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1 この際だから、全部忘れていいですか?

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 視界が揺れる。

 目が回る。

 星が散るなんて本当にあるのかとそんな事を考えながら、一瞬意識が飛びかけていた。
 がしかし、背中を激しく打ち付けられた痛みに意識など手放せる訳がない。ただ起き上がる事は出来なくて自分の名前を呼ぶ声と、覗き込んでくるいつもの涼し気で清潭な顔が歪んでいる事に何故か不思議な充足感が心を満たしていた。

「お嬢様! 大丈夫ですか? エミリアお嬢様!」

――あぁ、やっぱりこれ駄目なやつだわ。

 意識が遠退いていく。何か言いたいのに言葉が出てこないまま、エミリアの意識は引きずられるように深淵へと落ちていった。




「ッ私の!」

 勢いで飛び起きたつもりの身体は実際には起き上がってはおらず、やけにはっきりと寝言を言ったのだと気づいた時にはすでに周りに人が集まり始めていた。

「お嬢様が、お嬢様が目を覚まされました!」
「すぐにお医者様を呼んで下さい」

 頭が重たくて目だけを動かすと、今部屋に入ってきたと分かる侍従のヴァートが使用人達に指示を出している。その瞬間、バチンと音が鳴ったかのように目が合った。ヴァートは心配そうに大股で近づき、すぐさま横に膝を突いて視線の高さを合わせると、透けるような美しい茶色の髪と無駄に整った顔を近づけてきた。

――私のヴァートだわ。

 昔は長めの前髪で顔を隠し気味だったが、少し前に気分転換にと真ん中分けにしてきた時の破壊力といったらもう、思い出しただけで今でも鼻血を出してしまいそうな程に強烈なものだった。高い鼻梁に薄く綺麗な形の唇、そして大きく切れ長の目。もちろん顔の綺麗さには誰もが気づいていたけれど、髪型の変化と額を出した事で発せられた大人の色気に、一体何人の女生徒達や使用人達の悲鳴が上がった事か。

 学園の生徒達はほとんどが貴族令嬢達なので、きらびやかな男性の姿には耐性がある。それでもそんな事態になったのだから、ヴァートの格好良さは格別なのだと思い知ったのだった。 
 そして人気の秘密は他にもあった。ほとんど表情を崩して笑わないが、気遣いは誰よりも出来て、さらりと力仕事をこなし、何より女性の影が見えないというのが人気の秘密らしい。他家の侍女達の中にはヴァート会なるものがあるのだと小耳に挟んだのはいつの事だったか。そんな事を知ってか知らずか当の本人はその美しく、色気をたっぷりと含ませた表情で首を傾けて覗き込んできた。

「どこかお辛い所はありますか?」

 心臓、と言いかけて小さく首を振る。するとヴァートは一瞬の動きにも気が付いたように視線と留めたが、やがて立ち上がった。とっさにその服の裾に手を伸ばしかけて手を引き戻す。少し振り向いたヴァートから目を逸らした。

「お飲み物を持って参ります。すぐに戻りますよ」

 表情は変わらないが安心したのか先程とは打って変わり柔らかさの乗った声に頷くと、再び目を閉じた。
 医者は一通り診察した後、簡単な質問をしてきた。

「ご自分で感じる違和感や痛みなどはありますか?」
「ありません」
「吐き気なども?」

 首を振る。気がつくと身体に触れる診察は終わっただろうと見計らって戻ってきたヴァートが静かに扉の近くに立ったのが見えた。真剣な表情で侍女と一言、二言言葉を交わしているのを目で追いながら無意識に胸の辺りを掴んでいた。

「まさかお苦しいのですか?」

 医者の言葉にすぐさま手を離したが、それを見逃さなかったヴァートは走るようにこちらに近づいてきた。

「いかがなさいましたか先生」
「いや、少し異変があったようだったんだが。それで心臓の辺りがお苦しいのですか?」
「そう言えば先程も手をその辺りに当てようとされておりましたよね? 見間違いかと思いましたが、ちゃんと先生に正直に言わないと駄目ですよ?」

 心臓が痛いのは本当だ。ヴァートを見ると苦しくて堪らない。特に自分以外の女の人と話している所を見た時には心臓がすり潰されているのではと思う程に痛むのだ。でもそんな事はとても言えないし、言った所で誰にも治せないのは分かっている。

――ヴァート以外には。

 段々と恨めしくなりじっと睨みつけると、怪訝そうに眉根を寄せた。その時扉の方から侍女が急いで部屋に入ってきた。

「お嬢様! たった今王城から連絡があり、これからフェリド殿下がお見えになられるそうです! 旦那様も急いで戻られるとの事でした!」
「ついさっき目覚められたばかりなのですから無理は禁物です。ですよね先生?」

 ヴァートの威圧感に押されそうになった医者は、それでも今から現れる訪問者を断る理由にされるのはごめんだとばかりに大手を振った。

「問題ありませんよ。この通り受け答えもしっかりしていらっしゃいますし、大きなお怪我はありませんので面会はして頂けるかと思います」

 ほっとしたような侍女を尻目に、ヴァートは少し低い声で言った。

「お嬢様はいかがですか? 殿下に会われるのであれば多少なりとも身なりを整えなくてはなりませんが立ち上がる事は出来ますか?」
「ここに招いては駄目なの? そうしたらこのままでいいでしょう?」
「いいえ駄目です。男性をお部屋にお入れする事は出来ません。もし起き上がるのが難しければ遠慮なくお断り致しましょう」

 その時不意に、いけない考えが頭を過ぎってしまった。そして深く考える前にその考えは口から滑り出ていた。

「……それにしても、殿下はなぜ私の所へ来るのかしら」

 驚いたのはヴァートだけではない。またもやすました顔を崩せたと内心笑っていると、医者は驚いたように顔を覗き込んできた。そして不作法にも勝手に両目を開いてきたり、口を開かせたりしてくる。ヴァートが止めなければ更に過激になってしまいそうだった。

「私が見ても無意味だと思う診察はお止めください」
「お嬢様、この指は何本に見えますか?」

 医者はそれでも焦った様に続けた。

「三本よ」
「それじゃあこれは?」
「八本」

 片手四本ずつで妙な出し方をする手を見ながら小さく息を吐いた。

「だからどうして殿下が私に会いに来るの? それとも殿下は国中の年頃の娘が体調を崩したらご心配なさるのかしら……」
「お嬢様が殿下の婚約者だからです」
「こんにゃく?」
「婚約! 婚約者ですよ! 将来結婚する相手の事です!」

 はっきりとそう言ったヴァートは眉を顰めた。

――そういう顔をするって訳ね。それならいいわ、私にも考えがあるんだから。

 エミリアはわざを肩を竦めて毛布の端を引き上げた。

「そもそもあなたは一体誰なの? 格好からするに使用人よね? 最近入ったのかしら」

 部屋に信じられない程の沈黙が流れる。

――あれ、白々しかったかしら?

 段々と恥ずかしくなっていき、撤回しようとした時だった。侍女の一人が悲鳴を上げる。そして医者は頭を抱えて、ヴァートは立ち尽くしていた。顔面蒼白の医者はそれでも震える声で話かけてきた。

「お嬢様、ご自分のお名前はお分かりですか?」
「もちろん。エミリア・ポミエよ」
「それならば、差し出がましいようですが殿下とのご婚約の事は? この部屋にいる者で知らない者はおりますか?」

 部屋の中をゆっくりと見渡していく。部屋の中にいる全員と目が合う。そしてヴァートとも。しかしふっと視線を逸らすと俯いた。

「……全然分らないわ」
「一人も?」
「ええ全く。私もしかして記憶をなくしてしまったの?」
「ッ」

 その時、ヴァートはもの凄い速さで部屋を出て行ってしまった。
 本当は追いかけたい。追いかけて冗談だったと言いたい。それでも今心の中に沸き起こってしまった考えを遂行するのにこれを逃す手はないと、心が激しく高鳴っていた。

 フェリド王太子殿下の婚約者になってはや九年。二人の卒業と共にが結婚する約束は、もう一年を切ろうとしている。なんとしても婚約破棄しなくてはならない。だからこれは最初で最後の賭けに思えた。

――巡ってきたこの機会を絶対に活かしてみせるわ。絶対に婚約破棄して晴れて自由の身になったら、お父様にヴァートをお婿さんに下さいと言うんだから!




~Sideヴァート~
 お嬢様が落馬をした時、ほんの少しだけ別の事に気を取られていた。
 お嬢様の乗る愛馬はクララと名付けられ、お嬢様が大層可愛がっていた。しかしその名を知ってか知らずかクララは呼ばれる度に苛立ったような視線を主に向けるのだった。それもそのはず、クララの性別は雄、しかも軍馬。なぜこれ程までに立派な馬が伯爵家の、それも月に数回の遠乗りがあるかないかのご令嬢に送られたのかというと、お嬢様の、お嬢様らしからぬ行動が災いしていた。

 クララを贈ってくれたのは、レイモンド公爵でフェリドの叔父だった。まだ幼いご息女を街に連れて来ていた時、人の多さに圧倒されてしまったご息女が泣き出してしまった。たまたまその近くが街の入り口に設けられた厩だったものだから、丁度出されようとしていた馬が一頭驚いて嘶いた。振り上げられた足の下にいるご息女。しかしご息女が馬に蹴られる事はなかった。とっさに手を伸ばしたエミリアが手綱を引いて宥めたのだった。本当に一瞬の出来事でいつも街に来ていたエミリアだから出来た事だとも言える。とは言え馬の扱いには慣れていないエミリアだったが、エミリア曰く、人間観察が趣味で色々な者達を観察していたからとっさに出来た事だと口にしていた時は、寿命が縮まるかと思ったものだ。そんな自分はと言えば、近くの屋台で焼き菓子を買わされていた。もちろんその悲劇に気づきはしたものの間に合う距離にはいなかった。
 エミリアは馬を宥めた度胸と、他者の為に危険を顧みない慈愛の精神を買われ、公爵家からとびきりの軍馬が送られた。

――全く公爵様は何してくれてんだ。お嬢様にそんな立派な馬を与えて世話は誰がすると思っているんだ? もし万が一公爵家からの贈り物を死なせでもしたら誰がどう責任取るんだよ!

 なんて悪態を吐いたのは記憶に新しい。当の本人はといえば黒い雄の軍馬にクララなんて雌の名前を付けて喜んでいる。けれど思ってしまったんだ。

――無邪気で可愛いな、と。

 けれどそれだけではすまなかった。事ある毎にエミリアはクララと共に出かけようとする。クララは若く血の気が多かった。それもそのはず、最高の軍馬を両親に持ついわば選ばれし馬なのだ、クララは。だから適度に走らなくてはストレスが溜まるし身体にも悪い。だからエミリアが乗ると分かっている前の日には適度にクララを走らせて調整してからエミリアを乗せるようにしていた。しかしこの日は前日の大雨でクララの調整が出来ていなかった。クララは当然気が立っていた。そこへエミリアが来たものだから、少しいたずらの意味も込められていたのかもしれない。本当はエミリアを好いているのも見ていれば分かる。そして少しナメられている事も。今日は念の為に二人乗りにしようとエミリアを先に乗せた時だった。視界の端に気になる人の気配を感じてそちらに向いた瞬間、クララは早くしろと言わんばかりに軽く前足を踏み鳴らしたのだ。エミリアは体制を崩して勢いよく落馬してしまった。
 短い距離だったにも関わらず、伸ばした手は間に合わなかった。

 思わずエミリアの部屋を飛び出してきてしまったヴァートは肩で息をしていた。

「記憶を失くした? 嘘だろ……」

 誰もいない裏庭で、壁に両手を着きながら激しく鳴る鼓動をただ聞いている。

「お嬢様が記憶喪失……」

 言葉にしてみると手にも震えの症状が出始めてくる。信じられなくて自分の手で口を塞いだ。お嬢様とこの国の王太子の結婚は後一年を切っている。二人の卒業を待って結婚する事になっているのだ。

「なんて事だ。まさかそんな……」

 口を押さえていてもにやけた顔は隠せない。

――ひっくり返すには今しかない。

「最高だ!」

 誰にも見せた事のない悪い表情をしている自覚はある。もちろん自分の容姿が女性に受けているという事も承知している。エミリアの目を盗んで女性から言い寄られた回数は両手でも足りない。それでもエミリア以外には興味がなかった。そして起こったこの思いがけない事件。エミリアを危険な目に遭わせてしまった事はもちろん後悔しているが、思いがけない出来事に嬉しくて堪らず壁を叩いていた。

「この婚約、絶対に破談にしてみせる。誰にもお嬢様は渡さない」

 ヴァートはたった一人心の中で決意すると、いつも通りの涼しい顔に戻して屋敷の中へと戻っていった。
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