少年避行

永井義孝

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紅茶のクッキー

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 ぼくがあの子に、キスをしようか、と言った日の、少し前。

 ✳︎

 志崎くんが学校を休むと、終礼のあと先生は決まってぼくを呼びつける。億劫に思いながらも、とっととお喋りを始めているクラスメイトたちの合間を縫って、走ったとも歩いたともとれない足取りで教壇の前に出た。

 ぼくに視線を合わせた先生は、銀縁の眼鏡の位置をクイと上にあげながら、片手でプリントを差し出す。来月の遠足について書かれたそれは、先ほどの終礼で配られたものだ。ぼくのプリント入れにも皺ひとつなく入っている。
 先生は「志崎くんにお願いしますね」とだけ言うと、すぐに背筋を伸ばし教壇を降りた。去り際、念を押すようにぼくに微笑みかける。

 そんなこと言われなくても、わかっている。だけども先生はいつも決まってそう言う。
 そして、ぼくが決して断らないと知っているのだ。もしここで「いいや、今日はお願いされません」と答えてみたらどうなるのだろうか。先生は目をまんまるくするか、ぼくを怒鳴りつけるか、どちらにせよ答えを確かめる勇気はぼくに無い。

 自分の机に戻ると、傷ひとつない黒のランドセルからプリント入れを取り出して、先生から手渡されたプリントも入れた。
 そして、鬼ごっこの鬼を決めるジャンケンをしているクラスメイトたちから逃げるように、教室を出た。

 ぼくは鬼ごっこが好きじゃない。
 足がうんと遅いから、最初のジャンケンに勝ってもすぐに鬼が回ってくるし、クラスメイトたちもぼくが鬼になるとつまらなそうに歩き始める。
 ぼくの足が遅くて次の鬼へバトンタッチできないうえに、どんどんどんどん疲れて、どんどんどんどん余計に足が遅くなっていくからだ。
 そのうち誰かが「やり直そう」だの「もう歩こう」だのと提案して、ぼくは惨めな気持ちを隠しながらクラスメイトたちに「ごめんね」と告げる。クラスメイトたちはぼくを見ないようにしながら「まあ、別に」と呟く。そのあとも仲間外れにされたりはしない。代わりに、ぼくが校庭の真ん中で突っ立っていたって、もう二度と、ぼくに鬼の番は来ないのだ。

 ぼくが教室を出て、みんなも安心しているのかもしれない。
 開きっぱなしの廊下の窓から風が吹いて、ぼくはぶるりと震えた。校舎裏の山は紅葉で紅く染まっている。そこから飛んできた葉っぱが、ぼくの足元に静かに落ちた。それを拾って、窓の外に差し出す。どうしてだか指先にくっ付いて離れない。ばたばたと手を動かして、結局、少し強い風と一緒に紅葉の葉っぱは飛んで行った。

 ふわりと浮き上がって、下に落ちて、風の流れる方――ぼくからみて右――に飛んでいく。しばらくは目で追えたが、そのうち山の紅葉に紛れてしまった。瞬きをすれば、もういなくなる。紅葉の葉っぱを追うのを諦め、ぼくはまた。廊下を歩き始めた。

 靴箱のあたりで、教室でジャンケンしていたクラスメイトたちに追い越される。
 鬼ごっこする人こっちにおいで、と教室の真ん中で人差し指を掲げた原田くんが、楽しそうに、ぼくに「また明日」と手を振った。
 ぼくがようやく「また明日」と返す頃にはもう、原田くんは靴箱の前にいなかった。
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