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御曹司とオタクと婚姻届
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サインをした後、私は放心してしまった。
――だって。
人生の大事なことが……そして予定にすらなかったことが……こんな形で一夜にして決まってしまうなんて思わないじゃない。
肉体を酷使したかのように体からは力には力が入らず、どこを見るでもなく視線をただ前に向けるばかりになってしまう。
栗生さんは機嫌良さげに口元を笑ませながら婚姻届を鞄にしまっており、鼻歌でも歌い出しそうな様子だ。
このテーブルの異様な雰囲気にも顔色を変えないウエイターが、ことりと私の前にデザートを置く。それはとても美味しそうなのに、なかなか食指が動かない。
「わぁ! これで美也ちゃんと夫婦だね」
「そ、そうですね。届けを出しに行ったら……そうなりますね」
「明日、出社前に二人で役所に行こうね。楽しみだなぁ」
……逃さないつもり満々だな。
覚悟を決めてサインをしたからには、逃げる気もないんだけど。
「ところで、今日は上に部屋を取ってるんだけど」
「んぶっ!?」
デザートより先に珈琲をいただくか……と思ったのがいけなかった。口に含んでいた液体を、私は勢いよく吹き出してしまう。この男、今なんて言った!
今時ドラマでも聞かないような台詞を、自分が言われるとは思ってもみなかった。
「栗生さ、いくらなんでも、それはっ」
「美也ちゃん、大丈夫?」
栗生さんは綺麗な瞳の眦を下げながら、私の口元をハンカチで拭う。真っ白なハンカチに珈琲の染みがつくのを、私は申し訳ない気持ちで見守った。
「不埒な気持ちで言ったわけじゃないよ? もっとゆっくり、今後の話をしたいなと思ったから取ってたんだ」
『取ってたんだ』って、あっさり言ってくれるけど。私がサインをすることを確信してたのか、この人は。思わず胡乱げな目で見てしまうと、無垢な笑顔で返される。
――どうにも調子が狂うなぁ。
たぶんこの人は、人の心にするりと入って警戒心を解くのが上手い。そして、解いた結果に生じる諸々の『後始末』にも長けているのだろう。
会社で栗生さんの悪口や誰と軋轢があるなんて話は聞かないし、恋愛もいつでも後腐れなくやっているようだ。技術なのか、天性なのか……
「今後の話……だけですか? それを信用しろと?」
『私なんかに、この人がなにかをするのだろうか』なんてことも、ちょっと思ってしまうけど。
告白をされ、婚姻を迫られた時点で、『そういう目』でこっちを見てるんだろうな……信じがたいことだけれど。とにかく警戒してしかるべきである。
「美也ちゃんの会社を辞めるタイミングのこととか、ご家族への挨拶のこととか。急なことだから、決めなきゃいけないことが多いでしょう? 信用してもらえると、嬉しいんだけど……」
栗生さんはそう言って眉尻を下げる。罪悪感を刺激するその顔は、本当にずるい!
「き、着替えとか持ってないんで……」
「ホテルクリーニングを頼めばいいよ。人を遣って替えを買わせてもいい」
「不埒な気持ちがないと言われても、信用できないですし。よく知らない人と泊まるのはですね」
「僕たち、夫婦になるんだよね。一緒に部屋に寝泊まりするのは、早いか遅いかの問題だよ?」
「……家族が心配するんで……」
「美也ちゃん、一人暮らしでしょう?」
そうだ。この人私のことを調べてたんだった……!
あれよあれよと丸め込まれ、私は栗生さんとエレベーターに乗っていた。
エレベーターはぐんぐんと上階へと上がっていく。
壁面はガラス張りになっていて、美しい夜景が一望できる。それはきらきらと宝石箱みたいに煌めいていて、私はつい目を奪われた。
「部屋から見える景色は、もっと綺麗だよ」
栗生さんは喉の奥で笑いながら言うと、私の髪をさらりと撫でる。
その手つきに背筋が甘く震えたことに、私は気づかないふりをした。
――だって。
人生の大事なことが……そして予定にすらなかったことが……こんな形で一夜にして決まってしまうなんて思わないじゃない。
肉体を酷使したかのように体からは力には力が入らず、どこを見るでもなく視線をただ前に向けるばかりになってしまう。
栗生さんは機嫌良さげに口元を笑ませながら婚姻届を鞄にしまっており、鼻歌でも歌い出しそうな様子だ。
このテーブルの異様な雰囲気にも顔色を変えないウエイターが、ことりと私の前にデザートを置く。それはとても美味しそうなのに、なかなか食指が動かない。
「わぁ! これで美也ちゃんと夫婦だね」
「そ、そうですね。届けを出しに行ったら……そうなりますね」
「明日、出社前に二人で役所に行こうね。楽しみだなぁ」
……逃さないつもり満々だな。
覚悟を決めてサインをしたからには、逃げる気もないんだけど。
「ところで、今日は上に部屋を取ってるんだけど」
「んぶっ!?」
デザートより先に珈琲をいただくか……と思ったのがいけなかった。口に含んでいた液体を、私は勢いよく吹き出してしまう。この男、今なんて言った!
今時ドラマでも聞かないような台詞を、自分が言われるとは思ってもみなかった。
「栗生さ、いくらなんでも、それはっ」
「美也ちゃん、大丈夫?」
栗生さんは綺麗な瞳の眦を下げながら、私の口元をハンカチで拭う。真っ白なハンカチに珈琲の染みがつくのを、私は申し訳ない気持ちで見守った。
「不埒な気持ちで言ったわけじゃないよ? もっとゆっくり、今後の話をしたいなと思ったから取ってたんだ」
『取ってたんだ』って、あっさり言ってくれるけど。私がサインをすることを確信してたのか、この人は。思わず胡乱げな目で見てしまうと、無垢な笑顔で返される。
――どうにも調子が狂うなぁ。
たぶんこの人は、人の心にするりと入って警戒心を解くのが上手い。そして、解いた結果に生じる諸々の『後始末』にも長けているのだろう。
会社で栗生さんの悪口や誰と軋轢があるなんて話は聞かないし、恋愛もいつでも後腐れなくやっているようだ。技術なのか、天性なのか……
「今後の話……だけですか? それを信用しろと?」
『私なんかに、この人がなにかをするのだろうか』なんてことも、ちょっと思ってしまうけど。
告白をされ、婚姻を迫られた時点で、『そういう目』でこっちを見てるんだろうな……信じがたいことだけれど。とにかく警戒してしかるべきである。
「美也ちゃんの会社を辞めるタイミングのこととか、ご家族への挨拶のこととか。急なことだから、決めなきゃいけないことが多いでしょう? 信用してもらえると、嬉しいんだけど……」
栗生さんはそう言って眉尻を下げる。罪悪感を刺激するその顔は、本当にずるい!
「き、着替えとか持ってないんで……」
「ホテルクリーニングを頼めばいいよ。人を遣って替えを買わせてもいい」
「不埒な気持ちがないと言われても、信用できないですし。よく知らない人と泊まるのはですね」
「僕たち、夫婦になるんだよね。一緒に部屋に寝泊まりするのは、早いか遅いかの問題だよ?」
「……家族が心配するんで……」
「美也ちゃん、一人暮らしでしょう?」
そうだ。この人私のことを調べてたんだった……!
あれよあれよと丸め込まれ、私は栗生さんとエレベーターに乗っていた。
エレベーターはぐんぐんと上階へと上がっていく。
壁面はガラス張りになっていて、美しい夜景が一望できる。それはきらきらと宝石箱みたいに煌めいていて、私はつい目を奪われた。
「部屋から見える景色は、もっと綺麗だよ」
栗生さんは喉の奥で笑いながら言うと、私の髪をさらりと撫でる。
その手つきに背筋が甘く震えたことに、私は気づかないふりをした。
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