毒蜘蛛は可憐な蝶を欲する

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運命の出会い

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 その出会いにより、イヴァーノは変わることが出来た。しかし同時に更なる異常性も目を覚ましてしまったのである。

 イヴァーノ・タンマーロ・ディ・ボルジアは、アリティー王国の名家、ボルジア公爵家の次男として生まれた。
 イヴァーノは幼少期から感情の起伏が少なくほとんど無表情であった。おまけに、自己中心的で他人の感情や利益には全くの無関心。目の前で誰かが大怪我しようとも放置して本を読んでいたり、他人の悲しみに全く共感出来なかったり。しかし、両親にそれを注意されてからは他人のことも考えられるようにはなった。しかしイヴァーノの本心としては、やはり他人のことなどどうでもいいといった感じだ。ただ、これが幸いなのかは分からないが、イヴァーノは他人が自分に求めていることを察知する能力に長けていた。それゆえに、少し成長すれば周囲が望むような振る舞いを覚えた。よってイヴァーノは両親や大人達から、優秀な子だと言われるようになっていた。

 そして、イヴァーノが九歳の時。
 イヴァーノの父でボルジア公爵家当主のレミージョが、近隣の領地の領主やその家族を招いて交流会を開催した時のことだった。
 トゥルシ侯爵家の者達がイヴァーノ達ボルジア公爵家に挨拶に来た。
 トゥルシ侯爵領はボルジア公爵領と隣接している。

 トゥルシ侯爵家当主アブラーモ、侯爵夫人ルーチェ、そして長男レアンドロの挨拶が終わり、次は隣にいたレアンドロの妹の挨拶である。
「トゥルシ侯爵家長女、セラフィーナ・ルーチェ・ディ・トゥルシと申します」
 イヴァーノと同じ九歳ながら、見事なカーテシーと淑女の笑みである。
 絹糸のようなアッシュブロンドの真っ直ぐ伸びた長い髪、ラピスラズリのような青い目。蝶のように可憐で、どこか儚げな印象の少女だ。

 イヴァーノはセラフィーナを一目見た瞬間、理屈では説明出来ない感情が心の奥底から一気に湧き上がった。
 それは一般的に一目惚れと言われるものであるが、彼の場合もっとドロドロとした感情であった。
(セラフィーナ嬢……彼女が……欲しい……! 欲しくてたまらない……! 彼女を僕だけのものにしたい……!)
 強烈な欲望であり、イヴァーノが持つ毒は自身を支配した。
 イヴァーノはセラフィーナから目を離すことが出来なかった。その視線はまるで獲物を狙う蜘蛛のようである。

「初めまして、セラフィーナ嬢。俺はヴァスコ。ヴァスコ・レミージョ・ディ・ボルジア。よろしく頼む」
 イヴァーノより二つ年上の兄ヴァスコが先に自己紹介をする。ヴァスコは明らかにセラフィーナに見惚れていた。
「そしてこっちが俺の弟のイヴァーノだ」
 ヴァスコに勝手に紹介されて少し面白くなかったが、態度には出さないイヴァーノ。彼は朗らかでな笑みになる。
「ボルジア公爵家次男、イヴァーノ・タンマーロ・ディ・ボルジアです。トゥルシ侯爵家の皆様にお会い出来て光栄です」
 ブロンドの髪にペリドットのような緑の目。そして普段の家族や使用人達の反応から、自身が容姿に恵まれていることを自覚しているイヴァーノ。彼にとって初対面の相手に好印象を与えることなど造作もないことであった。
 セラフィーナの父アブラーモ、母ルーチェも、イヴァーノの挨拶を見て彼の両親に、「しっかりしたご子息ですこと」と感心していた。
 セラフィーナの二つ上の兄レアンドロも「君は年下だけど、とても頼り甲斐がありそうだ」と微笑んでいた。
 そして肝心のセラフィーナはというと……。
「こちらこそ、ボルジア公爵家の皆様にお会い出来て光栄でございますわ」
 女神のような笑みを皆に向けていた。
 その笑みがイヴァーノだけに向けられていなかったことは不満だった。しかしその笑みがイヴァーノの心を満たし、更なる欲を生み出していた。

 その後、大人は大人同士、子供は子供同士で交流を開始した。
 最初はイヴァーノ、セラフィーナ、ヴァスコ、レアンドロの四人で会話をしていたが、レアンドロが他家の令嬢に呼ばれた。レアンドロもセラフィーナと同じ絹糸のようなアッシュブロンドのサラサラとした髪にラピスラズリのような青い目である。見目麗しく有力貴族であるトゥルシ侯爵家の次期当主ということで、他の令嬢達が放っておかないようだ。
 レアンドロが抜けた後、ヴァスコはひたすらセラフィーナに話しかける。
「セラフィーナ嬢は演劇には興味あるか? ボルジア公爵家が贔屓にしてる劇団の公演があるんだが、一緒にどうだ?」
「まあ、演劇でございますか。どのような演目でしょうか?」
「今話題になっているもので……」
 イヴァーノはセラフィーナに話しかける兄のヴァスコを内心面白くなさそうに見ていた。しかし、ヴァスコの必死さが滑稽にも見えた。
(兄上、分かりやす過ぎる)
 イヴァーノはヴァスコがセラフィーナを一目見て好意を持ったことに気付いていた。
(だけど、兄上なんかにセラフィーナ嬢を絶対に渡してなるものか……。愚鈍な兄上何かに……)
 イヴァーノの中に、ドロドロとどす黒い感情が渦巻いていた。

 ヴァスコはイヴァーノと同じくブロンドの髪にペリドットのような緑の目である。整った顔立ちではあるが、イヴァーノ程ではない。
 イヴァーノはヴァスコと共に教育を受けているが、実は兄であるヴァスコよりも弟であるイヴァーノの方が優秀なのだ。イヴァーノは家庭教師や大人達が求めていることがすぐに分かり、彼らが望むような行動をしていた。
 ヴァスコは弟の方が優秀であることに対し、少しプライドが傷付いてはいたが、それ以上に悪知恵が働いた。家庭教師から出された課題を押し付けていた。
 イヴァーノはそのことについて全く何も思わなかったが、セラフィーナに出会ってからヴァスコに対してどす黒く醜い感情が生まれたのだ。

 しばらくすると、ヴァスコも他の令嬢から声を掛けられ、そちらへ行くのであった。ボルジア公爵家の次期当主という肩書きは、令嬢達には魅力的に見えるらしい。
 イヴァーノはようやくセラフィーナと二人きりになれたことで、心を落ち着かせることが出来た。
「セラフィーナ嬢は、演劇がお好きなのですね」
 イヴァーノは先程までドロドロとどす黒い感情だったのが嘘のように、ペリドットの目を優しく細め、物腰柔らかい笑みを浮かべている。
「はい。小説を読むこととは違った面白さがございますわ」
 嬉しそうに微笑むセラフィーナ。やはり女神のような笑みである。
 イヴァーノはようやく自分だけに向けられたその笑みに心を満たされた。まるで干ばつ地帯にようやく雨が降ったかのような感覚である。
「イヴァーノ様は、演劇に興味はございますか?」
「演劇ですか……。正直、あまり興味はなかったですが、セラフィーナ嬢がお好きなら、僕も見てみようと思います」
「まあ、嬉しいですわ。あまり自分とは縁遠いことでも、手を伸ばしてみたら新たな発見がございます。ですから、必ずしも無駄にはなりませんわ。わたくしも、新たな発見が出来るように、興味のない分野の本も読んでおりますの」
 セラフィーナのラピスラズリの目がキラキラと輝いていた。
 イヴァーノは穏やかな笑みを浮かべる。
 正直、興味のないことには時間を使いたくないイヴァーノ。しかし、そこにセラフィーナが絡んでくるなら興味のないことに手を伸ばすのも良いかもしれないと思ったのである。
「確かに、セラフィーナ嬢の仰る通りですね。ところでセラフィーナ嬢、僕達は同い年ですよ。折角なので、もっと気軽な話し方にしませんか?」
 イヴァーノはそう提案した。するとセラフィーナはクスッと笑い頷く。
「左様でございますわね。イヴァーノ様は……どうお呼びしたら良いでしょうか?」
 セラフィーナはうーん、と首を傾げている。
「様などの敬称を付けず、普通にイヴァーノとお呼びください。僕も、セラフィーナとお呼びします」
 フッと口角を上げるイヴァーノ。
「……イヴァーノ」
 恐る恐るそう呼ぶセラフィーナ。イヴァーノは思わず頬が緩む。何か心地良いものに吸い込まれていくような感覚になった。
「セラフィーナ」
 イヴァーノは優しくそう呼んだ。
 そして二人は顔を合わせて思わず笑ってしまう。
「まだ慣れないよね、セラフィーナ」
「ええ、イヴァーノ。何だか可笑しいわ」
 ひとしきりクスクスと笑い合う二人。
 イヴァーノの心はどんどん満たされていた。
 その時、セラフィーナのドレスにバッタが飛んで来た。
「きゃっ」
 セラフィーナは驚いて軽く悲鳴を上げる。
「バッタか……」
 イヴァーノはセラフィーナのドレスからひょいとバッタを取る。
「ありがとう、イヴァーノ」
 セラフィーナはホッとした表情である。
「セラフィーナ、バッタが苦手なの?」
 バッタを摘んだまま首を傾げるイヴァーノ。
「ええ、バッタというより、虫全般が苦手なの。蝶なら大丈夫なのだけど……」
 セラフィーナは困ったように苦笑した。
「そうなんだね……」
 イヴァーノの中に、再びドロドロとどす黒い感情が生まれる。
(こいつはセラフィーナに恐怖を与えた……許せない……)
 イヴァーノは黙ってバッタを冷たい目で睨んでいた。そして何とバッタの足を一本引きちぎった。それを見たセラフィーナは驚愕してラピスラズリの目を大きく見開く。
「イヴァーノ……何をしているの……!?」
「何って……このバッタがセラフィーナに恐怖を与えたのだから、それ相応の報いを受けさせないと」
 イヴァーノはきょとんとしていた。まるで悪いことをしている自覚がないようである。いや、実際悪いことをしている自覚は全くなかった。
「駄目よイヴァーノ。お願いだからそんなことはしないで。バッタだって生きているのよ。可哀想だわ」
 涙目のセラフィーナである。
 その涙は水晶のように美しいと、イヴァーノは感じていた。
「イヴァーノがわたくしの為にしてくれたのは分かるけれど、そんなことはもう二度としないで。お願いよ」
 涙目で懇願するセラフィーナ。
「……分かった。君が望むのならもうしないよ」
 イヴァーノは観念したようにバッタを離した。
 バッタは弱々しく逃げて行く。
「イヴァーノ、あんなことは本当にもうしては駄目よ。お願い」
 セラフィーナは涙でラピスラズリの目を潤ませながらイヴァーノの手を弱々しく握る。
「うん、もう二度としないと神に誓うよ。怖がらせてごめんね、セラフィーナ」
 イヴァーノはそっとハンカチでセラフィーナの涙を拭う。ペリドットの目は真っ直ぐセラフィーナのラピスラズリの目を見ていた。
「ええ」
 セラフィーナはイヴァーノの真剣さを感じ取り、安心したように頷いた。
 それからは再び女神のような笑みをイヴァーノに向けるセラフィーナ。イヴァーノはそれに対して少しだけホッとした。
(なるほど……。セラフィーナの為だと思ってやったけれど、彼女は報復を必要としていなかったのか……)
 イヴァーノはセラフィーナと話しながらそう考えていた。

 しばらくすると、セラフィーナの兄レアンドロがやって来た。どうやらセラフィーナと話がしたい令嬢がいるらしく、彼女と引き合わせるつもりだ。
「イヴァーノ、またお話しましょうね」
 セラフィーナは女神のような笑みで、イヴァーノにそう言った。そして兄に連れられて令嬢の元へ向かうのであった。
 イヴァーノはセラフィーナの後ろ姿をずっと見つめていた。
 その後、イヴァーノも他の令嬢達に話し掛けられ、当たり障りのない対応をした。しかし、イヴァーノの心を占めるのはセラフィーナのことのみ。他の令嬢達などどうでもよかった。
そして一人になった時、ふと足元を見ると、足が一本ないバッタが弱々しく動いていた。セラフィーナのドレスに止まったバッタである。
 ドロドロとしたどす黒い感情が再びイヴァーノの中に生まれる。
(セラフィーナは報復を望まないけれど……)
 バッタに向けられるクリソベリルの目は仄暗く、絶対零度よりも冷たかった。
「虫の分際でセラフィーナに恐怖を与えやがって」
 グシャリとイヴァーノはバッタを踏み付けたのであった。

 セラフィーナと出会ったことで、少しだけ良心を身につけた。しかし、イヴァーノの中にある、毒のように残酷な本性も目を覚ましてしまったのである。
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