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従僕とメイドの一幕(エイナル視点)
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「エイナルぅううう!」
洗面台で顔を洗い、水を飲みながら酔いを冷ましていると、シャンタルがすごい勢いで部屋に乗り込んできた。彼女は鼻息も荒くずかずかと足音を立てこちらに近づいて来ると、俺の胸ぐらを女とは思えない力で掴む。
「お嬢様になにをしてんのぉおおお!」
そして鼓膜が破れそうな大声で、雄叫びを上げた。
「なに、と言われてもな」
……お嬢様にしたことの記憶は、恐ろしいことにきっちりとある。
俺は酒には弱いが――記憶は残るタイプなのだ。
だから先ほどから自分の失態に頭を悩ませ、それ以上に体に残ったお嬢様の魅惑の感触に、感情を揺さぶられていた。
どこもかしこもすべすべで、柔らかく、いい匂いがした。
「具体的に言うと。お嬢様の髪に十回、指先に五回、頬に十五回、唇に十二回、口づけを……」
俺が言い終わる前に、頬にシャンタルからの鋭い張り手が飛んでくる。それをまともに受けて、俺は数歩たたらを踏んだ。頬がびりびりして感触がない。この女はどれだけ遠慮がないんだ。
「――痛い」
「なんでいきなり、段階をすっ飛ばしてんのぉ!」
「……俺だって、動揺しているんだ」
痛む頬を擦りながら、俺は少しだけ唇を尖らせる。
――お嬢様に、触れてしまった。少年の頃から憧れていた……あの存在に。
利発で、愛らしくて、令嬢らしからぬ大口を開けて楽しそうに笑い、美味しそうによく食べ、知らないことを知るたびに目を輝かせる。自分には魅力がないと思い込んでいる、愛らしい俺のお嬢様。
お嬢様の感触を思い返すと、また触れたいという不埒な気持ちが湧き上がる。
今までは影にように寄り添い、そのお姿を観察することだけで満たされていたのに。
寝癖がついたお嬢様、油断をして大あくびをするお嬢様、爪を見ながらぼんやりと過ごしているお嬢様……お嬢様はどんなことをしていても最高に素敵だ。
観察したお嬢様の行動は、すべて分厚いノートに書き溜めてある。ちなみにそのノートは、千と二冊目だ。
そしてそれを一日の終わりに部屋で眺めるというささやかな幸福だけで、俺は本当に満足していたのだ。
だけどまさか……観察の先にある行為があんなに甘美だったなんて。
「……ねぇ、エイナル」
「なんだ、シャンタル」
冷めた声音で声をかけられ、俺はびくりと背筋を震わせる。
こちらを見つめるシャンタルの目は……体が震えるほどに冷たい色をしていた。
「それで。いつ、正体を明かすの?」
「……いつか、必ず」
「そのいつかって、いつなのかしらぁ?」
シャンタルは目と眉をつり上げ俺を睨みつける。
しかし、そんなに急かされても困る。
今まで見つめる以上のことなんて、一切考えていなかったのだ。
関係を急速に変えろと言われても――俺には対応が難しい。
「三年後くらいに……」
「バカなの? あんたはぁ!」
怒りの咆哮とともに繰り出されたシャンタルの飛び蹴りが思い切り腹に入り、俺は腹を抱えて膝をついた。痛い。容赦がないのか、この女は。
「シャンタル。俺はお嬢様に想いを寄せてもう十年以上になるが……」
俺は痛みに呻きながら声を発する。
「うん、気持ち悪い。あんたお嬢様と六つも離れてるでしょう」
シャンタルの虫を見るような目と蔑む声音を無視して、俺は話を続けた。
「……しかし不埒なことを考えたのは、今夜が本当にはじめてだったんだ」
「それはそれで、男として気持ち悪い!」
俺がなにを言っても、シャンタルは否定から入るな。それは人としてどうかと思う。
今日より前にも――自分からお嬢様に触れてしまったことがある。
泣いているお嬢様を慰めるために、俺はその頭を撫でてしまったのだ。
今より小さなお嬢様の柔らかな髪。あの時の感触はいまだにこの手が覚えている。
けれどあの時は喜びよりも……美しいものを汚したような気持ちの方が大きかった。
「見つめるだけで満足だと、本当に思っていたんだ」
「……お嬢様の縁談やらを、あんたはいくつ潰したっけ」
「十だったかな。いや、十二か?」
きっぱり言うと、シャンタルにまた頬を張られた。解せぬ。
あの男たちはお嬢様にふさわしくなかった。だから縁談やらを潰しただけのことなのに。
「見つめるだけで本当に満足なら、お嬢様の縁談や恋路の邪魔をしないの! それができないのなら、お嬢様を娶る努力をしろぉ!」
シャンタルはそう言って俺を睨みつけると、のしのしと部屋を出て行った。
「……娶る」
その現実感の薄い言葉を繰り返して、俺は眉間に皺を寄せた。
洗面台で顔を洗い、水を飲みながら酔いを冷ましていると、シャンタルがすごい勢いで部屋に乗り込んできた。彼女は鼻息も荒くずかずかと足音を立てこちらに近づいて来ると、俺の胸ぐらを女とは思えない力で掴む。
「お嬢様になにをしてんのぉおおお!」
そして鼓膜が破れそうな大声で、雄叫びを上げた。
「なに、と言われてもな」
……お嬢様にしたことの記憶は、恐ろしいことにきっちりとある。
俺は酒には弱いが――記憶は残るタイプなのだ。
だから先ほどから自分の失態に頭を悩ませ、それ以上に体に残ったお嬢様の魅惑の感触に、感情を揺さぶられていた。
どこもかしこもすべすべで、柔らかく、いい匂いがした。
「具体的に言うと。お嬢様の髪に十回、指先に五回、頬に十五回、唇に十二回、口づけを……」
俺が言い終わる前に、頬にシャンタルからの鋭い張り手が飛んでくる。それをまともに受けて、俺は数歩たたらを踏んだ。頬がびりびりして感触がない。この女はどれだけ遠慮がないんだ。
「――痛い」
「なんでいきなり、段階をすっ飛ばしてんのぉ!」
「……俺だって、動揺しているんだ」
痛む頬を擦りながら、俺は少しだけ唇を尖らせる。
――お嬢様に、触れてしまった。少年の頃から憧れていた……あの存在に。
利発で、愛らしくて、令嬢らしからぬ大口を開けて楽しそうに笑い、美味しそうによく食べ、知らないことを知るたびに目を輝かせる。自分には魅力がないと思い込んでいる、愛らしい俺のお嬢様。
お嬢様の感触を思い返すと、また触れたいという不埒な気持ちが湧き上がる。
今までは影にように寄り添い、そのお姿を観察することだけで満たされていたのに。
寝癖がついたお嬢様、油断をして大あくびをするお嬢様、爪を見ながらぼんやりと過ごしているお嬢様……お嬢様はどんなことをしていても最高に素敵だ。
観察したお嬢様の行動は、すべて分厚いノートに書き溜めてある。ちなみにそのノートは、千と二冊目だ。
そしてそれを一日の終わりに部屋で眺めるというささやかな幸福だけで、俺は本当に満足していたのだ。
だけどまさか……観察の先にある行為があんなに甘美だったなんて。
「……ねぇ、エイナル」
「なんだ、シャンタル」
冷めた声音で声をかけられ、俺はびくりと背筋を震わせる。
こちらを見つめるシャンタルの目は……体が震えるほどに冷たい色をしていた。
「それで。いつ、正体を明かすの?」
「……いつか、必ず」
「そのいつかって、いつなのかしらぁ?」
シャンタルは目と眉をつり上げ俺を睨みつける。
しかし、そんなに急かされても困る。
今まで見つめる以上のことなんて、一切考えていなかったのだ。
関係を急速に変えろと言われても――俺には対応が難しい。
「三年後くらいに……」
「バカなの? あんたはぁ!」
怒りの咆哮とともに繰り出されたシャンタルの飛び蹴りが思い切り腹に入り、俺は腹を抱えて膝をついた。痛い。容赦がないのか、この女は。
「シャンタル。俺はお嬢様に想いを寄せてもう十年以上になるが……」
俺は痛みに呻きながら声を発する。
「うん、気持ち悪い。あんたお嬢様と六つも離れてるでしょう」
シャンタルの虫を見るような目と蔑む声音を無視して、俺は話を続けた。
「……しかし不埒なことを考えたのは、今夜が本当にはじめてだったんだ」
「それはそれで、男として気持ち悪い!」
俺がなにを言っても、シャンタルは否定から入るな。それは人としてどうかと思う。
今日より前にも――自分からお嬢様に触れてしまったことがある。
泣いているお嬢様を慰めるために、俺はその頭を撫でてしまったのだ。
今より小さなお嬢様の柔らかな髪。あの時の感触はいまだにこの手が覚えている。
けれどあの時は喜びよりも……美しいものを汚したような気持ちの方が大きかった。
「見つめるだけで満足だと、本当に思っていたんだ」
「……お嬢様の縁談やらを、あんたはいくつ潰したっけ」
「十だったかな。いや、十二か?」
きっぱり言うと、シャンタルにまた頬を張られた。解せぬ。
あの男たちはお嬢様にふさわしくなかった。だから縁談やらを潰しただけのことなのに。
「見つめるだけで本当に満足なら、お嬢様の縁談や恋路の邪魔をしないの! それができないのなら、お嬢様を娶る努力をしろぉ!」
シャンタルはそう言って俺を睨みつけると、のしのしと部屋を出て行った。
「……娶る」
その現実感の薄い言葉を繰り返して、俺は眉間に皺を寄せた。
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