は室内であちこち動き回るシルイートに苛立ってきたのか、ついにシルイートの真正面から異空間を作り出し出てきた。その時少しだけ出現時間が二秒長かったのではっきりと織鶴の目に映り込む。
……それは蛙の舌だった。今回の自殺者は飛び降り自殺──何度も繰り返す内に、体に怨念が溜まっていくと同時に姿形まで潰れていき変化。その結果、伏せをする蛙の姿になったのだろう。舌はシルイートの体に触れられず地面に当たってはすぐに異空間に引っ込む。
「へたっぴー、獲物も狙えないカエルクーン? 僕はここだよー? 疲れちゃったかなー?」
足元への不発に、ニコニコとしたかと思えば煽るように言葉を発して、動きをさらに不規則に変えていく。その途中で視界の端に織鶴の姿を目視すれば、一瞬安堵の表情を浮かべるが、すぐに楽しげな表情で自分に意識が向くように煽るように声を出し続ける。
シルイートが囮になっている間に、織鶴は先程放った後に鶴から姿を変えた矢を箙から抜き取り、ググッと手に力を込め弓を構える。傍に鶴がいつでも攻撃を仕掛けられると待機しているが、鶴を動かせば気づかれてしまう。ここは矢の方が仕留めやすいと判断した。
シルイートが動く場所は不規則のようで、よく見てみると大体決まった場所に動いている事がわかった。これならば狙いやすい。後は……舌が出てくるタイミング、今ならカカオの法則が通じる。
カカオの法則──自殺者の出現する場所を“確”認。
(壁の隅、椅子の隣に出てくるのを確認。)
自殺者の姿を“確”認。
(円型の異空間、そこから舌が現れる。)
自殺者の時間を“覚”える。
(一秒……タイミング、先輩が三歩移動した後に一度、また三歩移動した後に一度。)
一、二、三──織鶴の目が大きく開く。矢が放たれると柔らかいものが無慈悲に刺さる音と、床に縫い付けられる音が長くビィィンと室内に響いた。一度鶴だった矢はただの矢になっても力は強く、寧ろ普通の矢より頑丈だ。刺さった物は逃れられず、藻掻ている。数秒後……異空間が大きくなりベチャリと想像通りの巨大な蛙が床に落ちてきた。
織鶴はしっかりと自殺者を仕留めていた。縫い付けられた舌の傷口から、黒い霧が出てきて織鶴の弓に吸い込まれていく。
「で、きた……?」
蛙は元の人型姿に戻り、また自殺をしに屋上へ戻るためスゥッと消えていった。
「鶴ちゃんー! やったね!」
ふぅ……と息を吐き、やっと走り続ける事から解放されて一息つく。だが、すぐに自分の事のように嬉しそうに織鶴に声をかけて手を振った。
数秒間実感が湧かなかったが、シルイートの言葉が耳に入り我に返る。言われて初めて漸く実感が湧いてくると、嬉しさのあまりじわりと涙が浮かび、シルイートに顔を向ける。宝石のアメジストと同じ色の瞳が涙でゆらゆらと揺れる。
「しる、いぃど、ぜんぱぃ~……」
「大丈夫大丈夫ー、鶴ちゃんがやったんだよー。すごーいね!」
その言葉は本心だ。先輩として、後輩が無事に獲物を仕留めた事に喜ばないはずがない。シルイートは「特別に胸、貸してあげるよー?」と優しく声をかけ両手を広げる。髪色は月と同じ銀なのに、太陽のように暖かい心に織鶴は一瞬戸惑いながらも、緊張の糸が切れたのか照れながらも近寄った。
──その時だった。
「なぁにぃユリィ? ってやつぅ?」
ハンドベルをカラカラ鳴らしたような声で笑いながら、近くで女性が撮影台に座りながら一人薄っすらと姿を現す。その後すぐに「すぐ姿を見せちゃうなんてむぼーびすぎるよぉ~!」ともう一人の女性も、ブランと天井に両足を付けぶら下がりながら薄っすらと姿を現した……長い髪がだらんと下に下がっている。
シルイートは咄嗟に守るよう織鶴の傍に行き、反射的に手を伸ばし彼女の腕を引いた。削除者歴が長い彼は、瞬時にこの二人がそこらの自殺者とは違い危険だと察知する。
「看護師……?」
第一印象はそれだった。織鶴は目を丸くさせながら思った事をそのまま口に出す。
一人は血でも流したかのような濃い赤色の髪にふわふわショートヘア、服装は桃色のナースのようなもので緑タイツ、ナースキャップとナースシューズは服に合わせた桃色。ナースキャップには何故か鼠の飾りもある。
もう一人は毒を連想させる濃い紫色の髪にふわふわロングヘア、服装はこちらも水色のナースのようなもので緑タイツ、ナースキャップとナースシューズは服に合わせた水色だった。こちらもナースキャップには何故か蜘蛛の飾りがあり、蜘蛛の下から出た糸がまるでウェディングベールみたいだ。
「やほぉー? アンタら強いジャン?」
左手をヒラヒラさせながらふざけた様子で、片足を太ももに組みながらこちらをニタリとした笑みで見てくる赤髪ショートのナース。
「ほんとほんとっ! つよすぎぃ!」
天井に両足を付けぶら下がっている紫の長髪ナースは、両手で拳を作り跳ねるように体と長い髪を上下に揺らす。
「……自殺者じゃないねー。何か用かなー?」
そっと織鶴を庇うように前に立ち、シルイートは二人に用件を聞く。できれば何事もなく帰らせてほしいところだがそうはいかないだろう。この二人の漂うオーラは自殺者そのものだが、自殺者と同じ白目部分は墨汁と同じくらいに黒いが赤い瞳を持っている上、体が自由だ。通常の自殺者とは確実に違う……自殺者ならば考える能力もなく、余裕を持って自由に動けないはずだ。
実は幹部や一部の削除者達の間では度々騒がれていた。“妙な自殺者がいる”と……。神出鬼没、ランク付けができない程の恐ろしい力を持っている。フラワーランクの低い削除者達の中からは何人か死亡者も出ている。
運悪く……その謎の自殺者がシルイート達の前に現れてしまった訳だ。
「一応冥土の土産にネーム教えちゃう! わたしはヲルル……元此処のかんごしぃ~、こちらのぶら下がってるのは?」
「わ、わ、え、あ、えと……!」
「わたしの妹ン、ラ、ラ~! らーるるらァ~」
赤髪の女性はヲルルと名乗り、その後すぐヲルルから急に自分に振られて紫の長髪女性は慌て出す。結局慌てて言えない事を想定してたのか、流れるように間を置かずヲルルが自分で答え、気分がいいのか続けて歌い出す。どうやら紫の長髪女性はンララという名前で、どちらも変わった名前だ。
「"キミたち"、おいで?」
ヲルルがそう言うと、シルイートと織鶴がポケットにしまっていた注射器とメスが勝手に動き出し、空中に浮かび謎の看護師二人の元へ移動する。どうやら、あの注射器とメスは二人がシルイート達を試すため別々の場所で戦わせ、案内人のような役目でもさせられていたというところだろう。
織鶴が持っていたメスはヲルルの元へ、シルイートの持っていた注射器はンララの元へ帰って行き、二人は自分達の道具を手にする。
「わたしらトクベツ、そこらの自殺者みたいに常に誰かをたべてなくても自由でいられるけぇどぉ……やっぱり定期的に力はたくわえなきゃいけないのぉ……だから、ユリちゃんたちが力あるコたちかためしましたァ~」
ヲルルは変わらずヘラヘラと笑いながら説明し、左手でメスをくるくると回しながら「キミら合格。わたしらのゴハンになってぇ?」と言いながらニコッとした笑みを浮かべる。"ユリちゃんたち"というのはシルイート達の事だろう。
初めシルイートは相手が自殺者とは別物だと考えていたが、半分合っていて半分は合っていなかったようだ。存在もやっている事も自殺者と変わりないようで、通常の自殺者の頭に考える能力を与え、体が解放されたというだけな気がする。それでも、通常の自殺者とは大分違い、厄介な存在になっているのは確かだった。
「戦える相手……でしょうか? そもそも、逃げられるでしょうか?」
自分にはどう判断すれば良いかわからず、眉を八の字にさせ困惑しつつも弓を構え、織鶴はシルイートの判断を待つ。シルイートは数秒間考え、長い銀の髪を揺らし織鶴の顔を見上げ指示を出す。
「逃げるのに専念してほしーかなー。エルくんに報告お願いー、僕が足止めするから、ね?」
織鶴には荷が重い上、シルイート自身も彼女を守りながらでは苦戦するだろう。ならば彼女を逃がし、エルネストに報告した方がこちらとしては損はない。自殺者の怨念は回収しているため、本来の任務は終わっているのだ。相手にするのは立て直してからでも良いのだから。
織鶴は自分だけ逃げる行為はしたくなかったが、自分より長く仕事をしている彼の言う事は正しいのだろう。悔しいが、今の自分では逆にお荷物になってしまう。
「了解です! すぐに──」
しかし、二人が話している間にぶら下がっていたンララは慌てる素振りを見せつつも、二人が見ていない時にフッと怪しげな笑みを浮かべる。右手で持っていた注射器の押し子に左手の中指で触れ、中に怨念を込め禍々しい黒い液体を作り出す。
怨念の液体が溜まった注射器を自らの左腕に刺すと、ンララの下半身がぶくぶくと何やら膨れ上がっていき何本か足が生えていく、あれは誰もが見覚えがあるものだった。
「わ、!?」
「鶴ちゃっ!?」
蜘蛛の腹部だ……ンララはニタッと笑みを浮かべ、汗をかきながら慌てて糸疣から糸を出し、織鶴の体をもの凄い速度でグルグルに巻いていく。シルイートは手を伸ばすが、ヲルルのメスが飛んできて、攻撃を受けないため手を引っ込めてしまう。
(ダメ、今は動いちゃダメだ。)
織鶴は抜け出そうと体を動かすがすぐにやめる。力では抜け出せないくらいの硬さな上、動けば動く程服が溶けていき、肌がチリチリと焼けていって危ない。巻かれてしまった織鶴はそのまま引っ張られンララに抱き止められる。
「やった! やった! ヲルルぅはやくいこっ?!」
「あわてんぼぉ~さんめっ! ……まぁ、確かにココじゃせまいよねぇ?? そーだ場所変えようそうしよう! おじょーさん、ばいばーいっ!」
二人は勝ち誇った表情を浮かべシルイートを見ると、スゥッと織鶴ごと姿を消してしまった。シルイートは目の前で連れ去られ、何もできなかった自分に愕然とする。
自分は何をしていた? 彼女を守るのではなかったのか? 何が守る? と自分に対しての絶望が押し寄せ、顔から表情が消え雰囲気が変わる。
「おいで、おいで僕の半身達ぃ……醜い僕を隠してほしーなぁー」
優しげな口調はそこにはなく、懺悔するように呟けばザワリと空気が揺れる。先程まで出していた針孔雀が現れ、ベールのようにシルイートの周囲を囲み見えなくする。
カランカランと短剣がスカートの中から落ちる音が響く、それに合わせるよう針孔雀が背後へと移動すると足は黒い蔦に見える物が巻き付き、顔には目も口も鼻もないつるりとした銀色の仮面が顔を隠す。両手には彼女の愛剣、デューティーフラワーを半分ずつ刻まれた白と黒の短剣が対で握られていた。
「針孔雀……鶴ちゃんを守ってー? 敵は簡単に殺しちゃ駄目だよぉ? 僕が行くまで遊んでおいでー」
明らかに先程より多い、針孔雀は命令に嬉しそうに震えると四方へと飛んでいく。カツンカツンと靴音を響かせながらシルイートは歩き出した。
──青色のフラッシュを浴びた気がしたかと思えば、そこは何もない空間だった。景色は基本黒なのだが、完全な黒ではなくその中にほんのりバチバチと赤色が混じっているようにも見えた。
一言で表現するなら、目を閉じた時の色だろう。閉じた時の一瞬は青色に見えなくもないし、完全な黒ではなく、黒の中白と赤がバチバチと混じっているようにも見えるそんな色が広がった場所……織鶴はそう感じた。
今彼女はヲルルとンララの作り出した異空間に居た。織鶴の状態は変わらず、体は糸疣から出された糸でグルグルと巻かれており動けず、蜘蛛の足の内一本で担がれている。二人は織鶴を無視しこれからどうするか話し合っていた。
ンララは疑問だった──何故織鶴を今すぐに喰わないのかと、ヲルルはその疑問に対し「ばっかじゃなぁい?」と眉間に皺を寄せ、空中に浮かびながら片足を太ももに組む。
「このアマよりあっちのおじょーさんのがおいしいのぉ~、ボリューム満点たくわえまくりぃ~」
ンララはおっとりとした雰囲気の女性だが、常に内心落ち着きがなく、よく自分の頭で考えずすぐに質問してしまうので「つまり? え、なに? なにぃ?」と急かすように聞く。ヲルルは姉妹として長年付き合ってきて慣れているとはいえ、そんな彼女にうんざりとした様子で深い溜め息を一つつき答える。
「アマをエサにすればぁ~、あのおじょーさん探しにくるでしょお」
その後すぐに「アッハ! わたし天才満点ンララバカ満点! アッハ! アッハッハ!」と機嫌よく自分を褒めて笑う。何気に自分が馬鹿にされたにも関わらず鈍感なンララは、「さっすがヲルルぅ~!! はァ~ゆうかいせいこうしてよかったぁぁ」と心から安心し胸を撫で下ろす。
「さてンララ、おびき寄せる場所は決まってる……行こうか。」
ヲルルはそう言うと、ンララ達に顔を向けず先にふわりと跳ねる動きをして異空間から姿を消す。ンララは慌てて自分も織鶴を担ぎながら後を追った。
***
場所は病院の屋上、糸で巻かれた織鶴が柵から吊り下げられる。織鶴の周りには数えきれない程のメスが並んで浮かんでおり、何十枚もの窓はンララの糸で頑丈に張られちょっとやそっとでは開けられない。
織鶴は自分が情けなかった。今回の任務、シルイートの手も借り無事自殺者の怨念が没収できたかと思えば、結局先輩である彼に迷惑をかけてしまったのだ。あの時、自分が糸から避けれていればこんな状況にはならなかったのだ。
近くで監視していたンララが、糸にぶら下がりながら降りてきて織鶴の顔を見れば「なきそぉなかおぉ」と呟く。
「でもぉ、わたしたちがたべちゃえばぁ……かなしー気持ちもなにもかんがえるヨユーもなくきえるからァ……安心してぇ?」
ニコリと安心させるように笑みを浮かべていってくるが、言っている事が物騒なので織鶴はゾクリと恐怖を感じ全身に鳥肌が立つ。ヲルルは一人屋上でシルイートが織鶴を助けにくるのを待ち、機嫌がかなりいいのか鼻歌まで歌い踊っていた。
……暫くすると、カツンカツンと靴音を鳴らし誰かが屋上の階段を上ってくる。天を仰ぐように踊っていたヲルルはピタリと動きを止め、曇ってきた空を見上げたままガコンと顔だけを横に動かし扉の方へ顔を向け、ニヤリと怪しく笑みを浮かべる。
「待ちくたびれたヨ」
「あかがみちゃんはー、相手の力をみきわめたほーがいいよー? 命知らずのおろかものだ。」
姿は見えないが、先に彼の武器は様々な強化されていない窓ガラスを次々と割っていき、外へと出てきてはヲルルにそう言う。先程名乗られたはずなのに名前を呼ばなかったのは、そもそも覚える気がないかららしい。
糸の張られていない窓の割れる威力を目にし怯んだンララは、やはり慌てん坊でヲルルにどうすればいいか聞きに行こうとあわあわする。大きな蜘蛛の巣を揺らしながら動き出すが、屋上にいるであろうヲルルが「エサからはなれちゃあだめでしょお?!」と苛立った様子で怒鳴り、ンララはピタリと止まる。
「だ、だってぇ」
「ンララの糸はがんじょーなんだからぁ~、あわてるひつよーなくなァーい?」
余裕そうに言う姉の声を耳にしても、それでも不安で仕方がなかったンララはそわそわと落ち着きがなかった。「鶴ちゃんを返して」と言いながら一歩踏み出すシルイートの雰囲気は不気味で、声に色はなかった。
柵から何かが吊り下がっているのを確認すればそこに織鶴がいるのだろうとヲルルからフィッと視線をそらし、一瞬の内にヲルルの真横に移動する。ヲルルは何が起きたのかわからず何秒か目をパチクリさせ間を置くが、自分の目では追えなかった事を理解すると流石に焦りを見せた様子でシルイートに顔を向ける。
「ゆっくりと嬲ってあげるから、大人しくしてればいいよー」
まずは織鶴の救出が先、ゆっくりと歩き出しすれ違う際に囁くシルイートの声は氷のように冷たい。ただの強い奴程度に思っていたヲルルだが、今の速さで漸く自分が彼を甘く見ていたのだと察する……どうやら自分達は狩ってはいけないレベルの相手に手を出してしまったようだ。
ヲルルは自分達では敵わない相手だとわかると、先程までのまったりとした雰囲気を全て捨て怒鳴った。
「ンララに手を出そーとすんじゃねぇえぇえ!!」
最早餌の心配ではなく、妹の身の事だけが頭に浮かんだ。「イけメス共ォオ!!」と叫んで指示すると、空中に数えきれない程のメスが出現し、ユラリと動き一斉にシルイートに攻撃を仕掛ける。それに対しシルイートは「ならお前達も、僕の鶴ちゃんに手を出したのが間違いだったねー?」と感情なく言い、針孔雀に指示を出す。
織鶴までの道さえあればいい。針孔雀で致命傷になりそうな攻撃だけを防ぎ足を止めない。服が破れようが肌を裂かれようが行動に対して支障がなければ問題ない。
「鶴ちゃんを返してもらうよー? 蜘蛛のいもーとちゃん」
柵を超え、織鶴を助けるために落下しながら武器を構えンララを狙う。防ぎきれなかったメスでシルイートの髪の一部が舞い、花弁が散る様子にも見えた。
「ぅえ! あ、ぅ、え!」
いくら能力が厄介だとしても、それを上手く使いこなせなくては意味がない。上から降ってくる相手にどうすればいいかわからず糸を張ろうと糸疣を構えようとモタモタするが──ンララにだけ聞こえる声量で「邪魔」と言えば剣ではなく、くるりと体を回転させ糸疣ごと蹴り落とした。
彼女にとって一番の武器は弱点でもあったらしい。吐き気と激痛にンララはバランスを崩し、体を支えていた蜘蛛の巣も術者がダメージを受けたせいで威力が弱まり、破れて体が落ちていく。ドシャリと地面に頭から叩きつけられ、通常の人間には出せない墨汁のような黒い血を流し、口から泡を吹いて白目を剥く。長い蜘蛛の足も何本か折れて動けない状態だ。
ヲルルは血の気が引き妹の名を叫びながら、少し残っていた蜘蛛の巣へ向かい自ら飛び込み、もう一度飛び降りて地面に着地した。ンララに駆け寄り、急いで治療を始める。
自殺者にとっての応急処置は怨念だ。ヲルルは自分の近くで浮いていたメスを一本手に取り、自らの左腕を傷付けた。黒い液体が滲み出てきたかと思えば、すぐに黒い霧に変わり地面に落ちていたンララの注射器に吸い込まれていく。
注射器に吸い込まれた怨念はまた液体に変わり溜まっていき、それを確認するとヲルルはンララの腕に注射する。何度か繰り返していく内に、段々頭の傷が塞がっていった。
「鶴ちゃん大丈夫ー!?」
そんな二人に目もくれず、シルイートは落ちないよう片方の剣を壁に突き刺していた。それを支えに仮面を外しながら、いつもの声音で吊り下げられたままの彼女に声をかける。
ンララの糸は服を溶かし、皮膚を少々焼かれていたため織鶴は痛みで気絶していたらしい。だから大人しかったのだ……声をかけてもまだ気づかないらしく目を閉じている。術者であるンララが気絶したため威力が落ち、今なら窓に張られている糸が剣で切れそうだ。
もう片方の短剣で織鶴を捉える糸を切り、すぐに落ちそうになる織鶴を片手で支えればそのまま近くの窓の糸を破き、思いっきり足で窓を蹴り割って中へと跳んで入った。
シルイートに支えられながら、窓の割れる音で微かに目を覚ましたのか数秒後目を開く。織鶴が目覚めた事に気づいたシルイートは、自分のノースリーブジャケットを脱いで床に敷き、その上に織鶴を寝かせる。簡単な治療をと、スカートから出したガーゼを傷口に当て包帯を巻いていく。
織鶴はピリッとした痛みを感じ顔を一瞬歪ませるが、すぐにそれどころではなくなる。
「シルイート先輩……かみ、髪は?」
銀に輝く月と同じ色の長髪は、乱雑に切られ中途半端なショートになっていた。織鶴はもしやと思い悲しそうな表情を浮かべそう聞いた。
それだけではない。髪以外にも、身体中に鋭い刃物のような物で引き裂かれ血まで出ている。原因は? それは──自分のせいだろう。罪悪感に血の気が引いていき「わたし、わたしの……せいで、」と声を出し、唇を震わせながら目を大きく開き涙を浮かべる。シルイートは涙を浮かべる彼女の頭を優しく撫でながら、安心させるように言う。
「違うよー、今回はよそーがいだったからこれくらいで済んだほう。鶴ちゃんが無事でほんとーに良かったー。」
彼女の無事が一番であるのは間違いない。だが織鶴の体と心を傷をつけてしまった事に、本当に自分の力不足がこういう時嫌になる。
一部が切れてショートになった髪を見る。可愛くないなぁと思えばそれを邪魔にならない程度の場所まで愛用の短剣で切るとヘアゴムをポケットから取り出し纏め、「これ、預かっててほしいかな。一応後で処分しないとだから。」と言い織鶴の手に持たせ立ち上がった。
「サフィニアの鶴野恩織鶴ちゃん、よく頑張りましたー! 後は先輩である僕に任せてね? 終わったらまたおいしースイーツ食べないとだよー」
太陽のように暖かい笑みだった。その表情を見る度、不思議と不安や罪悪感に苛まれ荒ぶっていた心が静まっていく……気づけば涙は自然と止んでいた。一気に疲れがきたのか、織鶴は礼を言った直後眠ってしまった。
シルイートは織鶴が眠ったのを確認すると、敵がいる窓の外へと向かった。
……ンララの傷の治療は予想以上に時間がかかっていた。漸くある程度の治療が済んだ頃には、少し離れた距離からこちらへ近づいてくるシルイートの気配があった。
力の差は充分に知った。あの者と戦うべきではないと逃げる判断したヲルルは、自分の近くに浮いていたメスを一本手に取り、また自らの左腕を傷つけた。傷口から出た黒い液体を地面に落とすと、数え切れない程の大量な黒い鼠が現れシルイートの方へ向かう。
「覚えてやがれっ!!」
こちらに向かってくるシルイートにそう吐き捨てる。まさか悪役の代表格とも言える台詞を自分の口から発するとは思わなかったヲルルは、悔しい気持ちを抑え鼠達がシルイートを相手している隙にンララを担ぎ、スゥッと姿を消した。
展開したままの針孔雀を鼠にぶつける。鼠の多さに追加分の針孔雀を顕現させれば、激闘の疲れと武器を扱う際に使う能力の使い過ぎで頭に激痛が走る。鼠を倒し終えれば敵の姿はなく、逃したが今はここで引くべきだと判断し、頭を押さえながら織鶴の元に戻る。
「エルくんにたくさん文句言わないとねー」
眠ったままの織鶴を優しく抱き上げてお姫様抱っこの状態でそう言えば、ペガサスの馬車を呼んで天界に帰還した。
天界に帰還し、急いでシルイートは報告のため執務室に来ると、二人の姿を見たエルネストは急いで病院に連絡してくれた。救急車が来るまで織鶴はソファーに寝かされ、エルネストは例の自殺者についてシルイートに話そうとするが、その前にシルイートの両肩に手を置き真剣な顔つきで労いの言葉をかける。
「本当にお疲れ様。」
気持ちは嬉しいが、肩も怪我していたシルイートは両手を置かれた内の左手に触れ「こっちも痛いから加減してれると嬉しいかな」と苦笑いを浮かべ伝えると、エルネストは慌てて謝り両手を引っ込める。上の立場のはずなのに、姉のアロンザに比べ感情がコロコロとわかりやすく、反応が一々新人っぽくて微笑ましい。
それより、シルイートは織鶴を守り切れていなかった事に申し訳なさを感じる。エルネストは幹部として、信頼して彼女を任せてきたのだ。まだ気を疲労で眠ったままの織鶴を見て、シルイートは弱々しい表情で謝る。
「彼女を頼まれていたのにこんなに怪我させちゃってごめんねー。女の子なのに傷残ったらどーしよ……」
傷の手当てはできる限りしたが、今回は彼女のランクでは確実に出会う事がない相手のはずだった。彼女は新人ではあるが磨けば優秀な削除者になるだろう……ここで職場復帰できない体になってしまったら勿体ない。それに、あんな可愛らしい子の肌に傷なんて残ってしまったら可哀想だ。
シルイートは普段桜馬並におちゃらけた振る舞いをするが、どちらも責任感は強い。命を預かれば身を挺して守る覚悟もあるため、珍しく落ち込んでいる様子だ。エルネストは彼のそんな様子に内心驚きつつも「君はよく頑張ったよ」と、一生懸命励ましたくて笑顔を作る。
気を遣わせてしまった事に対しまた申し訳なく思いながらも、シルイートは“例の自殺者”について話を聞いてみた。またいつ遭遇するかわからない。敵の詳細についてはなるべく知っておきたかった。エルネストもその話をするつもりだったので、自然と二人は真剣な表情にスッと切り替え、シルイートの方から口を開く。
「上位ランクの削除者にしか情報開示されてない感じ?」
「いや、既に何人かの削除者も遭遇してるから、知っておいて損はないよ。」
エルネストの話によると、まだ情報が少ないため削除者達も手探り状態らしい。また、自殺者達の中には自分達の事を"自由者"と名乗る者もいるとか……。
「自由者?」
「恐らく、元自殺者の可能性が高い。」
「……だろうね。気配がほぼ同じだったから」
そういえば今朝任務に行く前、彼のオフィスデスクにペットボトルが置いてあったのをシルイートは思い出す。見たところ、あれはいつも自分達が浄化してもらった後に見る怨念の液体だろう。しかし、あの時見た中身の水は墨汁と同じくらいに、あまりにも黒過ぎた。浄化した後の水は色があっても少し茶色く濁っている程度、それから徐々に透明の水になっていくのだ。
あの液体は例の自由者とやらから取れた怨念だという事を説明され、大体の想像ができていたシルイートは納得する。通常の浄化された怨念は濁った水で出てきて時間になれば透明な清き水になるが、話によると、自由者の怨念は濁った水にさえならず、墨汁のような液体として出てくる上、清き水にもならないらしい。
自殺者と自由者の違いについて……。自殺者は常に獲物を喰い、力を蓄え続けていないと痛みや苦しみから解放されず、考える余裕がそれ程ない。それに対し自由者は──
「自由者は自我を持ち、浮遊霊のみたいに好き勝手に動ける存在ってことー?」
ヲルルとンララの行動を散々目にしていたシルイートはすぐに察し、そういえば見た目も違いがあったと思い出す。通常の自殺者ならば目は塗り潰したみたいに黒いだけ、しかしあの二人の目には瞳があった……それも血のように赤い色のだ。
指をパチンと鳴らした後に、エルネストは「その通り、察しがよろしい。」と言う。
「厄介だよね……本当に、上位ランクはどのような自殺者に出会っても対処はできるけど、普通の削除者達は考える脳のない自殺者を相手にしてるから、自由者達にカカオの法則は通用しない。」
エルネストはゆっくりと窓の方へ行き、外の方を見ると救急車がこちらに向かってくるのを目にする。
「……救急車が来たみたいだね。続きはまた詳細がわかったら話すよ」
シルイートの方に振り向き、数秒間エルネストはシルイートの顔を見つめる。どうやらもう限界のようで、段々と幹部としての貫禄が失われていき、その表情はただのお人良しそうな男性のものになっていく。
時々、彼は幹部らしくない表情を見せる。部下に対して……いや、本当は誰に対しても大切な家族のように接する男なのだ。心の底から心配で仕方がなかったのか、眉をハの字にさせながら弱々しい声で言う。
「今後鶴野恩さんは君と組む予定だから、これからもよろしく。けど、……君も大事な部下なんだ。自分の身も大切にしてほしい。」
頷いてやりたいが、約束はできなかった。もしまた危機的状況になったとしても、自分はその時も先輩として後輩を全力で守りたい気持ちが勝ってしまうだろう。
……ふと、シルイートは短くなってしまった自分の髪を左手の指でくるくると弄る。水でも触っているかのようにサラリとした長髪をたまに弄るのが癖だったが、今は肩に付くか付かないかわからないくらいまで短く切ってしまった。織鶴の命を救えた代償と考えれば全然気にならないのだが、ショートは慣れていないので首元が寒く感じる。
「僕は相棒になる鶴ちゃんを優先するからー約束するとは言えないかなー。……善処はしてあげる」
髪を弄りながらニヤリと笑みを浮かべ、ジロリと上目遣いする。彼が男だと知らない男性がもし見たらドキッとするかもしれない。小悪魔な表情を見せるシルイートにエルネストは呆れた様子で目を閉じ、深く溜め息をついた。どうも自分の部下には自己犠牲しがちな者が多い。シルイートの他にも、アロンザや桜馬も自分より他人を優先する時がある。
(心配する身にもなってほしいな……。)
話す事がなくなった頃に、丁度執務室に救急隊がやって来た。シルイートは指示に従い、部屋を出る際心配そうにしているエルネストにいつもの調子で「またねー」と言うと手を振った。
***
三層吹き抜けのグランドロビーに迎えられると、ヲルルは背負っていたンララをそっと大理石の床に寝かせてやる。此処は造りからして元豪華客船らしき場所、しかし電気はついておらず、広々とした暗いこの場所は体が凍える程に寒かった。
階段からカツンカツンと二人分の足音が聞こえてくる。誰と誰がこちらに来ているのか想像はついていたのか、ヲルルは汗を浮かべしゃがんだまま、気絶したままのンララの長髪を見ていた。目の前にまで来た二人の内一人が両腕を組み、苛ついた様子で床を右足のヒールで強く踏みつけ音を響かせる。
「何してんンよアンタ達はッ!! ボスの負担になるじゃない!!」
そう怒鳴り散らすのは、鳥兜を連想させる紫色のきっちりと揃えられたおかっぱヘアーに、鋭い目付きの女性。服装はノースリーブシャツにワインレッドのファスナーコルセットとアームカバー、クリーム色のプリーツスカートの下は黒いベールが纏い、靴下とパンプスは白と黒で対になっている。
「チェーン、そうカリカリしないで、怪我してる子には優しくしなきゃ」
「……っ! ボス!!」
もう一人は、金鳳花を連想させる金髪のマッシュショートに、くりっとした大きなタレ目の女性。服装は胸元に包帯が巻かれ背中に大きくリボン結びがされており、両手には一本の長い包帯で腰を囲むように繋がって結ばれている。クリーム色の短パンの下には白いベールが纏い、お臍の出たファッションだ。両足にはグレーのラメ入りミュールが殆ど隠れてしまうくらいに包帯がグルグルに巻かれている。
チェーンと呼ばれた女性は、このほわほわとした暖かい春の風をそのまま具現化したみたいな女性に、"甘い"と言わんばかりに声を荒げる。とてもそうは見えないが、どうやらほわほわとした雰囲気を持つこの女性がヲルル達のボスらしい。確かに彼女達をよく見ると、目は自殺者達と同じ白目部分は黒く、瞳は血の色だ。
ボスは何か閃いたのか、花が咲いたみたいにパァッと表情を明るくさせ、パンッと両手を叩き手を合わせる。
「それより! 二人は生きて帰ってこれたもの! 治療をしたら早速生還祝いにパーティーを開きましょう!」
それに対しチェーンは、両手に拳を作りぷるぷると震わせ感情を爆発させた。
「アホなの!? アホだったわ!! そんなところもギャンかわ激シコだけど! もっとボスとしての厳格さをって言ってんでしょアンタはァアァ!」
「チェーンダメだよ! 喉が傷んじゃうよ!」
何故自分が怒られているのかわからず、ボスは脳内でクエスチョンマークを浮かべながらも目をキッとさせながら、人差し指でチェーンの唇をふにっと一瞬押し当てた。怒っているのか褒めているのかセクハラなのか一体どれなんだというチェーンの発言へのツッコミは、此処に居る全員は誰もしなかった。
ボスからの不意打ちに、チェーンは愛しさのあまり悶えつつ更に感情を爆発させた。
「アンタはなんでいつもそう!! マジぶち犯!! 好ッッきゃ~ねん!! 好ッッきゃ~なん!!」
チェーンが両目を両手で塞ぎガクンッと崩れ落ち床に座り込む隙に、ボスは満面の笑みで、目の前にいる二人に両手を広げる。
「ヲルル、ンララ! ほら来て! 私がまた“自由者”の力をあげるから!!」
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