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2 王子の婚約者

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 見舞いに来た王太子のフェリドは、外面のよい柔らかな笑みを浮かべ、お茶を持ってきた侍女に微笑みかけていた。 
 外見だけで見れば大分良い部類に入る。いや、かなり良い部類だろう。王族特有の金色の髪は美しいし、切れ長の目と透き通った湖のような薄青の瞳に紫の彩色を放つ瞳は、吸い込まれそうな程に美しい。エミリア自身、初めての顔合わせの時には幼いながらに胸は高鳴ったし、本の中から抜け出てきた王子様だと本気で思った。そしてその王子様に選ばれたお姫様が自分なのだと思うと嬉しくて堪らなかった。でもその後それが夫婦を意味し、将来的にヴァートとは共にいられなくなると知って全て吹き飛んだのだった。

 長い足を組み替えながらテーブルの下でブーツのつま先がこつりとぶつかる。しかしそれには気付かない振りをしてお茶に口を付けると、もう一度今度は強めに足がぶつかってきた。エミリアは扉の近くに立っているヴァートを見て頷いたのを確認すると、たった今気がついたかのように目を見開いた。本当はフェリドの人払いをしろという合図なのだが反応してはおかしいと思い、事前にヴァートに言われた事を思い出したという体を取ったのは成功のように思えた。

「もういいわ、ありがとう」

 すると侍女達が離れていく。人払いされた応接間でしばらく沈黙が流れた。来て早々、寄越されたのは香りの強い百合の花束。それも抱えきれない程の大きさで、受け取った瞬間上半身が隠れてしまう程だった。その百合が目の前のテーブルにいかにも見舞いだとばかりに主張して飾られていた。

「一応聞くが体調はどうなんだ? 元気そうに見えるな?」
「お気遣いありがとうございます、殿下。多少の擦り傷程度でご覧の通り元気です」

 僅かに眉が動いて見えたのは無視し、にこりと笑みを浮かべた。

「全く、ポミエ伯爵も大袈裟だな。お前が落馬して意識がないと飛び込んできたんだ。俺はまさかお前に限ってとは思ったよ。だってそうだろう? 頑丈なのがお前の取り柄じゃないか」

 意地悪そうに肩を揺らしながらご機嫌に笑うフェリドを見つめながら、静かにカップを置くとしおらしく俯いた。

「なんだ?」

 フェリドがこうした意地悪を言う相手は限られている。それは王太子として当たり前の事だし正しいとも思うが、婚約者になってからというもの、こうした裏と表がある性格には正直うんざりしていた。

「エミリア? おい? 頭でも打ったんじゃないのか?」

 その言葉にエミリアは顔を上げた。

「実はそのようなんです!」
「本当に頭を打ったのか? まあ大事にならなくて良かったな。今よりもっと頭が足りなくなったら困るからな」
「それ程までにご心配下さるなんて感激です」
「婚約者に一生残る傷なんて出来たら困るだろ。お前は夜会で新しい物を身につけて流行を作っていかなくてはならないんだ。母上のようにな。それも立派な公務の一つなんだぞ」

 ぐっと込み上がる苛立ちをなんとか飲み込む。フェリドは最初から自分の心配しかしていないのだ。婚約者に傷がついていないか見に来ただけ。 

「殿下、実は頭を打った衝撃で記憶を失ってしまったようなのです。正直、私が恐れ多くも殿下の婚約者だと言う事も覚えておりません」
「……ほう?」

 フェリドはすっと目を細めると、ソファの背もたれに深く倒れた。予想外の反応にもめげずに続けると、フェリドの表情はみるみるうちに不機嫌なものへと変わっていった。

「ですので、父が帰ったら療養の為に領地へ行かせてもらおうかと相談しようと思っております」

 父親よりも先にフェリドが来たのには驚きだった。中官職の父親よりも王太子の方が余程忙しいのは十分に理解していた。

「そんなに酷いのか?」
「身体よりも心の方がです。何も覚えていないというのは本当に不安なのですよ。このままでは学園にも通えませんし、何より殿下にご迷惑をお掛けしてしまいます」
「例えばどのような迷惑が俺に掛かるんだ?」
「先程夜会でとおっしゃいましたが、今の私にふさわしい立ち振舞が出来るとは思えません。社交もままならないでしょう。そんな者が殿下の婚約者など務まる訳がございません」
「しかし、結婚まであと一年を切っているんだぞ。お前が領地に行ってしまったら色々滞ってしまうだろう」
「ですから、殿下に私はもう相応しくはないと……」
「それに記憶を失ったのは一時的なものかもしれない。一度王城の医師に詳しく診察させよう。それとお前を知っている者達に囲まれている方がいいんじゃないのか? 学園で友や俺と過ごす事で思い出す事もあるかもしれない」

 珍しく雄弁に話すフェリドに呆気に取られていると、フェリドはちらりと扉の方に視線を向けヴァートに向かって手招きをした。

「まさかとは思うがこいつの事も忘れているのか?」

 内心ぎょっとして言葉が詰まる。ヴァートは表情を変えずにこちらを見てきた。

「名も先程教えてもらいました。ヴァートだけでなく他の使用人の事も今は覚えていないのです。私が覚えているのは自分の事だけです」
「……そうなのか。お前がヴァートを忘れるとはな」

 ぽつりと呟いたフェリドは一気に立ち上がるとまっすぐにエミリアを見下ろした。

「よし分かった。これからは俺がじきじきに送迎してやる。今は卒業式に向けて生徒会は準備で忙しいから帰りは悪いが待っていてくれ」
「待つ? 殿下をですか?」
「いつもそうして帰る時もあったんだ。お前は覚えていないと思うがな」

――いやいやいや! 一度もたりとも生徒会が終わるのを待っていた事なんてないわよ! というか殿下の公務で共に出席しなければならない招待がある時以外は別行動だったじゃない!

 吐き出したい言葉と気持ちを押さえ引き攣った笑みでフェリドを見上げていると、不敵な笑みを浮かべた殿下は来た時と同じに騒々しく、でも優雅に見送りはいらないと言い残して部屋を出ていってしまった。

 エミリアは放心したままフェリドの消えた扉を見つめていた。もしかして昔からの付き合いのフェリドには、記憶を失ったというのが嘘だとばれていたのだろうか。だからあんな嘘をついて騙そうとしているのか。嫌な予感がして固まっていると目の前にヴァートの顔が現れた。

「どうかしましたか? そんなに殿下を見つめられて」
「へ? 誰が?」
「お嬢様です」

 膝の上でぐっと拳を握り締めた。いつものヴァートならそんな事は言わない。でも今ここで否定してはおかしい。記憶のあるエミリアならフェリドに興味を示してこなかったのだから、見つめるなどありえない。でも今はフェリドを知らないエミリアなのだ。どう返事をするのが一番なのか一瞬にして考えながら、曖昧に微笑んだ。

「……殿下は素敵なお方なのね。それに送り迎えもしてくれるだなんて、驚きだわ」

 最後の言葉は本心だった。フェリドは入学してすぐに学園で圧倒的な人気を誇っていた。王太子なのだから当たり前と言えば当たり前だが脇を固めるのは皆、上位貴族の令息達ばかり。その中でもさらに優秀な者達を身辺に置き、二年生で生徒会長になった時には、生徒会長室事態が王太子の執務室状態になっているとの噂が流れていた。実際にそれもあながち嘘ではないのだろう。フェリドは学園で勉学に励みながら、王太子としての公務も行っている。本来なら警護の為にも家庭教師を付けて勉学と公務を勧めていくのが慣例だったが、共に国を作っていく者達と一緒に学びたいというフェリドの熱意に国王が負け学園に通う事になったと、王妃との茶会で聞かされた時には少しだけフェリドを見直したのも事実だった。

「お嬢様? どうされました?」
「何でもないわ。少し休むわね」

 ヴァートは何か言いたげだったが、これ以上フェリドについて話していてはいつかボロが出てしまうと思い、部屋に下がる事にした。しかし応接間を出た瞬間、今まさに玄関を入ってきた父親と目が合った。
 少し小太りで背の低いポミエ伯爵家の当主である父は、涙目で近づいてくるとがっちりと抱き締めてきた。

「可愛いエミリア! 大丈夫だったかい? そばにいなかった父を許しておくれ!」

 とっさに動物でも宥める様な気持ちと、同じ感覚で抱き締め返したい気持ちを押さえて、肩越しにヴァートと視線が合う。ヴァートは長い手で無造作に伯爵家当主の首根っこを掴むとエミリアから引き離し、手をぱっと離した。

「何をするんだヴァート! 親子の抱擁を邪魔するでない!」
「お嬢様は病み上がりです。それに記憶を失っておられます。今の状況は知らないオジ様に抱きつかれたのと変わりないのでご理解下さい」

 さらりと告げられた衝撃的な事実に父親は目が飛び出る程に驚いていた。

「知らない? 記憶を失っている!?」
――ごめんなさい、お父様!

 父親は後ろに倒れそうになる身体をすっと伸びてきたヴァートに支えられていた。

――あッ、ずるいわお父様、私のヴァートなのに!

 心で叫びながら引き離そうとして手を伸ばした時だった。

「誰か! お嬢様をお部屋に。お休みになられるそうだ」
「ヴァートは?」

 するとヴァートは腕の中にいる父親を拘束するように肩を抱くと歩き出した。

「旦那様には私からお話をして参ります。お嬢様もどうかごゆっくりお休み下さい」
「あ、ありがとう」

 ヴァートは一度だけちらりとこちらに視線を送って来たが、何も言う事なく応接間へと入っていってしまった。




~Sideヴァート~
 フェリドはこの屋敷の主よりも先に到着した。向かい合って座る二人を見つめていると、ふとフェリドのつま先がエミリアのふくらはぎ辺りに触れているのが目に入った。あれはフェリドがこの家で周囲の者達を下がらせたい時に使う合図だった。記憶のないエミリアは偶然ぶつかってしまったのかと、足を横にずらしている。しかし力が弱かったのかと思ったらしいフェリドは割と強めにエミリアの足を蹴った。手袋越しに握り締めた指が掌に食い込む。ふとエミリアと視線が合い、分かるように頷いた。

 フェリドの実に傲慢な言葉に苛々を募らせていた時だった。フェリドの口から恐ろしい提案が飛び出した時には、自分の中で何かが切れる音がした。

――お嬢様と登下校をするだと? なぜ記憶がないと分かった瞬間そんな突拍子もない事を言ってくるんだ?

 今までフェリドは必要以上にエミリアと親しくしようとはしてこなかった。それは学園に入る前からもそうで、学園に入ってからもそうだった。かといって蔑ろにしている訳ではない。ちゃんと大小関わらず同伴者が必要なパーティーではエミリアを連れて行くし、様子見程度には気にかけているのだと見ていて分かっていた。それが急に送り迎えをすると言い出すものだから嫌な予感が胸を締め付けた。記憶がない事をいい事に、不適切な行動を取ろうとしているのかもしれない。そう思うと内心の焦りが冷や汗となって背中を流れ落ちていっていた。

 取り敢えず応接間に入ると、この家の主は顔面蒼白でこちらを見上げてきていた。

「旦那様にお水を」

 言うなり侍女が部屋を出ていく。口をぱくぱくと魚のようにしているものだから気の毒になり、とりあえず安心させる為に半ば強引に座らせた。

「お嬢様はご無事ですからまずはご安心下さい」
「その、その、記憶がないというのは? どういうことなんだ? 私の事を覚えていない? 全部忘れているのか? それとも私の事だけ忘れているのか? どうなんだヴァート!」
「旦那様の事だけという忘れ方ではございません。私の事も他の使用人の事も、殿下の事も忘れておられます。ご自分の事以外と申し上げればよいのでしょうか」
「殿下の事を忘れているだと? 殿下はお怒りだったか?」
「お怒りだなんてとんでもございません。殿下は学園の送り迎えをすると申し出てくださいました」

 ほっとソファに深く座ったのも束の間、我に返った様に怪訝な顔をした。

「とてもじゃないが今の状態で学園になど行かせられんぞ」 
「はい。ご記憶がないままの学園生活は心配でなりません。誰か常にお側にいてお守り出来る者がいればよいのですが」
「誰か共に付けるか。同じ年の頃の侍女はいたか?」
「それも良い案ですがいささか不安が残りますね。学園では多くの男性がおります。それこそ学生に始まり、教員や、用務員、出入りする業者の者など数え上げればきりがございません。記憶がないお嬢様が騙されて付いていかないとも言い切れません。その時、侍女ではお守り出来るかどうか……」
「そ、それなら」
「それなら?」
「アニはどうだ!」

――アニか。

 ヴァートは前に突っ伏したい気持ちで主を見据えた。

「アニは駄目です」
「適任だと思うぞ? 娘とは年齢も近いし女にしては珍しく腕も立つ。それにエミリアを慕っているだろう?」

 あれが慕っているように見えていたのだろうか。アニは屋敷で働き始めて間もないが、妙にエミリアの側をウロウロとしていた。それが何故だか分かったのはほどなくしてからで、アニは事もあろうか隙あらばフェリドにも取り入ろうとしていたのだ。

「アニが殿下を狙っているからですよ」

 主は口に含んだ水を飲みかけて吹き出した。とっさに避けたので掛かりはしなかったが、机の上は主の口から吹き出されたもので濡れていた。

「そんな事をしたらうちが王家からお叱りを受けるじゃないか!」
「殿下が相手にしておりません。アニは確かに見目はいいですが、殿下の婚約者はお嬢様ですからね。ちょっとやそっとじゃ靡きませんよ」

 男二人顔を合わせて妙に唸ってしまう。確かにエミリアの容姿は美しかった。本人はそこそこだと思っていると思うがそれは違う。確かに王城や学園には美しい令嬢も沢山いる。でもエミリアの白金の柔らかく流れる長い髪の毛からは意思の強さと女らしさが滲み出ており、男なら触れてみたいと一度は思うだろう。それに愛くるしい丸い目と少しぷっくりとした頬、そして形の良い小さな口は……。そこまで思い出してしまった所で邪念を払うように難しい顔をすると、主も苦々しい顔をしながら言った。

「アニは今日で解雇だ。いいな?」
「理由はどうされますか? 今の所辞めさせる理由がございません。仕事は問題なくこなしていますし、使用人仲間とも仲良くしております。殿下狙いだと分かっていたとしても決定的な事実がない以上難しいです」
「他の使用人達との間に亀裂が入りかねない、か」
「男女問わずお嬢様のお身を確実に守れ、なおかつ信頼のある者がずっと側に入れればよいのですが……」 

 悩んだように俯く。視界の端に見を乗り出してきた主が映った。

「お前だヴァート! お前が四六時中エミリアと共にいればいいだろう! そうすれば全ての事からエミリアを守れるじゃないか!」

 誘導したはずの問答だったはずなのに、全ての事から守れると言われ自己嫌悪に陥ってしまった。

――守れなかったんですよ、俺は。

 目の前で落下していくエミリアを見ながら時が止まったかのような恐ろしい瞬間だった。しかし望んでいた回答に演技をして見せた。

「そうですね、さすがは旦那様です。学園内で侍従や侍女を連れているのは少数ではありますがいない訳ではありませんし、さっそく学園の方に申請してみます」

 安堵したような主を置いてさっさと部屋を出ると、先程の苦い気持ちを振り払い、報告すべくエミリアの部屋に向かった。
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