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令嬢は覚悟がゆらぐ(ビアンカ視点)

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 今日は、フィリップ王子の様子がおかしい。

 普段は嫌そうに取るわたくしの手を、とても優しく取ってくれた。
 その理由がわからなくて首を傾げながら見上げると穏やかな目と視線がぶつかって。そして彼は優しく笑ってくれた。
 フィリップ王子と正面から目が合うなんて。どうしよう、嬉しい。しかも笑ってくれた! 珊瑚のような美しい色の唇が、わたくしのためだけに微笑みを作るなんて。こんなの奇跡じゃない!
 ……我ながら喜ぶハードルが低いと思ってしまうのだけど、嬉しいものは嬉しいのだ。
 わがままで苛烈だったわたくしは彼からまともに目も合わせてもらえなかった。優しく微笑まれるなんてそんなの夢のまた夢だった。
 そんな奇跡が一度に起きたのだ。浮かれてしまっても仕方ない。
 だけどわたくしの舞い上がる気持ちはファーストダンスの時間が近づくにつれて萎んでいく。
 このダンスが終わったらフィリップ王子はシュミナのところに行ってしまう。
 最後だから行かないでください、なんて言えたらいいのだけれど。そんな勇気はわたくしにはない。
 フィリップ王子に手を取られフロアに進み出る。これが彼と婚約者として過ごす最後の時間だ。五感全てを使って思い出を焼きつけよう。
 わたくしはダンスが苦手なのだけれど彼に迷惑をかけないように必死で踊った。
 フィリップ王子もなにかを感じとっているのかしら。今日はいつもよりリードが丁寧な気がする。そのお陰でくるくると軽快に踊れるのが嬉しくて思わず満面の笑みになってしまった。

「ビアンカ……その」
「どうされましたの? フィリップ王子」

 こちらを見つめるフィリップ王子を見つめ返すと、少し慌てた様子で口ごもってしまった。わたくし、なにか粗相でもしたかしら。今日は足を踏んではいないと思うのだけど……。

「……綺麗だな」

 小さな声でそう言われた気がしたけれど。それはわたくしの願望が聞かせた幻聴なのだろう。フィリップ王子がわたくしにそんなことを言うはずがないもの。
 夢のような時間はすぐに終わってしまって。
 わたくしはいつも通りの壁の華となるべくフロアの端へ移動した。
 すると普段はここで別れを告げるフィリップ王子がなぜか隣にいるままなのだ。

「……?」

 こちらにシュミナがいるのかしら、と思って周囲を見回すけれど彼女の姿はなく。
 首を傾げながら家令が運んできたノンアルコールのカクテルを受け取って口に運ぶ。しゅわしゅわとした泡がダンスで乾いた喉を潤し転がり落ちていくのが心地よくて、わたくしはふっと一息ついた。
 横を見るとやっぱり婚約者様がいらっしゃる。……幻じゃないのね。
 どうして側にいてくれるのだろう。一分でも、一秒でも、長くいてくれると嬉しいのだけど。

「……大丈夫か、ビアンカ」

 フィリップ王子から、わたくしを心配する声がかけられた。
 もう一度言おう、わたくしなんかを心配する声がかけられたのだ。
 訳がわからなくてきょとんとした顔でフィリップ王子を見つめたら、なんだか照れたご様子で目を逸らされてしまった。
 白皙に淡い朱が差し凄絶ともいえる彼の美貌に色を添える。すると得も言われぬ色気が醸し出されてわたくしは思わず見惚れてしまう。
 ……やっぱり綺麗なお顔だなぁ。絶世の美貌ってやつよね。悪役令嬢が夢中になってしまうのも理解できる。
 ゲーム内でフィリップ王子は『婚約者は俺の顔にしか興味がない』なんて言っていたけれど。
 フィリップ王子の才能に溢れているのにも関わらずさらに上を目指し常に努力をしているところや、親友のノエル様といる時はいつもより無邪気に笑うところや、甘い物が意外にお好きで甘味を食べると少しだけ頬がゆるむ可愛らしいところや……彼のお顔以外の部分だってちゃんと好きだったのよ。
 ……悪役令嬢本人になってわたくしも初めて知ったのだけど。
 それをちゃんと口にしたら何かが変わっていたのかしら。
 ――全ては過去のことね。今さら悔いても仕方がないのだ。

「人が沢山で少し疲れているだけですわ。大丈夫です、フィリップ王子」

 わたくしはそう言ってフィリップ王子に微笑んでみせた。するとなぜか……心配そうな彼にそっと手を握られた。
 ダンスが終わったら再び握られることなんてなかった手が、彼の手に包まれている。
 それが嬉しくて……でも、とても悲しかった。

 (……明日、婚約破棄を告げるのに。こんなの決心が鈍ってしまう)

「今日はずっと一緒にいよう」

 フィリップ王子がそんなことを言うから、わたくしの決心はますます鈍りそうになる。
 今日のフィリップ王子は一体どうしたのだろう。いつもとご様子が違い過ぎる。
 これはもしかして明日婚約破棄をするわたくしへの神様からのご褒美なの? それなら遠慮なく享受してしまっていいのかな。
 そんな風に思わず浮かれそうになってしまったけれど……こちらを伺っているピンク髪の令嬢の姿が視界に入って、わたくしは気を引き締め直した。

「でも……シュミナ嬢がいらっしゃってますわ。この後はシュミナ嬢とお過ごしになるのでしょう?」

 ……少し、拗ねたような嫌味な言い方になってしまったかもしれない。だけどこれくらいは許して欲しい。

「ビアンカ、君といる」

 聞き違えじゃなければ、フィリップ王子はきっぱりとそう言った。
 しかも『フィリップ王子』ではなく『フィリップ』と呼んでいいと。そんなことまで言ってくださったのだ。

「フィリップ……様」

 ずっとそうお呼びしたかったのだ。六年間、ずっと。
 感動で声が震え、嬉しさで思わず笑みが零れてしまう。心がふわふわと置きどころが無く落ち着かない。ああ、わたくし浮かれてしまっている。
 気がつくとフィリップ王子の手が頬に触れていて。美しいお顔が、すぐ目の前にあった。

 (なんだか、近い……?)

 疑問を感じている間に、ふわりと唇に柔らかいものが当たる。これはもしかしなくてもフィリップ王子の唇……!? わたくしどうして彼にキスをされているの?
 彼は何度も優しく口づける。理由がわからない口づけにわたくしの脳内は一気に混乱に染まった。
 嫌だ。キスなんてしないで欲しい。貴方を諦められなくなってしまうから。
 明日婚約破棄を告げるのに。
 涙が溢れぽろぽろと頬を流れていく。
 自分が彼に好かれていないことなんてこの六年間で身に沁みてわかっている。
 それなのにこんなことをされると、もしかすると望みがあるのではとそんな浅ましい希望が湧いてしまう。
 希望なんて抱かせないで欲しかった。だって……。

「……悪役令嬢は、どうせ捨てられるのに」

 恨みがましい呟きが思わずぽろりと口から零れた。
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