65 / 72
65・少年が誕生した経緯
しおりを挟む
マリアンヌは遥か遠方から夥しい数の悲鳴に、意識を取り戻した。
それは悪夢の産物による幻聴と感じていたが、耳朶に届く悲鳴を振りほどくかのように呻いて目蓋を開けると、次には一瞬で意識が明瞭になる。
しばらくの間、自分がどういう状態にあるのか理解できなかったが、状況を把握することに努める。
奇妙に柔らかい台座の上に寝かされ、四肢をやはり柔らかい軟体性の物体で束縛され身動きが取れない。
頭部は自由に動かせるので、視線を体に向けると、そこには台座から直接生えている赤黒い肉塊が、自分の体に巻きついているのが見えた。
首を無理に動かして台座をなんとか視認してみると、それもまた皮膚を剥がしたかのような赤黒い肉塊らしい物体だった。
死体の上に寝かされているような気分に陥り、おぞましさが込み上げてくる。
しかし体の下で台座が蠕動し、これが生きているのだと知って、さらに気分が悪くなる。
込み上げる吐き気を堪えて周囲の観察を続ける。
戦闘中サリシュタール先生に守られていたはずだが、一瞬の隙によって魔物に捉えられたことは覚えている。
だがそこから先は意識が途絶え、どういった経緯でこのような状態に置かれているのかは定かではない。
台座の周囲は広大な空間が広がっている。
薄暗くて明瞭ではないが、数十メートル四方はあるなにかの内部であり、壁が蠢いている様から、生物の体内を連想させた。
おそらく想像は遠く離れていない。
ただこんな巨大な体内など自然の生物にはありえず、明らかに魔物によって製造された、人為的なものだ。
「異界通路開通装置」
オットーの記憶の中で見た、魔物たちの最後の希望。
肉と金属が合成された、この世界にはありえない機械の内部にいる。
記憶の中ではそれほど奇怪だと感じなかったが、自身で直接するとおぞましさが容赦なく襲い掛かる。
精神世界でのこの場所は、オットーの主観が混じっていたためかもしれない。
ここは古城の内部だ。
古城そのものが、異界間通路を形成する装置そのものだ。
遠くから悲鳴が聞こえ続けている。
音源を確認しようと周囲に目を向ける。
そして遥か上の闇の一点に小さな穴があるのに気付き、それを認識すると同時に、凄まじい怒号と絶叫、そして悲鳴が耳元で響き渡った。
GUOOOOOOOOOOOOO!!
CYUOOOOOOOOOOOO!!
GAAAAAAAAAAAAAA!!
頭蓋骨までをも振動させる阿鼻叫喚に伴い、穴の向こう側の光景が眼前に突きつけられたかのように明確に見える。
視覚でも聴覚ではない感覚が、それを映像と音で認識する。
それは言葉にすることにできない、苦痛に満ちた世界。
苦痛のための苦痛。
死が訪れることのない、無限に続く拷問。
「地獄」
マリアンヌは恐怖に慄き、思わず知らずに呟く。
夥しい数の罪人が、その罪に応じた業罰を受けている、比喩ではない地獄絵図に、恐怖と戦慄を禁じえなかった。
小さな空間の穴から覗かせる、遥か遠方の光景であるはずなのに、頭に直接投影されているかのように、鮮明にその様子が見えてしまう。
そして地獄の中心部に細い通路があった。
視覚では捉えられないが、その存在を確かに感知できる。
魔王の力が途絶えた今、拡大されていた通路は、精々人が一人か二人、通れるかどうかというほど細くなり、数千数万キロの長さがある。
だが、ほんの数メートル程度のようにも思える。
これには長さという概念は意味を成さないのかもしれない。
己の罪から逃れようと通路に目掛けて夥しい数の亡者が群がるが、しかし出口に手は届かず全員が途中で脱落する。
地獄が亡者を引き寄せるなんらかの力が働いており、亡者にとっては縦穴を這うようなもの。
そして、誰もが我先にと争い、先に進む者を引き摺り落とす。
他者を踏み台にして先頭になっても、後ろの者に掴まってまた地獄へ落とされる。
延々とその繰り返しで通路の中ほどで停滞している。
誰かが足を滑らせたのか通路を転がり落ち、必死になって他の亡者の体にしがみつき、結果全員が地獄の底に転落した。
確かによほど強大な力を持っていなければこの世界には辿り着けないだろう。
出口に到達するには、あの亡者全てを蹴散らし突破しなければならないのだ。
もしほんの少し譲る気持ちがあれば、ここまで苦労する必要はなく、お互いに助け合えば簡単に出口に到達するだろう。
しかし彼らは自分のことしか考えず、他人はただ自分の妨害をする者でしかなく、足を引っ張り蹴落とすだけでしかないのだ。
そして誰も到達できない。
それは見ようによっては、地獄がそれほど苦痛に満ちていると捉えることもできるかもしれない。
少年がかつてそう思ったように。
だが真実は、ただの自業自得だ。
「これで計画は完成する」
「彼の蘇生は成功した。五分ほどしか持たないが」
「すぐに開始しよう」
不意に自分の近くで声が聞こえた。
姿は見えないが、それは固定されている自分の目には届かない位置なのか、あるいは別の要因か。
後者のほうに可能性が高い気がした。
拙い。
凄く良くない。
自分は今まさに、異界通路を切り開くための生贄に使われようとしている。
肉の束縛をなんとかして解いて逃げないと。
力任せに引き千切ろうと試みるが、その程度で魔物の拘束が外れるわけがなく、人間の力で脱出できるか大変怪しい。
「オットー」
呟いて少年の姿を探した。
異界通路開通装置にはオットー、つまりゲオルギウスが必要だ。
ならばこの付近にいるはず。
彼は無事だろうか。
視線を周囲に向けるが、魔物の姿が見えないことと同じ理由に起因しているのか、少年の姿は確認できない。
焦燥感が募り始める。
不意にすぐ横に、針金細工の羽を広げた、白装束の天使が立っていた。
「おまえは」
内から激情の憤怒が沸き上がる。
利用するだけ利用しておいて、オットーを串刺しにした魔物。
その地獄の亡者そのものの所業は、それゆえに地獄に落ちたはずなのに、致命的なまでに反省しない。
だからこそ地獄に落ちたのだともいえる。
「マリアンヌ王女」
不自然なまでに優しい声色で、白い天使は囁きかける。
「もうすぐ、私たちの計画は終わる」
異界通路のことだろう。オットーがどんな状態に置かれているのかわからないが、推測だが生命の有無を無視すれば、オットーの意思とは無関係に異界通路開通装置を作動できるのかもしれない。
私にしようとしているように。
「さて、最後にあなたにすべてを教えよう」
今更真実にどれほどの価値があるのか大変疑問だったが、黙らせたところで状況が好転するとは思えない。
寧ろ話をさせて時間を稼いだほうがいいだろう。
「教えるって、なにをですの?」
「ゲオルギウスがなぜあれほどまでに強力な力を持っていたのか、疑問には思わなかったのか。ただの人間が時空を操る力を、魂を簒奪する力を、そして誕生した地が地獄に程近い場所であったことを」
マリアンヌは問いかけの答えを瞬時に悟った。
「まさか」
「そう。私たちが彼を作った。
初めは一世代で製造しようと試したが上手くいかなかった。だがそれはある程度予想されたこと。
次の段階では、通常の生命活動を行わせながら、素材に影響を与え続ける方法を採用して実行した。長い年月をかけ、数世代の後、望んだ力を持つ者を誕生させる。ゲオルギウスの力は偶然の産物などではない」
マリアンヌは奇妙に冷たい汗が流れるのを感じた。
「私たちには地獄から完全に逃れる力はなかった。だが力を保有者の製造することの可能性はあった。
長い年月をかけて待望の能力の保有者を誕生させた私たちは、次に彼の力を我が物としなければならなかった。そのためには精神の間隙を作る必要があった。
しかしゲオルギウスはその能力の影響か、あるいは別の要因か、子供とは思えないほど強靭な精神力を持っていた。実の父親から虐待されてもけして芯の折れない屈強なる心。
もっともその弱点も程なく見つけたが」
天使の微笑の奥底には、目を背けたくなるほどの狂気の悪意が満ちていた。
「人の心は強靭で、同時に脆弱だ。支えが存在する限り決して屈折することのない精神は、しかし支えがなくなると呆気なく折れる。
例えば最愛の母。美しくて優しいお母さん。お母さんがそばにいてくれるなら僕は大丈夫。そういう子供って健気だと思わない」
「まさか、あの子の両親を」
「あらあら、もうわかったなんて、ずいぶん頭のいい子なのね。
そう、力のない人間の精神をある傾向に向けることは容易かった。
父親を暴力的性格に変化させることも、そして母親に、傍にいる必要も理由も。寧ろ離れる理由しかないはずにもかかわらず、暴力を振るう夫の傍に居させ続けることも。
ゲオルギウスの精神が磨耗し、衰弱し、そして壊れるまで。
仕上げに手間取ったけれど、あの女に自分の息子に恐怖を植え付け、殺させるようにした。
そうそう、付近の人間の心も操ったわね。口で言うほど簡単じゃないのよ。助けられるのに見捨てさせたり、ちょっとしたいたずら心を、本当の暴力に発展させるように刺激してあげたり。でも、なかなか面白い遊びだったわ」
こいつら人間じゃない。
マリアンヌは激憤のあまり涙が溢れそうになった。
幼い子供の心を壊すために、彼の両親の心を変えたのだ。
本来なら幸福な時代を送れたはずのゲオルギウスを、絶望的な環境へ置いたのだ。
そんな所業は人間にできるはずがない。
地獄がふさわしい魔物だ。
「死神から聞いたのでしょう。私たちが何者か。どこから来たのか。そう、私たちは地獄から逃れてきた罪人。苦痛に満ちた世界から脱出したもの。そのために労力は惜しまない。我々が逃れられるのならば」
「自業自得でしょう! おまえたちがしたことで地獄に落ちたのです! その報いを受けるべきだわ!」
天使は嘲笑する。
「報い。そんなものが現実に存在すると思っているの?」
それはどういう意味なのか。
マリアンヌの疑問に天使は答えなかった。
「しかし異界通路を形成するのに、ゲオルギウスと同質の力を持つものが必要だと聞かされたときは、さすがに絶望しかけた。
ゲオルギウス一人製造に成功したことでも奇跡に近い。ましてやあれから三百年経過している。もう一度製造するには膨大な時間を必要とする。その間彼らの眼をごまかせることなど不可能だった。
だが再び我らに奇跡がもたらされた。お前だ。我々はそれこそ死に物狂いで探索した結果、お前という存在を発見したのだ。
お前の力は、おまえ自身自覚していないようだが、確かに保有していた。それはもしかすると三百年前に試行錯誤したものの血が世代を経てお前の誕生に重なったためかもしれない。
推測の域を出ないが、とにかく賭けは我々の勝ちだ。この世界を脱出して異界通路を塞ぎ、地獄から完全に断絶する。そうして私たちの脱出劇は終わりだ」
異界通路開通装置が作動された。
異界通路が形成され始め、それは無機質な音ではなく、有機質特有の音であり、マリアンヌには臓物が掻き回されるそれに聞こえた。
なんとかして脱出しなければ、このままでは自分の力の全てを搾取され死に至る。
オットー。
胸中で姿の見えない友人の名を呼ぶ。
呼んだところで返事が返ってくるとは思えなかった。
「さて、もうそろそろお別れだ、王女。お前はきっと天国に迎え入れられるだろう。そして我々は地獄から完全に離脱する。ゲオルギウス、そして王女。二人の力によって異界通路は開かれ、そして我々が向こう側に移動しだい、閉じる」
「魔人だけね。他の亡者は置き去りにして」
「あの者どもは、ただの時間稼ぎだ。我々が別の世界に転移し、地獄から完全に断ち切るための。そしてもう必要ない。
なぜなら、死を完全に逃れることができる。死が追跡してきたのは、地獄間通路が目印となったから。でも、移動した世界には、それがない。我々だけ、少数だけなら、その少なさゆえにやつらは探知することはできない。もう、大量の亡者を引きこんで、私たちの存在を隠蔽する必要はなくなった」
その顔には、必要に迫られたがゆえに行ったのだという苦渋の色はなく、上から見下し傲慢に操りそれを楽しむ暴君の笑みだった。
マリアンヌは理屈を抜きにしても、彼らを認められなかった。
魔物は邪悪な存在だ。
他人を犠牲にして自らの全てを優先させる。
たとえ助けられるものがいたとしても、見捨てることの快楽を選択する。
地獄にいるのがふさわしい。
もう一度地獄に送り返してやりたいが、現在の状況では枷を外し自由を得ることもできない。
天使の姿をした魔物がマリアンヌに背を向けると、先ほどまでまったく気づかなかった肉で形成された隔壁に、手を当たる。
肉の壁は蠕動し、紛い物の天使が通過できるほどの穴が開かれた。
天使は背中越しに視線を送る。
これから誰かが哀れで惨めに死ぬのが楽しくて仕方がないという風に。
「さようなら。王女殿下」
天使は隔壁の向こう側へ姿を消し、開かれた穴が閉じた。
それはさながら処刑室の断絶の扉のように。
だがマリアンヌは絶望に溺れなかった。
この程度の絶望など、ゲオルギウスが受けたものに比べれば、それこそ匙一杯程度の少なさ。
考えろ。
マリアンヌは自分に言い聞かせる。
最後のその瞬間まで諦めるな。
それは悪夢の産物による幻聴と感じていたが、耳朶に届く悲鳴を振りほどくかのように呻いて目蓋を開けると、次には一瞬で意識が明瞭になる。
しばらくの間、自分がどういう状態にあるのか理解できなかったが、状況を把握することに努める。
奇妙に柔らかい台座の上に寝かされ、四肢をやはり柔らかい軟体性の物体で束縛され身動きが取れない。
頭部は自由に動かせるので、視線を体に向けると、そこには台座から直接生えている赤黒い肉塊が、自分の体に巻きついているのが見えた。
首を無理に動かして台座をなんとか視認してみると、それもまた皮膚を剥がしたかのような赤黒い肉塊らしい物体だった。
死体の上に寝かされているような気分に陥り、おぞましさが込み上げてくる。
しかし体の下で台座が蠕動し、これが生きているのだと知って、さらに気分が悪くなる。
込み上げる吐き気を堪えて周囲の観察を続ける。
戦闘中サリシュタール先生に守られていたはずだが、一瞬の隙によって魔物に捉えられたことは覚えている。
だがそこから先は意識が途絶え、どういった経緯でこのような状態に置かれているのかは定かではない。
台座の周囲は広大な空間が広がっている。
薄暗くて明瞭ではないが、数十メートル四方はあるなにかの内部であり、壁が蠢いている様から、生物の体内を連想させた。
おそらく想像は遠く離れていない。
ただこんな巨大な体内など自然の生物にはありえず、明らかに魔物によって製造された、人為的なものだ。
「異界通路開通装置」
オットーの記憶の中で見た、魔物たちの最後の希望。
肉と金属が合成された、この世界にはありえない機械の内部にいる。
記憶の中ではそれほど奇怪だと感じなかったが、自身で直接するとおぞましさが容赦なく襲い掛かる。
精神世界でのこの場所は、オットーの主観が混じっていたためかもしれない。
ここは古城の内部だ。
古城そのものが、異界間通路を形成する装置そのものだ。
遠くから悲鳴が聞こえ続けている。
音源を確認しようと周囲に目を向ける。
そして遥か上の闇の一点に小さな穴があるのに気付き、それを認識すると同時に、凄まじい怒号と絶叫、そして悲鳴が耳元で響き渡った。
GUOOOOOOOOOOOOO!!
CYUOOOOOOOOOOOO!!
GAAAAAAAAAAAAAA!!
頭蓋骨までをも振動させる阿鼻叫喚に伴い、穴の向こう側の光景が眼前に突きつけられたかのように明確に見える。
視覚でも聴覚ではない感覚が、それを映像と音で認識する。
それは言葉にすることにできない、苦痛に満ちた世界。
苦痛のための苦痛。
死が訪れることのない、無限に続く拷問。
「地獄」
マリアンヌは恐怖に慄き、思わず知らずに呟く。
夥しい数の罪人が、その罪に応じた業罰を受けている、比喩ではない地獄絵図に、恐怖と戦慄を禁じえなかった。
小さな空間の穴から覗かせる、遥か遠方の光景であるはずなのに、頭に直接投影されているかのように、鮮明にその様子が見えてしまう。
そして地獄の中心部に細い通路があった。
視覚では捉えられないが、その存在を確かに感知できる。
魔王の力が途絶えた今、拡大されていた通路は、精々人が一人か二人、通れるかどうかというほど細くなり、数千数万キロの長さがある。
だが、ほんの数メートル程度のようにも思える。
これには長さという概念は意味を成さないのかもしれない。
己の罪から逃れようと通路に目掛けて夥しい数の亡者が群がるが、しかし出口に手は届かず全員が途中で脱落する。
地獄が亡者を引き寄せるなんらかの力が働いており、亡者にとっては縦穴を這うようなもの。
そして、誰もが我先にと争い、先に進む者を引き摺り落とす。
他者を踏み台にして先頭になっても、後ろの者に掴まってまた地獄へ落とされる。
延々とその繰り返しで通路の中ほどで停滞している。
誰かが足を滑らせたのか通路を転がり落ち、必死になって他の亡者の体にしがみつき、結果全員が地獄の底に転落した。
確かによほど強大な力を持っていなければこの世界には辿り着けないだろう。
出口に到達するには、あの亡者全てを蹴散らし突破しなければならないのだ。
もしほんの少し譲る気持ちがあれば、ここまで苦労する必要はなく、お互いに助け合えば簡単に出口に到達するだろう。
しかし彼らは自分のことしか考えず、他人はただ自分の妨害をする者でしかなく、足を引っ張り蹴落とすだけでしかないのだ。
そして誰も到達できない。
それは見ようによっては、地獄がそれほど苦痛に満ちていると捉えることもできるかもしれない。
少年がかつてそう思ったように。
だが真実は、ただの自業自得だ。
「これで計画は完成する」
「彼の蘇生は成功した。五分ほどしか持たないが」
「すぐに開始しよう」
不意に自分の近くで声が聞こえた。
姿は見えないが、それは固定されている自分の目には届かない位置なのか、あるいは別の要因か。
後者のほうに可能性が高い気がした。
拙い。
凄く良くない。
自分は今まさに、異界通路を切り開くための生贄に使われようとしている。
肉の束縛をなんとかして解いて逃げないと。
力任せに引き千切ろうと試みるが、その程度で魔物の拘束が外れるわけがなく、人間の力で脱出できるか大変怪しい。
「オットー」
呟いて少年の姿を探した。
異界通路開通装置にはオットー、つまりゲオルギウスが必要だ。
ならばこの付近にいるはず。
彼は無事だろうか。
視線を周囲に向けるが、魔物の姿が見えないことと同じ理由に起因しているのか、少年の姿は確認できない。
焦燥感が募り始める。
不意にすぐ横に、針金細工の羽を広げた、白装束の天使が立っていた。
「おまえは」
内から激情の憤怒が沸き上がる。
利用するだけ利用しておいて、オットーを串刺しにした魔物。
その地獄の亡者そのものの所業は、それゆえに地獄に落ちたはずなのに、致命的なまでに反省しない。
だからこそ地獄に落ちたのだともいえる。
「マリアンヌ王女」
不自然なまでに優しい声色で、白い天使は囁きかける。
「もうすぐ、私たちの計画は終わる」
異界通路のことだろう。オットーがどんな状態に置かれているのかわからないが、推測だが生命の有無を無視すれば、オットーの意思とは無関係に異界通路開通装置を作動できるのかもしれない。
私にしようとしているように。
「さて、最後にあなたにすべてを教えよう」
今更真実にどれほどの価値があるのか大変疑問だったが、黙らせたところで状況が好転するとは思えない。
寧ろ話をさせて時間を稼いだほうがいいだろう。
「教えるって、なにをですの?」
「ゲオルギウスがなぜあれほどまでに強力な力を持っていたのか、疑問には思わなかったのか。ただの人間が時空を操る力を、魂を簒奪する力を、そして誕生した地が地獄に程近い場所であったことを」
マリアンヌは問いかけの答えを瞬時に悟った。
「まさか」
「そう。私たちが彼を作った。
初めは一世代で製造しようと試したが上手くいかなかった。だがそれはある程度予想されたこと。
次の段階では、通常の生命活動を行わせながら、素材に影響を与え続ける方法を採用して実行した。長い年月をかけ、数世代の後、望んだ力を持つ者を誕生させる。ゲオルギウスの力は偶然の産物などではない」
マリアンヌは奇妙に冷たい汗が流れるのを感じた。
「私たちには地獄から完全に逃れる力はなかった。だが力を保有者の製造することの可能性はあった。
長い年月をかけて待望の能力の保有者を誕生させた私たちは、次に彼の力を我が物としなければならなかった。そのためには精神の間隙を作る必要があった。
しかしゲオルギウスはその能力の影響か、あるいは別の要因か、子供とは思えないほど強靭な精神力を持っていた。実の父親から虐待されてもけして芯の折れない屈強なる心。
もっともその弱点も程なく見つけたが」
天使の微笑の奥底には、目を背けたくなるほどの狂気の悪意が満ちていた。
「人の心は強靭で、同時に脆弱だ。支えが存在する限り決して屈折することのない精神は、しかし支えがなくなると呆気なく折れる。
例えば最愛の母。美しくて優しいお母さん。お母さんがそばにいてくれるなら僕は大丈夫。そういう子供って健気だと思わない」
「まさか、あの子の両親を」
「あらあら、もうわかったなんて、ずいぶん頭のいい子なのね。
そう、力のない人間の精神をある傾向に向けることは容易かった。
父親を暴力的性格に変化させることも、そして母親に、傍にいる必要も理由も。寧ろ離れる理由しかないはずにもかかわらず、暴力を振るう夫の傍に居させ続けることも。
ゲオルギウスの精神が磨耗し、衰弱し、そして壊れるまで。
仕上げに手間取ったけれど、あの女に自分の息子に恐怖を植え付け、殺させるようにした。
そうそう、付近の人間の心も操ったわね。口で言うほど簡単じゃないのよ。助けられるのに見捨てさせたり、ちょっとしたいたずら心を、本当の暴力に発展させるように刺激してあげたり。でも、なかなか面白い遊びだったわ」
こいつら人間じゃない。
マリアンヌは激憤のあまり涙が溢れそうになった。
幼い子供の心を壊すために、彼の両親の心を変えたのだ。
本来なら幸福な時代を送れたはずのゲオルギウスを、絶望的な環境へ置いたのだ。
そんな所業は人間にできるはずがない。
地獄がふさわしい魔物だ。
「死神から聞いたのでしょう。私たちが何者か。どこから来たのか。そう、私たちは地獄から逃れてきた罪人。苦痛に満ちた世界から脱出したもの。そのために労力は惜しまない。我々が逃れられるのならば」
「自業自得でしょう! おまえたちがしたことで地獄に落ちたのです! その報いを受けるべきだわ!」
天使は嘲笑する。
「報い。そんなものが現実に存在すると思っているの?」
それはどういう意味なのか。
マリアンヌの疑問に天使は答えなかった。
「しかし異界通路を形成するのに、ゲオルギウスと同質の力を持つものが必要だと聞かされたときは、さすがに絶望しかけた。
ゲオルギウス一人製造に成功したことでも奇跡に近い。ましてやあれから三百年経過している。もう一度製造するには膨大な時間を必要とする。その間彼らの眼をごまかせることなど不可能だった。
だが再び我らに奇跡がもたらされた。お前だ。我々はそれこそ死に物狂いで探索した結果、お前という存在を発見したのだ。
お前の力は、おまえ自身自覚していないようだが、確かに保有していた。それはもしかすると三百年前に試行錯誤したものの血が世代を経てお前の誕生に重なったためかもしれない。
推測の域を出ないが、とにかく賭けは我々の勝ちだ。この世界を脱出して異界通路を塞ぎ、地獄から完全に断絶する。そうして私たちの脱出劇は終わりだ」
異界通路開通装置が作動された。
異界通路が形成され始め、それは無機質な音ではなく、有機質特有の音であり、マリアンヌには臓物が掻き回されるそれに聞こえた。
なんとかして脱出しなければ、このままでは自分の力の全てを搾取され死に至る。
オットー。
胸中で姿の見えない友人の名を呼ぶ。
呼んだところで返事が返ってくるとは思えなかった。
「さて、もうそろそろお別れだ、王女。お前はきっと天国に迎え入れられるだろう。そして我々は地獄から完全に離脱する。ゲオルギウス、そして王女。二人の力によって異界通路は開かれ、そして我々が向こう側に移動しだい、閉じる」
「魔人だけね。他の亡者は置き去りにして」
「あの者どもは、ただの時間稼ぎだ。我々が別の世界に転移し、地獄から完全に断ち切るための。そしてもう必要ない。
なぜなら、死を完全に逃れることができる。死が追跡してきたのは、地獄間通路が目印となったから。でも、移動した世界には、それがない。我々だけ、少数だけなら、その少なさゆえにやつらは探知することはできない。もう、大量の亡者を引きこんで、私たちの存在を隠蔽する必要はなくなった」
その顔には、必要に迫られたがゆえに行ったのだという苦渋の色はなく、上から見下し傲慢に操りそれを楽しむ暴君の笑みだった。
マリアンヌは理屈を抜きにしても、彼らを認められなかった。
魔物は邪悪な存在だ。
他人を犠牲にして自らの全てを優先させる。
たとえ助けられるものがいたとしても、見捨てることの快楽を選択する。
地獄にいるのがふさわしい。
もう一度地獄に送り返してやりたいが、現在の状況では枷を外し自由を得ることもできない。
天使の姿をした魔物がマリアンヌに背を向けると、先ほどまでまったく気づかなかった肉で形成された隔壁に、手を当たる。
肉の壁は蠕動し、紛い物の天使が通過できるほどの穴が開かれた。
天使は背中越しに視線を送る。
これから誰かが哀れで惨めに死ぬのが楽しくて仕方がないという風に。
「さようなら。王女殿下」
天使は隔壁の向こう側へ姿を消し、開かれた穴が閉じた。
それはさながら処刑室の断絶の扉のように。
だがマリアンヌは絶望に溺れなかった。
この程度の絶望など、ゲオルギウスが受けたものに比べれば、それこそ匙一杯程度の少なさ。
考えろ。
マリアンヌは自分に言い聞かせる。
最後のその瞬間まで諦めるな。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説
美しい姉と痩せこけた妹
サイコちゃん
ファンタジー
若き公爵は虐待を受けた姉妹を引き取ることにした。やがて訪れたのは美しい姉と痩せこけた妹だった。姉が夢中でケーキを食べる中、妹はそれがケーキだと分からない。姉がドレスのプレゼントに喜ぶ中、妹はそれがドレスだと分からない。公爵はあまりに差のある姉妹に疑念を抱いた――
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
【完結】【勇者】の称号が無かった美少年は王宮を追放されたのでのんびり異世界を謳歌する
雪雪ノ雪
ファンタジー
ある日、突然学校にいた人全員が【勇者】として召喚された。
その召喚に巻き込まれた少年柊茜は、1人だけ【勇者】の称号がなかった。
代わりにあったのは【ラグナロク】という【固有exスキル】。
それを見た柊茜は
「あー....このスキルのせいで【勇者】の称号がなかったのかー。まぁ、ス・ラ・イ・厶・に【勇者】って称号とか合わないからなぁ…」
【勇者】の称号が無かった柊茜は、王宮を追放されてしまう。
追放されてしまった柊茜は、特に慌てる事もなくのんびり異世界を謳歌する..........たぶん…....
主人公は男の娘です 基本主人公が自分を表す時は「私」と表現します
レベルが上がらずパーティから捨てられましたが、実は成長曲線が「勇者」でした
桐山じゃろ
ファンタジー
同い年の幼馴染で作ったパーティの中で、ラウトだけがレベル10から上がらなくなってしまった。パーティリーダーのセルパンはラウトに頼り切っている現状に気づかないまま、レベルが低いという理由だけでラウトをパーティから追放する。しかしその後、仲間のひとりはラウトについてきてくれたし、弱い魔物を倒しただけでレベルが上がり始めた。やがてラウトは精霊に寵愛されし最強の勇者となる。一方でラウトを捨てた元仲間たちは自業自得によるざまぁに遭ったりします。※小説家になろう、カクヨムにも同じものを公開しています。
幼なじみ三人が勇者に魅了されちゃって寝盗られるんだけど数年後勇者が死んで正気に戻った幼なじみ達がめちゃくちゃ後悔する話
妄想屋さん
ファンタジー
『元彼?冗談でしょ?僕はもうあんなのもうどうでもいいよ!』
『ええ、アタシはあなたに愛して欲しい。あんなゴミもう知らないわ!』
『ええ!そうですとも!だから早く私にも――』
大切な三人の仲間を勇者に〈魅了〉で奪い取られて絶望した主人公と、〈魅了〉から解放されて今までの自分たちの行いに絶望するヒロイン達の話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる