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お兄様の防御力が高くて乙女ゲームが始まらない・1

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 わたくしが前世の記憶に目覚めたのは柔らかな陽光が降り注ぐ五歳の春の日。
 自邸の庭園にテーブルを用意しお兄様のお膝の上で抱っこをされつつ紅茶を嗜んでいる時だった。
 日本という国で前世は暮らしていたのね。へぇ、十八で死んだんだ。
 薄い膜を張ったような前世の記憶が、現在の記憶と徐々に融合していくのをわたくしはどこか他人事のように感じていた。
 その前世の記憶に、意識が触れるまでは。

 (――あれ、わたくし、前世で大好きだった乙女ゲームの悪役令嬢と同じ名前じゃない?)

 前世で大いにはまっていた乙女ゲーム『胡蝶の恋』。
 ビアンカ・シュラットはそのゲームに登場する、バッドエンドフラグが乱立する悪役令嬢の名前だ。
 そして現世の……わたくしの名前。

 (いや、待ってよ。まだ同姓同名ってだけの可能性もあるわ……)

 お目目をぐるぐるさせ冷や汗を垂らしながら、前世のゲームの記憶を掘り起こす。
 住んでいる国の名前、我がシュラット侯爵家の国での立ち位置、将来婚約者になる王太子の名前……それらは全てゲーム中のものと重なり合う。

「わたくし髪を整えたいのだけど……鏡はあるかしら?」

 更なる確証を得ようと、側にいたメイドに思わず無機質になってしまう声でそう言うと彼女は慌てた挙動で邸まで戻り、五歳の子供でも持てるサイズの手鏡を持ってきた。
 それを手渡そうとする時、メイドの手が震えていたのは見間違いではないだろう。
『胡蝶の恋』のゲーム中のわたくしは、傍若無人、傲岸不遜、我儘放題の最低最悪なご令嬢だった。
 ……そしてそれは現在進行形である。
 彼女は、わたくしの機嫌を損ねるのが恐ろしいのだ。
 それは今は置いておいて……。
 わたくしはメイドからもらった鏡を急いで覗き込んだ。そこに映っていたのは……。

 さらさらと繊細な動きで流れ、輝く美しい銀色の髪、白く透きとおるような肌。湖面の色の澄んだ大きな瞳は、険のある性格を反映したかのようにきゅっとつり上がっている。その顔立ちは幼女であるのにも関わらず、すでに驚く程に美しい。
 ――現世の記憶ははっきりあるからそうだろうな……と、わかってはいたけれど。
 改めて見てもこのお顔は間違いなく、ゲームの悪役令嬢ビアンカ・シュラットね。
 わたくし……乙女ゲームの世界に異世界転生しちゃったの!? しかも悪役で!!?
 冷たい汗が大量に背中を伝い、体が激しく震えだし、わたくしは鏡を地面に落としてしまった。

(ゲームの展開のままだと……。自分の執事にボコボコにされて娼館に落とされたり、婚約者の王子に国外追放されたり、サポートキャラに毒殺されたり、騎士見習いに斬り殺されたりするのよね……!?)

 そう、わたくしの未来は。
 ほとんどの攻略キャラのルートでヒロインと攻略対象の恋のスパイスとしての役割を果たした後に、残酷な最期を迎えてしまうのだ。

「ビアンカ、さっきからどうしたの。気分が悪そうだよ?」

 そういえばお兄様のお膝の上にいたのだわ。
 お兄様は優しく、背後からわたくしの頭をなでた。

「僕の天使。こっちを向いて?」

 砂糖を蜂蜜で煮詰めたかのような甘い声音でそう言われ、器用にくるり、とお膝の上で体勢を変えられてお兄様と向い合せに座らされる。

 視界が一気に、甘やかな美貌に囚われた。

 アルフォンス・シュラット。わたくしの実のお兄様。
 シュラット侯爵家の長男であり、悪役令嬢を甘く甘くどろっどろになるまで甘やかす、現在十歳の少年である。
 父様に似てきつい顔立ちのわたくしと違い、お兄様は二年前に亡くなったお母様似の柔らかな印象の美形だ。
 優しく揺れる少しウェーブがかかった金色の髪。新緑のような爽やかな色合いを湛える緑の瞳。
 高い鼻梁、ふわりと優しい曲線を描いて膨らんだ奇麗な色の唇。
 白い頬は少年らしく丸みを帯びているけれど、そのうちに引き締まったものになるのだろう。
 童話の王子様のような際立った美貌は存在するだけで数々の女性の目を引く、美しいわたくしのお兄様。

 ちなみに彼は、攻略対象ではない。
 もう一度繰り返す、お兄様は攻略対象ではないのだ。
 つまりはわたくしの死亡、およびバッドエンドフラグを保有していない。
 そして……妹にどろっどろに甘い。
 わたくしの言うことなら、それこそどんな突拍子のないことでも信じてくれるかもしれない。

「おっ……お兄様!!! 大切なお話がございます、人払いを、人払いをしてくださいませ!!」
「ふふっ、どうしたのビアンカ。人払い? 難しい言葉を知ってるんだね。賢いなぁ、さすが僕のビアンカ。本当にすごいよ! 可愛い上に賢いなんてまさに天使だね!」

 五歳らしからぬ言葉選びをしてしまったらしいわたくしにお兄様は明るい笑顔で賛辞の言葉を並べ立てる。
 ああああ……スリスリと激しく頬ずりまでされて話が全く進まないわ! こうなったら……!

「お兄様。大好きなお兄様と二人っきりに、ビアンカはなりたいですわ」

 我ながらあざといと思うのだけれど。
 お兄様の頬に軽くキスをしてから上目遣いで見上げ、懇願するように両手を前で組み、お兄様を見つめながらそう言ってみた。
 せっかく現世は美幼女なのだ。外見のアドバンテージを今使わないでいつ使うの!

「皆、下がっていいから」

 ――お兄様の対応は、迅速だった。
 お兄様に命令されたメイドや侍従達は洗練された動作でこの場を離れて行く。
 ……まぁ、つかず離れずな距離にはいるのだろうけど。会話が聞こえなければ問題ない。

「ビアンカ、僕と二人きりになってなにをするの? 愛の告白でもしてくれるのかな?」
「お兄様、愛しておりますわ。それは置いておいて話がありますの」

 お兄様の妹を五年もやっていれば、多少の塩対応をしないと話が進まないのは分かっている。

「……ああ。ビアンカ、僕も愛しているよ」

 渾身の塩対応はお兄様には通じず、『愛している』の部分だけ都合よく切り取られてしまった。
 お兄様はうっとりとした表情で微笑みながら、わたくしの頬を白く長い美しい指でなでた。
 その感触に思わずわたくしが身を震わせると、彼はとても嬉しそうに笑いながら首筋にまで指を這わせる。
 ……実兄がなんだかえっちです。

「お兄様、イエスロリータ! ノータッチ! でございますわよ」
「ビアンカ、また難しい言葉を言って……本当に、か」
「ストップ!!」

 このままでは本当に話が進まない。
 わたくしは『可愛い』と言おうとしたのだろうお兄様のお口を、慌てて手のひらで塞いだ。

「わたくしの、命の危険に関わるお話なのです。ちゃんと聞いてくださいませ、お兄様」

 必死の形相でそう言うと、お兄様は目を丸くした後に真剣な面持ちで頷いた。
 わたくしはこれから起きるであろう未来のことを『予知夢』でみたという体でお兄様に語った。
 前世の記憶に関しては、とりあえずは伏せている。
 お兄様は、必死に語るわたくしの話を驚いた素振りは見せつつも黙ってちゃんと聞いてくれた。
 頭がおかしくなった、なんて思われないかと心配だったけれど……。
 それはそれで『心の病』ということで乙女ゲームの舞台となる学園への通学をしなくてもよいかもしれない、なんてそんな打算も内心あった。
 父様もわたくしにとても甘いので、娘を施設へやるなんてこともないだろうし。

「ビアンカ。君の辛い未来に関わる人物の名前を、覚えているだけ書いてもらってもいいかな?」

 わたくしの話を聞き終わったお兄様はそう言うと、軽く手を挙げてメイドを呼んだ。
 話が聞こえないところに控えていたメイドがすぐさまこちらへとやって来て、お兄様からの指示を聞くと素早く紙と鉛筆を持って戻ってきた。
 わたくしはメイドから紙と鉛筆を受け取り、何度も繰り返しプレイした乙女ゲームの登場人物達の名前をよどみなく書き連ねていく。
 それをお兄様は真剣な面差しで見つめ、少し息を吐いた。

「……ビアンカが知りようがない、実在の家名ばかりだね」

 そしてそう小さく呟く。そう、わたくしはまだ五歳なのだ。
 この国の王子のことはともかく、その他の登場人物の家名に関してはシュラット侯爵家に頻繁に来るような知人でもない限りまだ知りようがない。
 そしてわたくしが挙げたのはシュラット侯爵家に縁の薄い家名ばかりだった。
 ……中には遠くの島国の王子の名前まで含まれている。
 それをスラスラと出したことによって、お兄様の中で話の信憑性はかなり上がったようだった。

「えっと……その方々にいつ出会うのか、も思い出せるだけ書いてくれるかな?」

 お兄様に言われわたくしは彼らの名前の横に出会う時期を書き込んだ。
 『いちねんご』とか『がっこう』とか普通の幼女っぽく簡単にだけど。
 ほとんどのキャラクターとは学園に入ってからの出会いだけれど……。
 わたくしの執事になるマクシミリアン・セルバンデス、そしてこの国の王太子であるフィリップ王子は別だ。
 ちなみにマクシミリアンは前世の推しだ……彼とリアルで出会えるのかも、と思うとバッドエンドのことを忘れて少しときめいてしまう。
 とにかく、この二名の攻略対象とはあと一、二年のうちに出会うはずだ。
 マクシミリアンルートではわたくしはボコボコにされて娼館に送られ、フィリップ王子ルートでは国外追放をされることになっている……なんてことだ。
 ヒロインをいじめにいじめ抜いて殺そうとする、ゲーム中のわたくしが明らかに悪いんですけどね。
 前世の記憶を思い出した今は、そんなことをする気は一切ないのだけど。
 人に優しく、が今日からのビアンカ・シュラットの人生のコンセプトだ。
 わたくしバッドエンドは嫌だもの!

「そうだね。ひとまずこの二人にビアンカを近づけないように、そこから始めようか。ビアンカ、よく話してくれたね……怖かっただろう?」

 そう言ってお兄様はわたくしの頭を優しくなでて、美しい花のような笑顔を浮かべた。
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