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一粒に確定する優先順位 鳩池久吾編 その8
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「長谷川知恵を呼び出した女は誰だ」
「加賀美朱里です」
視界が、ぐるりと回った。
梓馬はなぜここで、その名前が出てくるのかわからなかった。混乱していく頭は防衛本能に飲み込まれ、逆に松本花を呼び出したのが大橋久美だった、と考え始める。それほど、事実と想像はかけ離れていた。
松本花を呼び出したのは、朱里で間違いない。そして長谷川知恵を呼び出したのも、加賀美朱里で間違いない。もし間違っていることがあるとすれば、それは前提だ。
梓馬は無意識のうちに、自分の心を守る推測を立てていた。大橋久美と松本花の認識の矛盾を解消するために、ぎりぎり許せる範囲でルートを作成してしまっていた。朱里が完全な悪だと思いたくなかったからだ。
アイマスクで状況が把握できない鳩池は、続きを話し始めた。告白することで自分の罪が、相対的に緩和されると思っていた。
「クラブで儀式をやるとき、用意する男と女は、だいたい新人メンバーがどうにかして連れてくるんです」
口調にやや興奮の色が入る。鳩池の脳内では、楽しい思い出として保存されているからだ。
もちろん梓馬はここで、質問にだけ答えろなどと言わない。動悸を消すことに勤めながら、真実を誘うために餌を撒く。心はいまだに朱里の免罪符を探していた。
「へえ……、面白そうな、話だ」
興味がありそうな声色で相槌を打つ。口調の乱れは自分でもわかっていたが、狙いは成功した。鳩池は生唾を飲み込んむ。それは目の前の犯罪者の本質を、同じアンダーグラウンドの人間と認識しているからだ。
「こちらとしては、泣き寝入りしてくれるのが一番なんです。でもそういうのを見つけてくるの結構難しいんですよ」
「ああ、そう、なんだよな……」
梓馬はここでも、無理をして同調の相槌を打つ。すると鳩池の雰囲気は、さらに明るくなっていった。
「それで後輩の女が、さっき言った加賀美朱里っていう女なんですけど、こいつが男と女を連れてくるのが上手いんですよ」
「ほう、すごい女だ……」
「俺らがどれだけ無茶やっても、ほぼ全員泣き寝入りします」
鳩池の一人称が、私から俺に変わってしまう。この速さは梓馬にも驚きだったが、これは鳩池がこれまで学んだ処世術の一つだ。
共通の話題を見つけた瞬間こそ、口調をフランクにするタイミングだ。お互いのこれまでの経験が重なる時間は、誰もが協調性に幻を見る。付き合い始めの人間と早く打ち解けるには、これが最も効果的だと知っていた。
梓馬もそれを察して便乗していく。協調性に奥歯がすり減らされそうになりながら。
「信じられん手腕だな。その女はなにか特別な方法を使っていたのか?」
鳩池は喉を鳴らした。とっておきの答えを口にする。
「外部生の、無理してうちの学校来てる奴らばっかり狙うんですよ」
「そいつは賢いな……」
知っている顔が脳裏に浮かぶ。沙月を帰らせておいて本当によかったと思う反面、底知れぬ恐ろしさに襲われる。古い家の軋む音が、自分の心の音のようだった。
「確かに賢かったですね。後輩のくせに敬語も使わない生意気な女でしたけど」
「その加賀美朱里という女は、なんのためにそんなことをしていたんだ?」
「さあ? まあ単に面白いからじゃないですか」
鳩池の口ぶりには、他者への攻撃は娯楽だという認識が含まれていた。壊れた人間の発想だ。人間とは共感性の生き物で、他者の破壊にはストレスを感じる。程度にもよるが、リンチとレイプを楽しめる人間はそうそういない。
「面白いからか。まあ、わからんでもない、な」
梓馬は照れ臭そうな相槌で、鳩池に偽の共感を与えた。
質問と相槌の組み合わせは、鳩池のように表舞台に立ちたがる人間には、恐ろしいほどの効果を発揮する。それはときに、麻薬と称されるほどに。
こうしてアッパー系の興奮を刺激された鳩池は、より強い興奮を得るために、訊かれてもいないことまで話し出した。
「生意気な後輩でしたけど、実際すごく助かりましたよ。進路とかに興味ないからリターンも求められないし、勝手に獲物たくさん連れてくるしで。だから頭のネジが飛んでる奴だと思ってたら、長谷川知恵の飛び降りでおかしくなって、頭の病院いっちゃったんですよ」
「意外に、繊細だな……」
「俺もそう思いました。それでその後輩、入院中に自分まで自殺しちゃって、未遂でしたけどね」
鳩池はさも面白い話の一つのように語った。
これは加賀美朱里の話で、梓馬もそれは理解している。だがまったく現実感がなく、まるで他人の話を聞いているようだった。自分の知っている朱里と、鳩池の語る加賀美朱里の人物像があまりにかけ離れていたからだ。
「相当変わってるな……」
どうにか絞り出した声でそう言うと、鳩池は乾いた唇をしめらせてから続きを話した。
「ま、結局そのあとトラックに轢かれて死んじゃうんですけどね。良いおま〇こが減ったなあって、さすがにそのときは俺も喪に服しときました」
渾身のギャグ、鳩池は空気を読んで狙いすましたつもりだった。そのために暗闇の向こうから聞こえる梓馬の震え声を、笑いを我慢していると勘違いした。
実際の梓馬は、意志を超えた生理反応に首を絞められていた。とうとう朱里の女性器の具合について、鳩池が具体的に語ったからだ。
わかっていたことだった。そんなものは朱里が妊娠していたと聞いたときから、わかりきっていることだった。だがいまこうして言葉にされて、自分の知らない朱里を押し付けられて、目の前に浮かぶのは地獄への門だった。誰のために用意されたのかはわからない。この場にいる誰にでもくぐる権利があった。
梓馬は強張った喉をどうにか落ち着かせようと必死だった。だが痙攣は横隔膜まで達しており、自分のコントロールが及ばないことは明白だった。
「そんなに、良い、おま〇こ、だったのか……」
「最高でしたね。俺らその後輩を加賀美って呼んでたんですけど、本当に具合が良いおま〇こだったんで、加賀美もちって称賛しましたもん」
梓馬は使われる一人称が、複数形になったことに気付いた。しかしそれを指摘する気になれなかった。怖かったからだ。
「普段から、その女と、やってたのか」
「いやいやいや、人を地獄に落とすのが趣味みたいな女だったんで、俺らとパコることはなかったんですよ。でも本当つい最近なんですけど、久しぶりに連絡とってきて、学閥で一番偉い人を紹介してくれって。びっくりしましたね、話し方も丁寧になってるし、まるで別人みたいでした」
鳩池はさらに話を進めようとしていたが、梓馬はそれを止める。
「学閥で、一番偉い人を?」
「ああ、はい。OBの偉い人を紹介してくれってパターンは、だいたい政治絡みなんですよ。でも加賀美はそうじゃなかったみたいで。知り合いはハイブラのヴィンテージマニアだって言ってましたけど、俺の見たところだと多分、不動産目的でしたね、あれは」
ここで鳩池の語る朱里が、とうとう梓馬の知っている朱里に重なり始めた。ハイブランドのヴィンテージ品は、確かに朱里も所持していた。そしてなにより引っ掛かったのは、不動産をほしがっていたということだ。
そうだ、確かに朱里はよく物件のチラシを眺めていた――
梓馬の脳裏に、不動産屋の前を通る際の朱里の視線が蘇る。てっきり、自分と暮らすための物件を探していると思い込んでいた。
梓馬は相槌すら打てなくなっていたが、鳩池はさらに語りを続ける。
「じゃあヤリマ〇かと思うじゃないですか。でも処女だったんですよ。俺、OBはタダじゃ紹介できないって言ってやって。どうしても味見したくなっちゃったんですね。そしたらすぐでしたよ。あっさり股開きました」
実感がとうとう現実を追いついてしまった。いつの間にか、涙が流れている。あの朱里がやはり処女で、そして股を自分から開いたということを、これ以上なく現実的に想像できてしまった。
人の悲しみを理解できない鳩池は、いよいよとばかりに声の調子を上げていく。
「俺そのとき後輩らと一緒だったんで、全部で十人くらいだったかなあ」
「そうか、楽しかったか……?」
「最初は痛いの我慢してる感じでしたね。でも途中からおま〇この上のほう突いてやったら、すげえ喘ぎだして。処女なのに自分から腰振りだしたんですよ。それでもう俺らも興奮しちゃって、加賀美は、避妊はしてくださいお願いしますって」
鳩池はここで朱里の口調を真似した。笑いを誘うためにやったのだが、反応がないとわかると、さらに声を大きくしていく。
「そんなの興奮するに決まってるじゃないですか。だから俺ら加賀美を無理やり押さえつけて、もう全員で中出ししまくったんですよ。泣くかと思ったら、けろっとしてるんです。頭おかしいでしょ」
「ああ、信じられない話だ……」
「それで加賀美、おま〇こから精子垂れ流しながら、約束どおりOB紹介してくださいって。すごい堂々としてるのが逆に頭おかしくて。ちなみにそのあと妊娠したらしいんですけど、誰の子かわかんねえよって言っ――」
実はこの話は、ここがオチではない。鳩池が一番自信を持っていた部分は、誰の子かを特定する方法だった。
生まれてきた子供の容姿と、膣内射精をしたメンバーの容姿を照らし合わせる。それで一番似ていた者が、責任を取って父親だと名乗るという内容だ。
それを最後まで言えなかったのは、梓馬の拳が鳩池の左耳の裏を殴打していたからだ。視界がない状態でいきなり受けた衝撃に、鳩池は自分になにが起きているかわからなかった。喉を行き来する空気の往復は、とても悲鳴だとは表現できない。
怒りに任せて狙いを外した梓馬は、そのまま勢いで鳩池を押し倒した。そして拳を顔面に何度も叩き込む。逃れようと暴れる鳩池をものともせず、一発ずつを慎重に打ち落としていく。頬骨、鼻、目、それらを潰そうと、憎しみをぶつけ続けていた。
朱里が数々の人間を地獄に誘い込んでいたこと、自ら処女を差し出したこと、父親が誰か特定できないほど大勢の男に膣内射精されていたこと。どれか一つでも存在してはいけない事実で、そしてすべてが本当のことだった。
梓馬はもう思考から言語がなくなっており、ただ自分の大事なものが奪われたという認識だけがあった。そのために耳の外の悲鳴が、どちらの声かわからなくなっていた。それは被害者のものであり、同時に加害者のものでもあった。
殴っても、殴っても、憎しみは晴れない。長く痛めつけるために練った計画だったが、いま梓馬にあるのは焦りを帯びた殺意だ。
すぐに包丁を挿入したい、命を崩してしまいたい。熱い欲求が、殺意から客観性を排除していく。冷静なのかそうでないのか、梓馬はゆっくりと立ち上がって鳩池から離れると、バッグから包丁を取り出した。
鳩池は呼吸が激しく、腹部が慌ただしく上下している。それは厚手のコートの上からでもわかった。
梓馬は手にした包丁を見る。挿入への欲望は、前戯を必要としていない。剥き出しの先端が光っていた。
俺はいまから人間を殺す――
そう唱えると、ひどい眩暈が襲ってきた。室内の風景が、自分の後方へと流れていく。手が震えていると意識したとき、全身がすでに震えていたことに気付く。それで梓馬はこんなときに、母親の顔を思い出した。
「おかあ、さん……」
口にすると、無性に会いたくなっていく。
「お母さん……」
二度と顔を見たくないと、何度も思ったはずだった。それなのに、いまどうしても伝えたい言葉があった。
「ぼく悪い子だったよ……」
自分が捕まれば、母親は泣くだろう。それが本心かどうかはともかく、梓馬は心のなかで母親に好きだと言ってから、いままでありがとうと告げた。
自慢の息子だって思ってほしかったんだ――
後悔もまた、自分の後方へと流れていく。あらゆる過去が過ぎ去って、心の果てに進んでいく。そうして梓馬は、未来を閉じる決意を終えた。
ぴたりと震えが止まった。プログラムされたかのように、一人称視点で自分の体が歩き出している。一歩、また一歩と間合いが縮まっていく。そしていま殺人の一線を越えようというとき、その暗闇のなかで、自分と鳩池以外に動いているものがあった。
「お前、なんでここにいる……」
「させないよ。それ、こっちに渡してよ」
沙月はそう言うと、鳩池と梓馬の間にすっと立ち入った。変装一式はすべてない。白金の髪色が月明りに照らされて、暗がりのなかでも輝いている。目の前にいるのは、見間違いようもなく五十嵐沙月だった。
沙月は正面に梓馬を捉え、背後に鳩池を置いていた。この位置関係がなにを意味しているかは明白だ。対立する相手に、背中を向ける者はいない。
沙月の燃えるような目が、梓馬を睨みつけていた。
「加賀美朱里です」
視界が、ぐるりと回った。
梓馬はなぜここで、その名前が出てくるのかわからなかった。混乱していく頭は防衛本能に飲み込まれ、逆に松本花を呼び出したのが大橋久美だった、と考え始める。それほど、事実と想像はかけ離れていた。
松本花を呼び出したのは、朱里で間違いない。そして長谷川知恵を呼び出したのも、加賀美朱里で間違いない。もし間違っていることがあるとすれば、それは前提だ。
梓馬は無意識のうちに、自分の心を守る推測を立てていた。大橋久美と松本花の認識の矛盾を解消するために、ぎりぎり許せる範囲でルートを作成してしまっていた。朱里が完全な悪だと思いたくなかったからだ。
アイマスクで状況が把握できない鳩池は、続きを話し始めた。告白することで自分の罪が、相対的に緩和されると思っていた。
「クラブで儀式をやるとき、用意する男と女は、だいたい新人メンバーがどうにかして連れてくるんです」
口調にやや興奮の色が入る。鳩池の脳内では、楽しい思い出として保存されているからだ。
もちろん梓馬はここで、質問にだけ答えろなどと言わない。動悸を消すことに勤めながら、真実を誘うために餌を撒く。心はいまだに朱里の免罪符を探していた。
「へえ……、面白そうな、話だ」
興味がありそうな声色で相槌を打つ。口調の乱れは自分でもわかっていたが、狙いは成功した。鳩池は生唾を飲み込んむ。それは目の前の犯罪者の本質を、同じアンダーグラウンドの人間と認識しているからだ。
「こちらとしては、泣き寝入りしてくれるのが一番なんです。でもそういうのを見つけてくるの結構難しいんですよ」
「ああ、そう、なんだよな……」
梓馬はここでも、無理をして同調の相槌を打つ。すると鳩池の雰囲気は、さらに明るくなっていった。
「それで後輩の女が、さっき言った加賀美朱里っていう女なんですけど、こいつが男と女を連れてくるのが上手いんですよ」
「ほう、すごい女だ……」
「俺らがどれだけ無茶やっても、ほぼ全員泣き寝入りします」
鳩池の一人称が、私から俺に変わってしまう。この速さは梓馬にも驚きだったが、これは鳩池がこれまで学んだ処世術の一つだ。
共通の話題を見つけた瞬間こそ、口調をフランクにするタイミングだ。お互いのこれまでの経験が重なる時間は、誰もが協調性に幻を見る。付き合い始めの人間と早く打ち解けるには、これが最も効果的だと知っていた。
梓馬もそれを察して便乗していく。協調性に奥歯がすり減らされそうになりながら。
「信じられん手腕だな。その女はなにか特別な方法を使っていたのか?」
鳩池は喉を鳴らした。とっておきの答えを口にする。
「外部生の、無理してうちの学校来てる奴らばっかり狙うんですよ」
「そいつは賢いな……」
知っている顔が脳裏に浮かぶ。沙月を帰らせておいて本当によかったと思う反面、底知れぬ恐ろしさに襲われる。古い家の軋む音が、自分の心の音のようだった。
「確かに賢かったですね。後輩のくせに敬語も使わない生意気な女でしたけど」
「その加賀美朱里という女は、なんのためにそんなことをしていたんだ?」
「さあ? まあ単に面白いからじゃないですか」
鳩池の口ぶりには、他者への攻撃は娯楽だという認識が含まれていた。壊れた人間の発想だ。人間とは共感性の生き物で、他者の破壊にはストレスを感じる。程度にもよるが、リンチとレイプを楽しめる人間はそうそういない。
「面白いからか。まあ、わからんでもない、な」
梓馬は照れ臭そうな相槌で、鳩池に偽の共感を与えた。
質問と相槌の組み合わせは、鳩池のように表舞台に立ちたがる人間には、恐ろしいほどの効果を発揮する。それはときに、麻薬と称されるほどに。
こうしてアッパー系の興奮を刺激された鳩池は、より強い興奮を得るために、訊かれてもいないことまで話し出した。
「生意気な後輩でしたけど、実際すごく助かりましたよ。進路とかに興味ないからリターンも求められないし、勝手に獲物たくさん連れてくるしで。だから頭のネジが飛んでる奴だと思ってたら、長谷川知恵の飛び降りでおかしくなって、頭の病院いっちゃったんですよ」
「意外に、繊細だな……」
「俺もそう思いました。それでその後輩、入院中に自分まで自殺しちゃって、未遂でしたけどね」
鳩池はさも面白い話の一つのように語った。
これは加賀美朱里の話で、梓馬もそれは理解している。だがまったく現実感がなく、まるで他人の話を聞いているようだった。自分の知っている朱里と、鳩池の語る加賀美朱里の人物像があまりにかけ離れていたからだ。
「相当変わってるな……」
どうにか絞り出した声でそう言うと、鳩池は乾いた唇をしめらせてから続きを話した。
「ま、結局そのあとトラックに轢かれて死んじゃうんですけどね。良いおま〇こが減ったなあって、さすがにそのときは俺も喪に服しときました」
渾身のギャグ、鳩池は空気を読んで狙いすましたつもりだった。そのために暗闇の向こうから聞こえる梓馬の震え声を、笑いを我慢していると勘違いした。
実際の梓馬は、意志を超えた生理反応に首を絞められていた。とうとう朱里の女性器の具合について、鳩池が具体的に語ったからだ。
わかっていたことだった。そんなものは朱里が妊娠していたと聞いたときから、わかりきっていることだった。だがいまこうして言葉にされて、自分の知らない朱里を押し付けられて、目の前に浮かぶのは地獄への門だった。誰のために用意されたのかはわからない。この場にいる誰にでもくぐる権利があった。
梓馬は強張った喉をどうにか落ち着かせようと必死だった。だが痙攣は横隔膜まで達しており、自分のコントロールが及ばないことは明白だった。
「そんなに、良い、おま〇こ、だったのか……」
「最高でしたね。俺らその後輩を加賀美って呼んでたんですけど、本当に具合が良いおま〇こだったんで、加賀美もちって称賛しましたもん」
梓馬は使われる一人称が、複数形になったことに気付いた。しかしそれを指摘する気になれなかった。怖かったからだ。
「普段から、その女と、やってたのか」
「いやいやいや、人を地獄に落とすのが趣味みたいな女だったんで、俺らとパコることはなかったんですよ。でも本当つい最近なんですけど、久しぶりに連絡とってきて、学閥で一番偉い人を紹介してくれって。びっくりしましたね、話し方も丁寧になってるし、まるで別人みたいでした」
鳩池はさらに話を進めようとしていたが、梓馬はそれを止める。
「学閥で、一番偉い人を?」
「ああ、はい。OBの偉い人を紹介してくれってパターンは、だいたい政治絡みなんですよ。でも加賀美はそうじゃなかったみたいで。知り合いはハイブラのヴィンテージマニアだって言ってましたけど、俺の見たところだと多分、不動産目的でしたね、あれは」
ここで鳩池の語る朱里が、とうとう梓馬の知っている朱里に重なり始めた。ハイブランドのヴィンテージ品は、確かに朱里も所持していた。そしてなにより引っ掛かったのは、不動産をほしがっていたということだ。
そうだ、確かに朱里はよく物件のチラシを眺めていた――
梓馬の脳裏に、不動産屋の前を通る際の朱里の視線が蘇る。てっきり、自分と暮らすための物件を探していると思い込んでいた。
梓馬は相槌すら打てなくなっていたが、鳩池はさらに語りを続ける。
「じゃあヤリマ〇かと思うじゃないですか。でも処女だったんですよ。俺、OBはタダじゃ紹介できないって言ってやって。どうしても味見したくなっちゃったんですね。そしたらすぐでしたよ。あっさり股開きました」
実感がとうとう現実を追いついてしまった。いつの間にか、涙が流れている。あの朱里がやはり処女で、そして股を自分から開いたということを、これ以上なく現実的に想像できてしまった。
人の悲しみを理解できない鳩池は、いよいよとばかりに声の調子を上げていく。
「俺そのとき後輩らと一緒だったんで、全部で十人くらいだったかなあ」
「そうか、楽しかったか……?」
「最初は痛いの我慢してる感じでしたね。でも途中からおま〇この上のほう突いてやったら、すげえ喘ぎだして。処女なのに自分から腰振りだしたんですよ。それでもう俺らも興奮しちゃって、加賀美は、避妊はしてくださいお願いしますって」
鳩池はここで朱里の口調を真似した。笑いを誘うためにやったのだが、反応がないとわかると、さらに声を大きくしていく。
「そんなの興奮するに決まってるじゃないですか。だから俺ら加賀美を無理やり押さえつけて、もう全員で中出ししまくったんですよ。泣くかと思ったら、けろっとしてるんです。頭おかしいでしょ」
「ああ、信じられない話だ……」
「それで加賀美、おま〇こから精子垂れ流しながら、約束どおりOB紹介してくださいって。すごい堂々としてるのが逆に頭おかしくて。ちなみにそのあと妊娠したらしいんですけど、誰の子かわかんねえよって言っ――」
実はこの話は、ここがオチではない。鳩池が一番自信を持っていた部分は、誰の子かを特定する方法だった。
生まれてきた子供の容姿と、膣内射精をしたメンバーの容姿を照らし合わせる。それで一番似ていた者が、責任を取って父親だと名乗るという内容だ。
それを最後まで言えなかったのは、梓馬の拳が鳩池の左耳の裏を殴打していたからだ。視界がない状態でいきなり受けた衝撃に、鳩池は自分になにが起きているかわからなかった。喉を行き来する空気の往復は、とても悲鳴だとは表現できない。
怒りに任せて狙いを外した梓馬は、そのまま勢いで鳩池を押し倒した。そして拳を顔面に何度も叩き込む。逃れようと暴れる鳩池をものともせず、一発ずつを慎重に打ち落としていく。頬骨、鼻、目、それらを潰そうと、憎しみをぶつけ続けていた。
朱里が数々の人間を地獄に誘い込んでいたこと、自ら処女を差し出したこと、父親が誰か特定できないほど大勢の男に膣内射精されていたこと。どれか一つでも存在してはいけない事実で、そしてすべてが本当のことだった。
梓馬はもう思考から言語がなくなっており、ただ自分の大事なものが奪われたという認識だけがあった。そのために耳の外の悲鳴が、どちらの声かわからなくなっていた。それは被害者のものであり、同時に加害者のものでもあった。
殴っても、殴っても、憎しみは晴れない。長く痛めつけるために練った計画だったが、いま梓馬にあるのは焦りを帯びた殺意だ。
すぐに包丁を挿入したい、命を崩してしまいたい。熱い欲求が、殺意から客観性を排除していく。冷静なのかそうでないのか、梓馬はゆっくりと立ち上がって鳩池から離れると、バッグから包丁を取り出した。
鳩池は呼吸が激しく、腹部が慌ただしく上下している。それは厚手のコートの上からでもわかった。
梓馬は手にした包丁を見る。挿入への欲望は、前戯を必要としていない。剥き出しの先端が光っていた。
俺はいまから人間を殺す――
そう唱えると、ひどい眩暈が襲ってきた。室内の風景が、自分の後方へと流れていく。手が震えていると意識したとき、全身がすでに震えていたことに気付く。それで梓馬はこんなときに、母親の顔を思い出した。
「おかあ、さん……」
口にすると、無性に会いたくなっていく。
「お母さん……」
二度と顔を見たくないと、何度も思ったはずだった。それなのに、いまどうしても伝えたい言葉があった。
「ぼく悪い子だったよ……」
自分が捕まれば、母親は泣くだろう。それが本心かどうかはともかく、梓馬は心のなかで母親に好きだと言ってから、いままでありがとうと告げた。
自慢の息子だって思ってほしかったんだ――
後悔もまた、自分の後方へと流れていく。あらゆる過去が過ぎ去って、心の果てに進んでいく。そうして梓馬は、未来を閉じる決意を終えた。
ぴたりと震えが止まった。プログラムされたかのように、一人称視点で自分の体が歩き出している。一歩、また一歩と間合いが縮まっていく。そしていま殺人の一線を越えようというとき、その暗闇のなかで、自分と鳩池以外に動いているものがあった。
「お前、なんでここにいる……」
「させないよ。それ、こっちに渡してよ」
沙月はそう言うと、鳩池と梓馬の間にすっと立ち入った。変装一式はすべてない。白金の髪色が月明りに照らされて、暗がりのなかでも輝いている。目の前にいるのは、見間違いようもなく五十嵐沙月だった。
沙月は正面に梓馬を捉え、背後に鳩池を置いていた。この位置関係がなにを意味しているかは明白だ。対立する相手に、背中を向ける者はいない。
沙月の燃えるような目が、梓馬を睨みつけていた。
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