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御曹司とオタクと婚姻届

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 書類から目を離した私は、ちらりと栗生さんに視線を向ける。彼はウエイターにワインを頼んでいるところで、私の視線に気づくとにこりと笑った。

「妙な性癖とか、ないですよね?」

 こんな踏み込んだ質問をしてしまうんだから、私の心は相当に揺れている。
 それを見透かしたからか、栗生さんは小さな笑い声を綺麗な唇から零した。その口元に添えられた手が意外に男らしくて、それを見ているとなぜだかきまりの悪い心地になる。

「僕の性癖は至ってノーマルだよ。一般男子の性癖の規範に収まっていることは保証する」

『一般男子の性癖』って、どこまでがそうなんだろうなぁ。
 SMとか露出とか、そういうものはとりあえず含まれないと思っていいのかな。……そう信じよう。

「後から『うちの息子とは身分が違うのよ! わきまえなさい!』とかって怖いお姑さんが出てきたり……」
「ないない、うちは放任主義だから。美也ちゃんは想像力が豊かだね」

 ――いや、現実的にありえることだと思うんだけど。
 うちなんて、平均からちょっと下くらいの一般家庭だし。

「結婚してくれる気になった?」

 そっと婚姻届が差し出される。私はそれをじっと見つめた。
 美味しい話だ。このまま流されてまえば、夢の引きこもり生活が待っている。だけど……

「栗生さんは、本当にそれでいいんですか? 私、お金目当てでしかないんですよ。結婚って気持ちの方も大事なんじゃ」

『貴方のお金が目当てです』ってだけで結婚するのって、なんだかおかしくないかな。
 そりゃあ年収を結婚相手の条件の第一位に挙げる人は多いだろう。だけどそういう人たちにしても、最低限の交流を経て、情を感じた結果に結婚するんじゃないだろうか。
 栗生さんは私の言葉を聞いて、ふっと口元を緩めた。

「最初はそれでいいんじゃないかな。気持ちは後から、誠心誠意を尽くしてものにするから」
「うわ。モテる男の余裕ってやつですか」

 すごい台詞だけど、栗生さんだったら実現できてしまいそうなところが腹立たしい。

「……余裕なんてないよ。万が一にでも逃がすのが怖いから、こうやって強硬手段に出てるわけだし。余裕があるなら『お付き合いから』って申し出てる」

 なんだかしおらしいことを言いながら長いまつ毛を伏せる、その仕草が妙に色っぽくてつい見惚れてしまう。

「強硬手段っていう自覚はあったんですね」
「当然。ほら、ワインが来たよ」
「……ありがとうございます」

 口をつけた赤ワインは、深いコクを感じさせる味わいだ。
 これもきっと高いんだろうな。ガチャが何回引けるんだろう。

 その時――私は一つの現実味のある可能性に思い至った。

「まさか。私が了承するか会社の人たちで賭けてるとか!」
「僕は、どれだけ信用がないのかな」

 ――違うのか。
 栗生さんは子供みたいに口を尖らせる。それを見ているとなんだかおかしくなって、くすくす笑ってしまった。
 出だしは最悪な印象だったけれど、会話も少しずつ楽しくなっているような気がする。これが、思うつぼってやつなのかな。
 ぐるぐると悩んでみたけれど、プラスの要素が多すぎる。
 栗生さんの内面がまだ計り知れないという大きなマイナスと比べても、夢の生活の比重は大きいのだ。

「三ヶ月。とりあえず三ヶ月だけ……結婚する、とか。ダメですかね」

 ぐらぐらと秤が揺れて、出た結論はそれだった。

「それって、試用期間ってこと?」
「…………はい」

 引きこもり生活をなんてものを夢見る私は、結局は欲望に弱い。
 ソシャゲ課金し放題! ブルーレイ買い放題! 舞台行き放題! 同人誌買い放題! 漫画買い放題! なんて……そんな生活したいに決まってる!
 だけどよく知らない人にどっぷりと依存してしまうのは、恐ろしいことだ。
 ちょっとお試しをしてから結論を出したい……と私は考えたのだ。

「じゃあとりあえず、三ヶ月ね。延長してもらえるように頑張るから」

 上機嫌な栗生さんに見守られながら、婚姻届にサインをする。
 ――えらいことになってしまった。
 そんなことをしみじみと思いながら。
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