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第四部

第四章

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 純白の大狼。
 その噂は瞬く間に冒険者中に広がった。
 冒険者ギルド側は無言を貫いていたが、遅かれ早かれ発覚は免れないことだった。

 そもそも冒険者ギルドは情報を提供した女性に箝口令を敷いていない。
 冒険者にとっては情報は速度が命であるが、ギルドにとっては信用が命なのである。
 だからギルドはこれらの噂の出がギルドでなければいい、というスタンスなのだ。

「純白の……大狼」

 思わず天を仰ぎたくなる衝動を抑え、頭に手を当てて俺は一つ溜息を吐いた。
 言わずとも、正体が何かすぐわかる。

「キルケちゃん……だよねっ?」

 返事するのも億劫で、俺は無言で頷いた。
 純白の大狼、暗い森、そしてここ数日間キルケがいないこと。
 これらを考え合わせれば自ずと答えが見えてしまう。

「もうっ……! ネーファちゃん、自分の体よりもキルケちゃんを心配してたっていうのにっ」
「でも、ネーファも言ってただろう。キルケは本当に切羽詰まってるような感じだったって」

 キルケが単に魔物の姿に戻ってひと暴れするような、そんな浅慮な頭の持ち主じゃないことは、ほんの数日彼女と会話を交わせばわかる。
 だから、ネーファの言ったようにキルケには並々ならぬ覚悟で何かを成し遂げたかったんじゃないか、そしてこの目撃情報は付随的な偶然によるものなんじゃないか。
 彼女の性格を考えれば自ら目立とうとするはずがないから、そうなのかもしれない。

 キルケらしき狼の目撃情報がある森に向かうことは当然として、気になるのは「純白の大狼が人間たちを食らっていた」という噂だ。
 既に人間の味を覚えてしまったフロラは、それまで空気中に漂う魔力を主な糧にしていたのだが、もはや既に人間の味に魅了されてしまっている。
 となれば、キルケもまた同じ状態になっているのは想像に難くなかった。

 魔物を隷従させ戦力として戦う職業である調教師界隈では、人肉を知る魔物は仲間にしてはならない、あるいは、人肉を覚えさせてはならないというのは常識だ。
 魔物は魔力が枯渇した時、当然餌として魔力を求める。
 もし調教師が魔力の塊である魔核や自らの魔力を分け与えることができず、魔物に充分な魔力を提供できなければ、人肉の味を知った魔物は自らの主である調教師を餌として認めるようになってしまうのだ。

……とはいえ、俺の魔力は無尽蔵だから、俺の場合はいつでも分け与えられるんだが。
 普段は余りまくる魔核で魔力を補充しているから、俺の出番はそうそうない。
 困ったことといえば、フロラにとって俺の魔力は絶品の味という話なのだが、それでも人肉を喰らいたいという魔物としての本能には抗うのは難しい……らしい。

 まあ、と俺は腹を括る。
 別に人の味を覚えてしまったっていいのではないか、と。

 まだ進化する前の貧弱であったフロラを誘拐したレラファという男を思い出す。
 フロラに謎の液体を浴びせ我を失わせたレラファは、自業自得と言うべきかフロラに捕食された。
 俺はそれを見て何も思わなかった……いや、ざまあみろという気持ちはあったし、何より魔物が人間を食らうという自然の摂理のようなものに興奮さえ覚えたのだ。
 猫耳少女が語尾ににゃんにゃん付けるだけの創作物語に価値は無いと以前豪語したが、それと同じである。
 初めて見る魔物が人間を食らうというダイナミックな展開に、俺は一瞬だけ何が起きているかも忘れて、その一部始終を眺めていた。
 その捕食行為を美しいと思える俺も、多分狂っているのだろうな、と人知れず苦笑する。

……救いようのない悪人や罪人なら、別に、ねえ?
 少し同意を求めるように俺は自問自答を繰り返した。

「とはいえ、このまま彼女を放っておけるわけもないし、森へ行かなきゃな」
「キルケちゃんがそのうち戻ってくるんじゃないかな?」
「いや、それはないな」

 ヴェルの言葉に俺は首を横に振った。

 俺がキルケなら、森に留まるだろう。

 森なら彼女が数年間生きてきた領域で、ハーガニーで自分が噂になっているのがわかっているなら、慣れ親しんだ森で姿を隠す方が賢明だ。
 それに、今このタイミングでハーガニーに戻ったとして、それは当然人間の姿であって、彼女の白く長い髪は純白と言えるほど映えてしまう。
 彼女の純白の髪の毛を、大狼と関連付けるような突飛な想像力の持ち主が現れないなんて保証はどこにもないのだ。

 なら、彼女は俺が来るまで待っているのが最善策と言える。
 彼女は知謀の能力に長けるわけではないが、ここでやり方を誤らない程度には賢いと俺は信じている。

 思考の海に漂いながら俺は考えを纏め、今後の指針について結論を下す。
 うん、と俺は頷くと、そのタイミングを見計らったかのように、先程まで聞き手に徹していたフロラが声をあげた。

「キルケ──というのは、宿屋で働いている方のことですわよね? 生憎とわたくしはまだお目にかかれていませんが……。何故そんな方が純白の大狼と結びつくのでしょうか?」

 疑問に首を傾げるフロラだったが、その目は幾ばくか吊り上がっていた。
 先程から話の除け者になってしまっていたことに気づいた時には時既に遅く。
 むすっ、と口を尖らせたフロラの頭に俺は思わず手を伸ばした。
 淡い緑を帯びた彼女の髪は癖毛などなく、さらりと撫でれば指が滞りなく入ってしまう。

「すまない。……昨晩はフロラの美貌に心が惑わされていてね。まるでフロラという名の檻に入れられた猛獣さ。……だから、キルケのことを話しそびれたんだ」

 まあ、よく舌が回る回る。
 自分で言っておきながら、よくこのような気恥ずかしい台詞を吐けるもんだ。
 前世からハーレムチーレムに造詣が深かったから、というのもあるのだろうが、それよりは貴族の子息として育てられてきたから、というのが大きいのだろう。

 貴族の家に生まれたことに感謝しつつフロラを見れば、頬を薄桃色に染めて、でも俺の方を直視しようとはしない。

「まあ……! そのような甘い囁きにはわたくしは騙されませんわよ?」
「……そうだろうな」

 少しは効果はあったみたいだが。

「つまらないジョークはやめて、キルケについて話したいところだが……話の流れでわかると思うが──」
「ええ、到底このような場所では誰が聞き耳を立てているやもしれませんから、それはわたくしも心得ておりますわ」
「すまん。とはいえ、直にわかるはずだ」

 俺の言葉にフロラは頷く。

「つまるところ、わたくしと同類ということですわね?」
「ビンゴ」

 そういうことでしたら仕方ないですわ、とフロラは引き下がる。

「とりあえずっ、暗い森に行こっ?」
「そうだな。ついでに暗い森でのクエストも受注していこう」
「……レン様、純白の大狼が暗い森で出没の情報があった今、調査が済むまで暗い森でのクエストは一旦保留されているのではありませんの?」
「いや、単に薬草採集のクエストを選べばいい。暗い森は薬草の宝庫だから、薬草採集といえば基本的に暗い森で行うことを指す……が。別にハーガニー北東の大森林でも薬草採集は可能だ」

 ハーガニーでは、北東の大森林を「明るい森」、その東に位置する森を「暗い森」と呼んでいる。
 正式名称はあるが、ハーガニーで過ごす間は正式名称を耳にすることは稀であり、現に冒険者ギルドでも一般的な呼称がほとんど公式として用いられている。

 薬草採集とのことだから、低ランクのクエストボードに行けばすぐに見つかるだろう。
 ててて、とヴェルがクエストボードに向かい、すぐに一つの依頼書を手に取った。

「ハイデン草の採集でもやるー?」
「ついでにゴブリンとスライムの討伐も?」
「あははっ、懐かしいねーっ」

 冒険者になって初めて受けたクエストは、ハイデン草採集とゴブリン討伐、スライム討伐のクエストだった。
 あれからまだ一ヶ月ほどしか経っていないはずなのに、もう一年以上経ったような錯覚を覚えた。

「ハイデン草だけでいいだろう。スライム、ゴブリンにまで手を回す暇はなさそうだしな」

 ヴェルから依頼書を受け取って、ギルドカウンターに向かう。
 もはや俺たちの担当受付嬢と化しているレヴィーの姿を認めると、俺はレヴィーの前の列に並んだ。


◆◆◆


「アークラネースからハーガニーまで、貴族の護衛……ですか?」

「ごめんねー。キミたちにしか頼めない依頼でさー……」

 やや失望を隠しきれない尖った俺の言葉に、レヴィーはパン、と両手を合わせた。
 申し訳なさそうに上目遣いで俺を見上げたレヴィーを責め立てるような気は起こらないが、アークラネースの地理を頭に思い浮かべ、俺は舌打ちをしそうになる。

アークラネースといえばハーガニーから南、大海原に臨む湾港都市で、ハーガニーの外港として貿易も盛んである。
 河港都市ハーガニーは大河ハーグの就航点で、河口都市コーデポートとの貿易で栄えた都市であるのに対し、アークラネースはハーガニーから隣国アドロワへ海を通じて交易する中継地として栄えた都市と言えよう。

 まだ訪れたことのないアークラネースには興味が大いにあるのは事実であったが、アークラネースは先ほど述べたようにハーガニーの南に位置し、だがキルケが姿を隠しているのであろう暗い森はハーガニーの北東……つまりほとんど真反対なのだ。
 今はアークラネースという都市そのものを恨みたくもなる気分であった。

「……それは他の冒険者では駄目なのでしょうか?」
「うーん、今回の依頼は貴族の護衛、でしょー? アークラネースとハーガニー間の道程は整備されていて基本的に問題は起こらないんだけどね、かといって貴族の護衛を低ランク冒険者に任せたら、もし不測の事態が起こった時ギルドの責任が問われるだろうし……高ランク冒険者にとってはこの依頼の報酬金は低すぎる……。生憎と多くの中ランク冒険者は大氾濫の残骸の処理に回ってもらってるしで、今頼めるのはキミたちくらいなのよー……」

 むむう、と俺は腕組みする。
 レヴィーの言い分は正しいし、俺が断ればギルドに不信感を与えてしまうのは避けられない。
 キルケと冒険者ギルドどちらが大事かと問われたら、俺は間違いなくキルケを選ぶ。
 しかし、将来世界中を見て回りたいというおのれの夢の実現には、冒険者ギルドとの繋がりというのはどこかで必要になる。

「……わかりました。その依頼、受けます」

 熟考の末にそう呟くと、レヴィーはぱぁっと顔を輝かせて、

「ありがとう! 人手不足でほんとに困ってたのよねー」
「いえいえ。ところで、ご依頼主の貴族"様"というのは……?」

 俺の皮肉を込めた問いにレヴィーは苦笑する。
 意趣返し、というわけではないのだが、少なくとも俺は自分の予定を狂わされたことについて少なからず憤慨していた。

「──フレイザー男爵よ。聞いたことはあるかしら?」
「フレイザー男爵……。この都市にフレイザー家がいらっしゃるのは聞いたことありますが、確かあそこは伯爵家では?」
「フレイザー男爵はフレイザー家の長男で、フレイザー伯爵がお持ちになる男爵の爵位を彼は儀礼称号として名乗っているのよ」
「なるほど」

 この世界では伯爵以上の爵位を持つ貴族、すなわち伯爵、公爵は従属爵位を持つのが普通である。
 従属爵位を持つというのは、フレイザー伯爵を例に挙げると、伯爵という爵位の他に、男爵の爵位をも所持している、という意味である。
 そして、その長男は父親であるフレイザー伯爵の爵位を儀礼称号として借りて名乗れることができる、というわけである。
 もちろん、父親と息子はそれぞれ別の爵位を名乗るのが常識であり、よって今回のご依頼主は自らをフレイザー男爵と称しているのだ。
 そのため、フレイザー男爵は男爵という爵位を持つが、戸籍上は平民と同じである。
 無論だからといって平民同等と扱うことは許されるものではないのだが。

「本名はキース・ラ・フレイザー。確か先月まで王都ヴェリアの視察に向かっていたはずよー」
「詳しいんですね」
「一応彼も貴族の長男だけれど、冒険者ではあるからね。冒険者が長期間都市を離れる際はギルドに連絡することになっているのよ。別の都市に拠点を移す時にも必要だから、説明してなかったけど、キミたちもそうなった時はちゃんと連絡するのよー?」
「はい」

 レヴィーは依頼書に判子を捺印し、その写しを俺は受け取った。
 とりあえず写しを読む限り、すぐにでもアークラネースに向かった方がいいらしい。

「ハーガニーから、アークラネースへの馬車が定期便として出ているわ。その調達はこちらで行っておくから、キミたちは準備しておくこと」

 俺に無理に依頼を受注させたという負い目があるのか、レヴィーさんはそこまでしてくれるようだ。

「ところで──そちらの女性は冒険者志望なのかしら?」

 フロラをレヴィーが見つめる。
 その瞳には興味と、そして強い疑問が浮かんでいる。

 今、フロラは漆黒のドレスを纏っており、到底冒険者には見えない。
 それどころか、質素ながらも決して安物ではないとわかる装飾品が彼女を着飾って、まるでどこぞの貴族のご令嬢にしか見えないのだ。
 冒険者ギルドのような一般人だけでなく荒くれ者も集うこのような場所は、普通の令嬢ならば訪れることすらない。

 ドレスやリボンを織り上げたのは俺なのだが、この俺でさえ余りにもフロラの佇まいは自然すぎて、本当に貴族の令嬢にしか思えないのだから、レヴィーの疑問は簡単に理解出来た。

 ううむ、工房スキルも考えもの、か?
 いや、そうデザインした俺が悪いのだ。
 実際薔薇姫という食人薔薇を統べる立場だったようだしな!

 レヴィーの問いに、フロラは答えようとしない。
 彼女の視線を不躾だと言うように、黙って睨め返している。
 その瞳は暗すぎた。

「ひ、ひっ……」

 ごくり、とレヴィーの唾を飲む音が、周囲の喧騒に紛れることなくはっきりと耳に届いた。

 そういえば、フロラは極度の人間嫌いだったな……。
 人間嫌い? いや、人間そのものを見下して、人間を裏路地にのさばる蜚?梃としか見ていないのだ。
 よく彼女は人間界で生きることを決めたものだ、と、その決意は称賛ものなのだが、だからといってこのままでも良くないのは事実。

「フロラ」

 フロラにしか聞こえないほど小さく囁く。
 びくっ、と一瞬体を震わせたフロラの視線が俺に移った。
 その紅の瞳にはもはや先程までの憎悪はない。

 だが、ここは一つ、厳しく言っておかなければ。
 その薄肌色の耳朶にそっと口を近づける。

 俺についていくと決めたのなら、少なくとも俺が懇意にしてる人たちにはそういうのはやめてくれ、怒気を孕んだ声で俺は囁いた。
 ゾイドのような下衆にはどんな目で見下そうが俺は一向に構わないが、レヴィーは俺が頼りにしている人たちの一人だ。

「……申し訳ございませんわ」

 再びレヴィーに顔を向けたフロラの表情には、先程までの深淵の闇を思わせるような翳りはない。
 まだ表情が強ばっているとはいえ、許容範囲かな、と俺は一人でウンウン頷いた。

「わたくしは確かに冒険者志望……登録はこちらで?」
「え、ええ……」

 レヴィーに緊張が見られるのは、先程フロラから溢れ出した負のオーラというよりは、その口調も相まって彼女がそろそろ本気で令嬢にしか見えなくなったからだろう。
 冒険者登録用の書類にスラスラとペンを走らせ、彼女はレヴィーに手渡した。

(達筆じゃねえか……)

 そもそも昨日まで食人薔薇として森に生きてきた彼女が読み書きできるのが有り得ないことなのだが、どういうわけか彼女の綴る文字もまた流麗で。
 この世界で十年以上生きてきた俺どころか大人も顔負けの文字を見ていると、俺の立つ瀬もなくなるというものだ。

「フローレンスさん、ですねー。こちらがギルドカードになります」

 すっかりいつもの調子を戻したレヴィーは赤銅色のカードを取り出した。

「フローレンスさんはFランク冒険者からスタートとなります。詳しくはレンデリック君から聞いてくださいねー」
「レン様、お願い致しますわ」
「……うん」

 それじゃギルド内のカフェで少し暇を潰そうか、とカウンターに背を向けたところで、不意にレヴィーの言っていた王都ヴェリアの視察という単語に無性に違和感を覚えて俺は振り返った。

「そういえば、視察って──」
「……全く、鋭いわね」

 やれやれ、と肩を竦ませたレヴィーは困ったように俺を眺めた。

「キミが考えているのでアタリだと思うわよ?」
「わざわざ王都まで、探しに行くんですね。……王都までかなり離れているのに。──やはりフレイザー伯爵家は以前ほど──」
「それ以上言うのはよくないわよ。色々想像するのはいいけど、ね。ほら、後ろの人が待っているんだから、この話はこれでおしまい!」

 ちょうど俺の列に新たな人が並んだので、かなり長話したなと思いつつ、軽く会釈してカウンターを離れた。
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