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PART 2
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仮面をつけた観光客が増えている。もうすぐ聖灰の水曜日で、カーニヴァルがクライマックスに向かっているからだ。カトリックのキリスト教徒は、キリストが逮捕され処刑されてから復活するまでの、聖灰の水曜日から始まる四十日間を四旬節と呼び、その期間は肉を断ち節制する。カーニヴァルは四旬節に入る前の、最後の大騒ぎだ。
仮面をつけている間は身分を忘れ、何をしてもいいのだという。首都の本島に比べたらそこまで盛り上がっているわけではないのだが、ミケーレは自分で作った仮面をつけてテオを抱いたことがあった。仮面の上に、随分と長い羽根飾りをつけて。羽根飾りは長ければ長いほど、位の高い人を表すからだ。そんな貴族めいた行いに、昔から彼は憧れていた。他人のふりをして恋人を抱くのはどこか淫靡なよろこびがあって、ミケーレはどこまでも興奮して、欲望を受け止めるテオは呆れたように笑っていた。
見合いの日程が決まった。親同士話がついているのだから、見合いといっても婚約することはもう決まったようなものだろう。
テオは相変わらず、時間があればいつもの教会のそばで座り込んでいる。ミケーレも相変わらずそんなテオをすぐ見つけ出して、その隣に座っていた。
先日見た、大きな帽子を被った黒衣の外国人たちがふと視界に入る。カーニヴァルが終わるまでここにいるつもりだろうか。
ぼんやりと眺めていると、それに気づいたのかそのうちのひとりが近づいてきた。顎髭が目立って年齢不詳だが、四十くらいか。
「やあ」
たどたどしいが、この国の言葉も知っているようだ。テオが軽く挨拶してそれに応える。
「どこから来たの?」
「フランス」
そう言われても、ミケーレには特にその国の知識があるわけでもない。興味津々のテオが、聞きすぎないようにしてくれたらいいと思うだけだ。テオが尋ねた。
「どんなところ?」
「王様の権力が強いところだよ。大きな王宮がある。この島の倍くらいの大きさだ」
「お城がこの島の倍くらいあるってこと?」
「庭も含めてだけどね」
ミケーレも思わずテオと一緒にため息をついた。想像もつかない広さだ。
「たくさんシャンデリアがあるんだろうね」
「もちろん。しっかり夜も照らさなくちゃいけないからね。興味があるかい」
「まあ。僕はガラス職人だから」
「今度、その王宮を増築するんだけれど、王様は腕のいいガラス職人を探しているんだ。君たちは、外国で働くことに興味がある?」
ドキリとした。この男は、この国の法律を知らないのだろうか。
「興味があったら、我々と一緒にフランスに行こう。王宮の仕事があるんだ」
男は重ねて言った。それを聞いて、ミケーレはふと、パオロのことを思い出した。
「まさか、パオロはもしかして、……あなたたちと一緒に?」
そういえばパオロの姿を最近見ない。ミケーレは思わず声をひそめて、男の顔を見た。
「パオロ?」
男たちは顔を見合わせる。
「ああ、あの子か。あの子はジャンに引き抜かれたな。うちじゃない」
「どういうこと?」
「今フランスではみんなで競って優秀なガラス職人を探しているんだ。王様を喜ばせたいからね。我々についてきたら、お給料も、住むところも保証する」
本当だろうか。もちろんヨーロッパ中の貴族がこぞって欲しがる自分たちの技術に自信はあった。共和国がわざわざ国外に行くのを犯罪にするのはそのせいだ。それでも訝しむミケーレに男は微笑んだ。
「もし、君たちも興味があったら、カーニヴァル最終日の正午に、本島の船着場までおいで。待ってるよ」
そう言って男たちは行ってしまう。
この国を出る。
ミケーレはその言葉を胸の奥で繰り返してみた。テオのことが気にかかる。
「まさか、興味持ったりしてないよね?」
言いながら、興味がないわけがないと思う。彼は今までずっと、そんな機会があったらと願っていたのだ。本気で検討しているかどうかだ。
「持っている、って言ったらどうする?」
ミケーレは息を飲んで、顔色を変えた。
「……っ、テオ!」
言いたいことはたくさんあったが、大声で話すべきことではないと考える理性は残っている。誰かの耳に入ったらまずい。
「うちで話そう」
ミケーレは抑えた口調でそう言うと、テオの手を強く引いて一目散に歩き出した。小さな島だから、彼らの家があるガラス職人通りまで徒歩十分ほどだ。
ミケーレは扉を蹴って乱暴に工房に入った。そうして乱暴に手を離す。
「テオ! まさかとは思うけど、本気で行こうと思ったりしてないよね?」
テオが楽しそうに微笑んだ。
「ミケーレが怒ると、日にかざしたカルチェドーニオのようで美しいね」
怒りで頰が赤くなっているのだろう。でも、そんなことを聞きたいんじゃないのに。胸の奥がざわざわとする。
「テオ! ふざけないで」
ミケーレが怒鳴ると、テオは冷えた眼差しを彼に向けた。
「僕がどう考えるかは、僕の自由じゃないの? 僕の人生なんだし」
突き放されたように言われて、ミケーレは悲しくなる。なんでテオには自分がこんなに心配していることがわからないのだろう。テオがそばにいないのも、もしかしたら死んでしまうかもしれないのも、想像するだけでぞっとする。
「でも死刑だよ! そんなことに友達が興味を持ってたら、止めるだろ」
昔からずっと、ずっとテオのそばにいたくていつも探していたのに。テオはいつも、ここではないところを見て、どこかに行こうとする。どこにも行けないはずなのに。
「友達……友達か。ねえ、僕たちは友達なのかな」
テオはその言葉を舌の上でもてあそぶように発音した。友達。
「友達だろう、小さいころから一緒に育って」
「君が結婚しても?」
一瞬、ミケーレは言葉につまった。なぜ、結婚の話が出てくるのか。
「……そうだ、と思う」
「君が奥さんのおかげで貴族になって、僕は旦那様の愛人になって?」
「……仕方ないだろ」
そうだ、それが一番の解決策だ。自分が権力と地位を手に入れたら、何か言う人はいなくなる。富も地位も愛も手に入る、自分たちガラス職人にとっては唯一の、最善の方法だ。
テオはそれのどこが不満なのだろう。
「仕方なくはないよ。僕の人生だもの。僕の勝手だろう。僕が他に恋人を作っても、この国を出ていっても」
「この国を出るかは別問題だろ、犯罪なんだから」
「でも、君には関係のないことだろう。それとも平民だったときの元愛人が犯罪者になったら、体裁が悪い?」
「そういうことじゃなくて! 心配だよ、友達が犯罪者になろうとしているかもしれないんだから」
テオにはなかなか伝わらない。
「おまえは、友達が愛人としての一生を送ることは心配じゃないわけ?」
テオは少し目を伏せて、そんなことを聞いてきた。ミケーレには不思議な気がする。
「それは、……死刑になる犯罪とは違うだろ」
愛人を持つなんて、お金持ちは誰でもやっていることだ。それに、自分たちが離れ離れになるわけでもない。
「おまえは自分が僕の立場であったらと考えたことがあるの? 一生幼なじみの年下の貴族様の愛人で? こんな小さな島じゃあそんなことすぐにみんなに知れ渡るんだよ? 貴族になればミケーレは非難されないだろうけど、異邦人の僕が、この島で忌むべき異端にならないとでも?」
確かに、愛人の立場は強くない。同性だったらなおさらだ。だが他に、同性の恋人を幸せにする方法などミケーレには思いミケーレには思いつかない。
これが、一番の方法なのに。
「テオは、嫌なの? 俺とずっと一緒にいることが?」
ふと思いついた言葉を口にして、ミケーレはドキリとした。今までテオが自分を好きだということを疑ってもこなかった。あまり頻繁ではなかったけれど、好きだと言葉にしてくれることもあったし、時折優しげに自分を見てくる柔らかい眼差しは、大切にされていると思うに十分だった。自分が彼のそばにいたいほどではなかったかもしれないけれど、少なくとも一緒にいたいと思ってはくれていると思っていた。
だけど、それほどではなかったのかもしれない。彼が行きたいここではないどこかに行くことに比べたら、自分の存在なんて。
「いやだ」
テオはそう言った。
ミケーレは言われた言葉で胸にナイフを突き立てられたように苦しくなって、弾かれたように顔を上げてテオを見た。
「僕は嫌だよ。少なくともそんな方法では。僕だけじゃなくて、奥様になる方も嫌だろう。ミケーレも誰かの気持ちを考えてみたら」
誰かの気持ちを考える? ミケーレは言われた言葉を繰り返した。テオのことを考えたから、こうしようと思ったのに?
妻になる人の気持ち? そんなことは考えたことがない。お屋敷と財産を持っていれば、誰でもよかった。でも結婚ってそもそもそういうものだろう?
ミケーレは動揺して、そもそもなぜ自分の結婚の話をしているのか思い出そうとした。
「テオ、俺の結婚の話じゃなかっただろ。外国に行く話だろう?」
テオは悲しそうに言った。
「僕にとっては同じ話だよ。おまえが僕だけのものか、そうでないか。どうして、僕にはおまえに差し出せるものが何もないんだろう」
長いため息が落とされる。こんなときなのに、憂いをおびたテオの表情は美しかった。
テオの指先が自身のシャツの胸元を探って、ミケーレは彼が自分が渡したペンダントをまさぐっていることに気がついた。
「……たぶん、おまえも僕のことを忘れて、奥様を大切にして、たくさん素晴らしいガラスを作って、ちょっとは贅沢もして、おじさんもおばさんも大切にして、みんなの望みどおり国家に貢献するのが一番いいんだ。だから、それには僕がいなくなった方がいい。僕が元々、ここにいたのが間違いなんだ」
そう言って笑ったテオの瞳に、小さなガラスのかけらのようにキラキラとしたものが光っている気がして、ミケーレの胸はぎゅっとつかまれたように苦しくなる。
「テオ、なんでそんなこと言うの」
思わずそう口にしたけれど、ミケーレにもその理由はわかっていた。
ここにいたのが間違いだなんて、子供のころに、周りの人からそんなことを言われて育ったせいだ。かわいそうなテオ。
ミケーレが否定しようとしたそのとき、テオは顔を上げると毅然と言った。
「この話はもう終わり! 少しは自分で考えて」
そう言うとテオは屈み込んでガラスの溶解炉を開ける。仕事に戻るつもりだ。もう話をするつもりはないらしい。
「はよーっす」
ミケーレはなおも言い募ろうとしたが、ちょうどそのとき扉が開いて、シエスタが終わったらしいバルドが工房に戻ってきた。
「バルド」
テオがバルドを呼ぶ。
ふたりは熱で溶けたガラスの両端を持ち、ひねりながら左右に細く長く伸ばしていく。フィリグラーナの芯となるガラス棒の制作過程だが、テオは普段はミケーレとやりたがることが多かった。バルドはまだ慣れていないからだ。
その様子を見ながら、ミケーレは今言われたことを考えていた。どうしてテオが、自分に差し出せるものがないと嘆くのだろう? 必要なものは自分がすべて用意するのに?
「先輩、いくつ作るんですか?」
バルドがテオに尋ねた。
「あ、」
テオは今気づいたように手元のガラス棒を見た。できあがった棒が、山のように積み上がっている。彼はそのうちの何本かをピンサーでつまみ上げ、並べ直して再加熱炉に入れた。
「ごめん、もういいよ。自分の作業に戻って」
「先輩たち、喧嘩でもしたんすか?」
バルドが不思議そうに言った。
テオの横顔にちらりと目をやる。彼は黙々と作業を続けていた。居心地が悪そうなバルドには悪いが、ミケーレにも説明できる話ではなかった。
「ちょっと、用事思い出したから出てくる!」
とても仕事に集中できる気がせず、ミケーレは外出することにした。立ち上がって扉に手をかける。
「えっ先輩?」
バルドはおろおろしている。ああ、カーニヴァルだった。
「カーニヴァルだから、明日から聖灰の水曜日まで休みだからな、バルドは。楽しめ」
「あっはい、ありがとうございますっ」
新人は嬉しそうに頭を下げたが、恋人は振り返らなかった。ミケーレは、勢いよく扉を閉めた。
ミケーレは、工房のすぐ近くの店で酒を飲んでいた。彼にしては珍しく動揺している。わりとどんなことも、朗らかに受け入れてきたつもりだったが、今回ばかりはどうしようもない。
ずっと一緒に育ってきた幼なじみが、自分が結婚することを喜んでくれなかった。そればかりかどうやら自分をおいて、ひとり外国に行くことを考えているらしい。それも、自分のそばにいたくないだけじゃなくて、今までそばにいたことすら間違いだったなんて言うなんて。
「おーミケーレ、今日はお早い登場だな」
何人かが声をかけてきた。この島の年の近い住人なんて、みんな幼なじみなのだ。
「うん、テオと喧嘩して気まずくて出てきた」
隣に座った友人に、ミケーレはあっさりと白状する。
「テオと喧嘩って、おまえら何年一緒にやってきてるんだよ」
おかしそうに友人が笑った。自分が生まれたときからだから十八年だろう。
「テオはあんまり怒らないだろ。おまえが馬鹿なこと言ったんじゃねえの?」
確かにテオは一見穏やかだ。だけど自分には結構苛立ちを隠していないことが多い。そんな怒らせることばかりしているつもりはないのだが。
「んーほら。俺アキッリ様のとこと婚約するかもってことになっただろ。それで、テオの機嫌が悪い」
それ以上詳しくは言いづらい。ミケーレがそう言うと、友人はため息をついた。
「ああ、やっぱおまえ馬鹿だなあ」
「なんでー」
「誰だって他人が自分よりも幸せになるって聞いたら、面白くはないだろ。嫉妬だろ、それは。俺だってうらやましいよ」
「そうなの?」
「そりゃそうだろ。同じガラス職人だって言ったって、おまえは親父さんのおかげでもともと金持ち連中と近いところにいるんだし。誰もがアキッリ様のお嬢さんと結婚できるわけじゃないんだぜ」
「そうかなあ」
ミケーレはぼんやりと呟く。別に、テオがお嬢さんと結婚したいとも思えない。
「まあ、テオの場合は反対の嫉妬かもしれないけど」
「反対?」
「だってほら、なあ? テオはおまえのことすっげえかわいがってただろ、本当の弟みたいにさ。だからお嬢さんにおまえをとられるみたいな、寂しい気持ちもあるのかもな。娘を嫁にやる親父みたいなさ」
「なんだそれ」
そう笑い飛ばしながら、ミケーレはなんだかドキドキして、自分が落ちつかない気持ちでいることに気がついた。
「テオが、俺がいなかったら寂しい? そりゃ俺だって寂しいよ、今までのように毎日会えなくなるとしたら」
そういえば自分が見合いをすると聞いたとき、テオの唇は少し震えていて、まるで泣き出しそうな表情ではなかったか。さっきも瞳をキラキラさせて、あれが、彼が寂しいと思っている表情なんだとしたら。
(やばい、嬉しい。抱きたい)
ぞくぞくと背筋を官能が走った。
早く家に帰って、寂しさに気づかなかったことを謝ろう。抱きしめてその震える唇に舌を差し込んで。自分だって本当は、片時も離れていたくはないのだと囁いて。
二月の夕闇は早い。家に帰るころには薄暗くなっていたが、工房から明かりが漏れていた。バルドが残業するとも思えないから、テオがまだいるのだ。ミケーレは、勢いよく工房の扉を開けた。
案の定、テオがまだ作業をしている。自分が扉を開けた音が聞こえていないわけではないのだろうが、熱心に手元を動かしていた。ミケーレはその後ろ姿に抱きつきたい気持ちに駆られたが、ガラスの作業はスピードが重要なことも理解しているので、黙って見守った。
やがて作業が終わり、除冷炉にガラスをしまうと、テオが顔を上げてちらりと自分の方を見た。
「明日から、休みだろ。勤務時間にいないでいまさら、何しにきたの」
冷たい眼差しで彼はそう言った。その眼差しも寂しいからなのだと思うと、まるでひび割れが入ったアイスガラスのように、今にも崩れて涙を流しそうな気がして、ミケーレは愛しくなった。近づいて抱きしめようとすると、テオは抵抗を見せる。ミケーレは諦めて、テオの隣の椅子に腰かけた。
「テオ、ごめん。俺テオの気持ち全然わかってなかった」
テオの表情がほんの少しだけ和らいで、ため息が落ちた。
「今はわかったの?」
ミケーレはテオの、先程まで作業をしていた手を取った。持ち上げて、指先にキスを落とす。
「テオ。俺もテオと離れるのは寂しいんだ。こんなふうに、会いたいときに会えないのはつらいよ」
「だけど、仕方ないだろ。貴族になるのはおまえの夢なんだし。おじさんもお喜びになるだろうし、この島に住むガラス職人の、一番の幸福だろう」
また、テオの唇が苦しそうに震えていた。それに触れたい。その想いに駆られて、ミケーレはそっとキスを落とす。テオは、今度は抵抗しなかった。唇から直に、震えが伝わってきた。そんなに、自分のために苦しんでいるところが愛おしかった。
「ねえ、テオ。どこにも行かないで。君がいなくなったら、俺は寂しくて死んでしまう」
テオはそっと、ため息をついた。
「ミケーレ。僕にはきっと耐えられないよ。おまえが誰かのものになるところなんか、見てはいられない」
穏やかにそう言ったテオの眼差しは、いつものように優しくなっていた。本当に、そうやって見られるのが好きなのだ。この眼差しを、どうやったら失わずにいられるのだろう。
ミケーレの心に、ふと、ある想いが浮かんだ。
「テオ。もしかして、俺が結婚しなかったらどこにも行かない?」
その決断をすることは難しかった。テオが、自分が誰かのものになることを寂しがっていることは十分に伝わってきた。しかし、本当にそれでいいのか。確かにテオの言うように、貴族になるのは自分と、そして死にゆく父親の夢だった。
その迷いがテオに伝わったのかもしれない。テオは体を離すと長い間自分をじっと見て、それから微笑んだ。
「その気持ちだけで嬉しいよ。だけど、僕はフランスに行く。もう決めたんだ」
「どうして! 俺のこともう好きじゃないの、テオ!」
椅子から立ち上がって、テオは視線を逸らした。
「だって、僕はおまえにも、おまえの家族にも、なんの幸福もあげられない。おまえじゃだめだってことじゃないんだ。僕じゃだめだってことなんだ。おまえも本当は、せっかくのいい話を手放すのが惜しいと思っているだろう?」
テオが言うことは正しかった。結婚しなかったらと提案しながら、まだその可能性を完全に捨てていなかったと言ったら嘘になる。それでも、テオを手放すことはもっと考えにくかった。
「やだ、テオっ、遠くに行かないで!」
ミケーレが勢い余って踵を返したテオの後ろから飛びつくと、テオはバランスを崩して床に倒れた。振動で、作業台の上に置かれていたガラスが落ちる。美しいフィリグラーナの花瓶が床に落ちて、砕けた破片がテオの腕に飛んだ。
床に倒れたまま、傷ついた左腕を押さえて、テオが舌打ちをする。
慌ててテオの側に駆け寄って、ミケーレは思わず立ち上がろうとしていたテオに馬乗りになった。このままでは、テオがフランスに行ってしまう。
とっさに、床に置いてあったロープに手を伸ばして、ミケーレはテオの足を縛った。それから両手。それを、作業台に結びつける。
「ミケーレ!」
まるで、牛か何かのように繋がれたテオが、非難の声を上げる。
こんなことをしてしまったのは、少し酔っていたからかもしれない。だが、理性は残っていた。ミケーレは、自分がやってしまったことなのに泣きそうな気持ちになった。わかっている。自分がやっていることは間違っている。でも、そうしなかったらテオがいなくなってしまう。
「だ、だって、テオがっいなくなるって!」
ミケーレは、思わず叫んでいた。どうしよう。もうどうしたらいいのかわからない。こんなことを愛しいと思っている人にするべきではない。今すぐ解放して謝罪すべきなのに。でもこれを離したら彼は、フランスに行ってしまうのだ。
「このっ、酔っ払いめ……」
床で、テオがうめいている。傷が痛むのだろう。ミケーレはもう、何も考えられなかった。とりあえず、この場を離れたい。
「ごっごめ、あ、あのアルコール持ってくるから、ごめん!」
ミケーレはいたたまれなくなって、工房を飛び出した。扉に立てかけている鏡に憔悴した、まるで犯罪者のような顔をした男の顔が映った。自分の顔だった。
テオの傷は、さほど深くなかった。消毒されている間、テオは黙って治療を受けていた。だからといって、怒っていないわけでもないのだろうが。
ミケーレは、相変わらずどうしていいのかわからない。外国人たちは数日のうちには旅立つだろう。それまで、テオをここに隠してはおけないだろうか。どうせ休みなのだ。そんな気持ちが、どうしても捨てきれない。
「お願い、テオ、明日には解くから、今晩だけ一緒にいて……」
そう言って一緒に床に横たわって抱きよせると、テオは少し苦笑したようだった。
「明日までだからな」
「ごめん、ごめん……」
謝りはしたが、明日どうしたらいいのか、ミケーレの心は決まっていなかった。もちろん、恋人を縛ったままでいいわけではないのはわかってはいたのだが。
「馬鹿だなあ、小さいミケーレ」
からかうようにテオの声が柔らかく落ちてくる。
「おまえは僕のことなんて考えなくていいんだよ」
その夜はあまり眠れなかった。明け方にやっとうとうとして、どろどろとした悪夢を見た。内容は忘れてしまったのだが、運河の中からヘドロが現れてくるような。悪臭のする、どろどろとした夢。
そうして朝に目が覚めると、テオはいなくなっていた。
「テオ?」
ミケーレは慌てて体を起こす。
「何、これ」
自分のすぐ隣、昨日はテオがいた場所に、美しい布に包まれた、フィリグラーナのペンダントが置かれていた。昨日作っていたものだろう。幾重にも薄いピンクと白の線が交差して、まるで血管のように細かく分かれ波打っている。
ミケーレは、自分がテオにペンダントを渡したときに、彼からもほしいとねだったことを思い出した。そのとき、テオは自分の作ったペンダントを太陽にかざしてこう言ったのだ。『まるで、中に炎が入っているみたいだ。それか、心臓みたいな』
テオは、俺の心臓を持っていって、自分の心臓を俺に残していった。
ミケーレはそう気がついた。こんなふうに、心臓を、自分たちの魂を交換して、そうしてお互いの想いをこのガラスに閉じ込めて、残りの人生を生きていけと?
もう一度会いたい、と思った。このまま行かせてはいけない。ちゃんと、彼に伝えなくては。彼はここにいていいと。
テオはどこにいるのだろう。
『本島の船着場までおいで』
あの、話しかけてきた外国人たちの言葉が蘇った。
(本島だ……!)
ミケーレは、マントだけ手にすると、そのまま船着場まで駆け出した。本島は首都だ。こことは広さも人口も違う。そんなにすぐにテオを見つけ出せるのか。でも、そんなことはどうでもよかった。
仮面をつけている間は身分を忘れ、何をしてもいいのだという。首都の本島に比べたらそこまで盛り上がっているわけではないのだが、ミケーレは自分で作った仮面をつけてテオを抱いたことがあった。仮面の上に、随分と長い羽根飾りをつけて。羽根飾りは長ければ長いほど、位の高い人を表すからだ。そんな貴族めいた行いに、昔から彼は憧れていた。他人のふりをして恋人を抱くのはどこか淫靡なよろこびがあって、ミケーレはどこまでも興奮して、欲望を受け止めるテオは呆れたように笑っていた。
見合いの日程が決まった。親同士話がついているのだから、見合いといっても婚約することはもう決まったようなものだろう。
テオは相変わらず、時間があればいつもの教会のそばで座り込んでいる。ミケーレも相変わらずそんなテオをすぐ見つけ出して、その隣に座っていた。
先日見た、大きな帽子を被った黒衣の外国人たちがふと視界に入る。カーニヴァルが終わるまでここにいるつもりだろうか。
ぼんやりと眺めていると、それに気づいたのかそのうちのひとりが近づいてきた。顎髭が目立って年齢不詳だが、四十くらいか。
「やあ」
たどたどしいが、この国の言葉も知っているようだ。テオが軽く挨拶してそれに応える。
「どこから来たの?」
「フランス」
そう言われても、ミケーレには特にその国の知識があるわけでもない。興味津々のテオが、聞きすぎないようにしてくれたらいいと思うだけだ。テオが尋ねた。
「どんなところ?」
「王様の権力が強いところだよ。大きな王宮がある。この島の倍くらいの大きさだ」
「お城がこの島の倍くらいあるってこと?」
「庭も含めてだけどね」
ミケーレも思わずテオと一緒にため息をついた。想像もつかない広さだ。
「たくさんシャンデリアがあるんだろうね」
「もちろん。しっかり夜も照らさなくちゃいけないからね。興味があるかい」
「まあ。僕はガラス職人だから」
「今度、その王宮を増築するんだけれど、王様は腕のいいガラス職人を探しているんだ。君たちは、外国で働くことに興味がある?」
ドキリとした。この男は、この国の法律を知らないのだろうか。
「興味があったら、我々と一緒にフランスに行こう。王宮の仕事があるんだ」
男は重ねて言った。それを聞いて、ミケーレはふと、パオロのことを思い出した。
「まさか、パオロはもしかして、……あなたたちと一緒に?」
そういえばパオロの姿を最近見ない。ミケーレは思わず声をひそめて、男の顔を見た。
「パオロ?」
男たちは顔を見合わせる。
「ああ、あの子か。あの子はジャンに引き抜かれたな。うちじゃない」
「どういうこと?」
「今フランスではみんなで競って優秀なガラス職人を探しているんだ。王様を喜ばせたいからね。我々についてきたら、お給料も、住むところも保証する」
本当だろうか。もちろんヨーロッパ中の貴族がこぞって欲しがる自分たちの技術に自信はあった。共和国がわざわざ国外に行くのを犯罪にするのはそのせいだ。それでも訝しむミケーレに男は微笑んだ。
「もし、君たちも興味があったら、カーニヴァル最終日の正午に、本島の船着場までおいで。待ってるよ」
そう言って男たちは行ってしまう。
この国を出る。
ミケーレはその言葉を胸の奥で繰り返してみた。テオのことが気にかかる。
「まさか、興味持ったりしてないよね?」
言いながら、興味がないわけがないと思う。彼は今までずっと、そんな機会があったらと願っていたのだ。本気で検討しているかどうかだ。
「持っている、って言ったらどうする?」
ミケーレは息を飲んで、顔色を変えた。
「……っ、テオ!」
言いたいことはたくさんあったが、大声で話すべきことではないと考える理性は残っている。誰かの耳に入ったらまずい。
「うちで話そう」
ミケーレは抑えた口調でそう言うと、テオの手を強く引いて一目散に歩き出した。小さな島だから、彼らの家があるガラス職人通りまで徒歩十分ほどだ。
ミケーレは扉を蹴って乱暴に工房に入った。そうして乱暴に手を離す。
「テオ! まさかとは思うけど、本気で行こうと思ったりしてないよね?」
テオが楽しそうに微笑んだ。
「ミケーレが怒ると、日にかざしたカルチェドーニオのようで美しいね」
怒りで頰が赤くなっているのだろう。でも、そんなことを聞きたいんじゃないのに。胸の奥がざわざわとする。
「テオ! ふざけないで」
ミケーレが怒鳴ると、テオは冷えた眼差しを彼に向けた。
「僕がどう考えるかは、僕の自由じゃないの? 僕の人生なんだし」
突き放されたように言われて、ミケーレは悲しくなる。なんでテオには自分がこんなに心配していることがわからないのだろう。テオがそばにいないのも、もしかしたら死んでしまうかもしれないのも、想像するだけでぞっとする。
「でも死刑だよ! そんなことに友達が興味を持ってたら、止めるだろ」
昔からずっと、ずっとテオのそばにいたくていつも探していたのに。テオはいつも、ここではないところを見て、どこかに行こうとする。どこにも行けないはずなのに。
「友達……友達か。ねえ、僕たちは友達なのかな」
テオはその言葉を舌の上でもてあそぶように発音した。友達。
「友達だろう、小さいころから一緒に育って」
「君が結婚しても?」
一瞬、ミケーレは言葉につまった。なぜ、結婚の話が出てくるのか。
「……そうだ、と思う」
「君が奥さんのおかげで貴族になって、僕は旦那様の愛人になって?」
「……仕方ないだろ」
そうだ、それが一番の解決策だ。自分が権力と地位を手に入れたら、何か言う人はいなくなる。富も地位も愛も手に入る、自分たちガラス職人にとっては唯一の、最善の方法だ。
テオはそれのどこが不満なのだろう。
「仕方なくはないよ。僕の人生だもの。僕の勝手だろう。僕が他に恋人を作っても、この国を出ていっても」
「この国を出るかは別問題だろ、犯罪なんだから」
「でも、君には関係のないことだろう。それとも平民だったときの元愛人が犯罪者になったら、体裁が悪い?」
「そういうことじゃなくて! 心配だよ、友達が犯罪者になろうとしているかもしれないんだから」
テオにはなかなか伝わらない。
「おまえは、友達が愛人としての一生を送ることは心配じゃないわけ?」
テオは少し目を伏せて、そんなことを聞いてきた。ミケーレには不思議な気がする。
「それは、……死刑になる犯罪とは違うだろ」
愛人を持つなんて、お金持ちは誰でもやっていることだ。それに、自分たちが離れ離れになるわけでもない。
「おまえは自分が僕の立場であったらと考えたことがあるの? 一生幼なじみの年下の貴族様の愛人で? こんな小さな島じゃあそんなことすぐにみんなに知れ渡るんだよ? 貴族になればミケーレは非難されないだろうけど、異邦人の僕が、この島で忌むべき異端にならないとでも?」
確かに、愛人の立場は強くない。同性だったらなおさらだ。だが他に、同性の恋人を幸せにする方法などミケーレには思いミケーレには思いつかない。
これが、一番の方法なのに。
「テオは、嫌なの? 俺とずっと一緒にいることが?」
ふと思いついた言葉を口にして、ミケーレはドキリとした。今までテオが自分を好きだということを疑ってもこなかった。あまり頻繁ではなかったけれど、好きだと言葉にしてくれることもあったし、時折優しげに自分を見てくる柔らかい眼差しは、大切にされていると思うに十分だった。自分が彼のそばにいたいほどではなかったかもしれないけれど、少なくとも一緒にいたいと思ってはくれていると思っていた。
だけど、それほどではなかったのかもしれない。彼が行きたいここではないどこかに行くことに比べたら、自分の存在なんて。
「いやだ」
テオはそう言った。
ミケーレは言われた言葉で胸にナイフを突き立てられたように苦しくなって、弾かれたように顔を上げてテオを見た。
「僕は嫌だよ。少なくともそんな方法では。僕だけじゃなくて、奥様になる方も嫌だろう。ミケーレも誰かの気持ちを考えてみたら」
誰かの気持ちを考える? ミケーレは言われた言葉を繰り返した。テオのことを考えたから、こうしようと思ったのに?
妻になる人の気持ち? そんなことは考えたことがない。お屋敷と財産を持っていれば、誰でもよかった。でも結婚ってそもそもそういうものだろう?
ミケーレは動揺して、そもそもなぜ自分の結婚の話をしているのか思い出そうとした。
「テオ、俺の結婚の話じゃなかっただろ。外国に行く話だろう?」
テオは悲しそうに言った。
「僕にとっては同じ話だよ。おまえが僕だけのものか、そうでないか。どうして、僕にはおまえに差し出せるものが何もないんだろう」
長いため息が落とされる。こんなときなのに、憂いをおびたテオの表情は美しかった。
テオの指先が自身のシャツの胸元を探って、ミケーレは彼が自分が渡したペンダントをまさぐっていることに気がついた。
「……たぶん、おまえも僕のことを忘れて、奥様を大切にして、たくさん素晴らしいガラスを作って、ちょっとは贅沢もして、おじさんもおばさんも大切にして、みんなの望みどおり国家に貢献するのが一番いいんだ。だから、それには僕がいなくなった方がいい。僕が元々、ここにいたのが間違いなんだ」
そう言って笑ったテオの瞳に、小さなガラスのかけらのようにキラキラとしたものが光っている気がして、ミケーレの胸はぎゅっとつかまれたように苦しくなる。
「テオ、なんでそんなこと言うの」
思わずそう口にしたけれど、ミケーレにもその理由はわかっていた。
ここにいたのが間違いだなんて、子供のころに、周りの人からそんなことを言われて育ったせいだ。かわいそうなテオ。
ミケーレが否定しようとしたそのとき、テオは顔を上げると毅然と言った。
「この話はもう終わり! 少しは自分で考えて」
そう言うとテオは屈み込んでガラスの溶解炉を開ける。仕事に戻るつもりだ。もう話をするつもりはないらしい。
「はよーっす」
ミケーレはなおも言い募ろうとしたが、ちょうどそのとき扉が開いて、シエスタが終わったらしいバルドが工房に戻ってきた。
「バルド」
テオがバルドを呼ぶ。
ふたりは熱で溶けたガラスの両端を持ち、ひねりながら左右に細く長く伸ばしていく。フィリグラーナの芯となるガラス棒の制作過程だが、テオは普段はミケーレとやりたがることが多かった。バルドはまだ慣れていないからだ。
その様子を見ながら、ミケーレは今言われたことを考えていた。どうしてテオが、自分に差し出せるものがないと嘆くのだろう? 必要なものは自分がすべて用意するのに?
「先輩、いくつ作るんですか?」
バルドがテオに尋ねた。
「あ、」
テオは今気づいたように手元のガラス棒を見た。できあがった棒が、山のように積み上がっている。彼はそのうちの何本かをピンサーでつまみ上げ、並べ直して再加熱炉に入れた。
「ごめん、もういいよ。自分の作業に戻って」
「先輩たち、喧嘩でもしたんすか?」
バルドが不思議そうに言った。
テオの横顔にちらりと目をやる。彼は黙々と作業を続けていた。居心地が悪そうなバルドには悪いが、ミケーレにも説明できる話ではなかった。
「ちょっと、用事思い出したから出てくる!」
とても仕事に集中できる気がせず、ミケーレは外出することにした。立ち上がって扉に手をかける。
「えっ先輩?」
バルドはおろおろしている。ああ、カーニヴァルだった。
「カーニヴァルだから、明日から聖灰の水曜日まで休みだからな、バルドは。楽しめ」
「あっはい、ありがとうございますっ」
新人は嬉しそうに頭を下げたが、恋人は振り返らなかった。ミケーレは、勢いよく扉を閉めた。
ミケーレは、工房のすぐ近くの店で酒を飲んでいた。彼にしては珍しく動揺している。わりとどんなことも、朗らかに受け入れてきたつもりだったが、今回ばかりはどうしようもない。
ずっと一緒に育ってきた幼なじみが、自分が結婚することを喜んでくれなかった。そればかりかどうやら自分をおいて、ひとり外国に行くことを考えているらしい。それも、自分のそばにいたくないだけじゃなくて、今までそばにいたことすら間違いだったなんて言うなんて。
「おーミケーレ、今日はお早い登場だな」
何人かが声をかけてきた。この島の年の近い住人なんて、みんな幼なじみなのだ。
「うん、テオと喧嘩して気まずくて出てきた」
隣に座った友人に、ミケーレはあっさりと白状する。
「テオと喧嘩って、おまえら何年一緒にやってきてるんだよ」
おかしそうに友人が笑った。自分が生まれたときからだから十八年だろう。
「テオはあんまり怒らないだろ。おまえが馬鹿なこと言ったんじゃねえの?」
確かにテオは一見穏やかだ。だけど自分には結構苛立ちを隠していないことが多い。そんな怒らせることばかりしているつもりはないのだが。
「んーほら。俺アキッリ様のとこと婚約するかもってことになっただろ。それで、テオの機嫌が悪い」
それ以上詳しくは言いづらい。ミケーレがそう言うと、友人はため息をついた。
「ああ、やっぱおまえ馬鹿だなあ」
「なんでー」
「誰だって他人が自分よりも幸せになるって聞いたら、面白くはないだろ。嫉妬だろ、それは。俺だってうらやましいよ」
「そうなの?」
「そりゃそうだろ。同じガラス職人だって言ったって、おまえは親父さんのおかげでもともと金持ち連中と近いところにいるんだし。誰もがアキッリ様のお嬢さんと結婚できるわけじゃないんだぜ」
「そうかなあ」
ミケーレはぼんやりと呟く。別に、テオがお嬢さんと結婚したいとも思えない。
「まあ、テオの場合は反対の嫉妬かもしれないけど」
「反対?」
「だってほら、なあ? テオはおまえのことすっげえかわいがってただろ、本当の弟みたいにさ。だからお嬢さんにおまえをとられるみたいな、寂しい気持ちもあるのかもな。娘を嫁にやる親父みたいなさ」
「なんだそれ」
そう笑い飛ばしながら、ミケーレはなんだかドキドキして、自分が落ちつかない気持ちでいることに気がついた。
「テオが、俺がいなかったら寂しい? そりゃ俺だって寂しいよ、今までのように毎日会えなくなるとしたら」
そういえば自分が見合いをすると聞いたとき、テオの唇は少し震えていて、まるで泣き出しそうな表情ではなかったか。さっきも瞳をキラキラさせて、あれが、彼が寂しいと思っている表情なんだとしたら。
(やばい、嬉しい。抱きたい)
ぞくぞくと背筋を官能が走った。
早く家に帰って、寂しさに気づかなかったことを謝ろう。抱きしめてその震える唇に舌を差し込んで。自分だって本当は、片時も離れていたくはないのだと囁いて。
二月の夕闇は早い。家に帰るころには薄暗くなっていたが、工房から明かりが漏れていた。バルドが残業するとも思えないから、テオがまだいるのだ。ミケーレは、勢いよく工房の扉を開けた。
案の定、テオがまだ作業をしている。自分が扉を開けた音が聞こえていないわけではないのだろうが、熱心に手元を動かしていた。ミケーレはその後ろ姿に抱きつきたい気持ちに駆られたが、ガラスの作業はスピードが重要なことも理解しているので、黙って見守った。
やがて作業が終わり、除冷炉にガラスをしまうと、テオが顔を上げてちらりと自分の方を見た。
「明日から、休みだろ。勤務時間にいないでいまさら、何しにきたの」
冷たい眼差しで彼はそう言った。その眼差しも寂しいからなのだと思うと、まるでひび割れが入ったアイスガラスのように、今にも崩れて涙を流しそうな気がして、ミケーレは愛しくなった。近づいて抱きしめようとすると、テオは抵抗を見せる。ミケーレは諦めて、テオの隣の椅子に腰かけた。
「テオ、ごめん。俺テオの気持ち全然わかってなかった」
テオの表情がほんの少しだけ和らいで、ため息が落ちた。
「今はわかったの?」
ミケーレはテオの、先程まで作業をしていた手を取った。持ち上げて、指先にキスを落とす。
「テオ。俺もテオと離れるのは寂しいんだ。こんなふうに、会いたいときに会えないのはつらいよ」
「だけど、仕方ないだろ。貴族になるのはおまえの夢なんだし。おじさんもお喜びになるだろうし、この島に住むガラス職人の、一番の幸福だろう」
また、テオの唇が苦しそうに震えていた。それに触れたい。その想いに駆られて、ミケーレはそっとキスを落とす。テオは、今度は抵抗しなかった。唇から直に、震えが伝わってきた。そんなに、自分のために苦しんでいるところが愛おしかった。
「ねえ、テオ。どこにも行かないで。君がいなくなったら、俺は寂しくて死んでしまう」
テオはそっと、ため息をついた。
「ミケーレ。僕にはきっと耐えられないよ。おまえが誰かのものになるところなんか、見てはいられない」
穏やかにそう言ったテオの眼差しは、いつものように優しくなっていた。本当に、そうやって見られるのが好きなのだ。この眼差しを、どうやったら失わずにいられるのだろう。
ミケーレの心に、ふと、ある想いが浮かんだ。
「テオ。もしかして、俺が結婚しなかったらどこにも行かない?」
その決断をすることは難しかった。テオが、自分が誰かのものになることを寂しがっていることは十分に伝わってきた。しかし、本当にそれでいいのか。確かにテオの言うように、貴族になるのは自分と、そして死にゆく父親の夢だった。
その迷いがテオに伝わったのかもしれない。テオは体を離すと長い間自分をじっと見て、それから微笑んだ。
「その気持ちだけで嬉しいよ。だけど、僕はフランスに行く。もう決めたんだ」
「どうして! 俺のこともう好きじゃないの、テオ!」
椅子から立ち上がって、テオは視線を逸らした。
「だって、僕はおまえにも、おまえの家族にも、なんの幸福もあげられない。おまえじゃだめだってことじゃないんだ。僕じゃだめだってことなんだ。おまえも本当は、せっかくのいい話を手放すのが惜しいと思っているだろう?」
テオが言うことは正しかった。結婚しなかったらと提案しながら、まだその可能性を完全に捨てていなかったと言ったら嘘になる。それでも、テオを手放すことはもっと考えにくかった。
「やだ、テオっ、遠くに行かないで!」
ミケーレが勢い余って踵を返したテオの後ろから飛びつくと、テオはバランスを崩して床に倒れた。振動で、作業台の上に置かれていたガラスが落ちる。美しいフィリグラーナの花瓶が床に落ちて、砕けた破片がテオの腕に飛んだ。
床に倒れたまま、傷ついた左腕を押さえて、テオが舌打ちをする。
慌ててテオの側に駆け寄って、ミケーレは思わず立ち上がろうとしていたテオに馬乗りになった。このままでは、テオがフランスに行ってしまう。
とっさに、床に置いてあったロープに手を伸ばして、ミケーレはテオの足を縛った。それから両手。それを、作業台に結びつける。
「ミケーレ!」
まるで、牛か何かのように繋がれたテオが、非難の声を上げる。
こんなことをしてしまったのは、少し酔っていたからかもしれない。だが、理性は残っていた。ミケーレは、自分がやってしまったことなのに泣きそうな気持ちになった。わかっている。自分がやっていることは間違っている。でも、そうしなかったらテオがいなくなってしまう。
「だ、だって、テオがっいなくなるって!」
ミケーレは、思わず叫んでいた。どうしよう。もうどうしたらいいのかわからない。こんなことを愛しいと思っている人にするべきではない。今すぐ解放して謝罪すべきなのに。でもこれを離したら彼は、フランスに行ってしまうのだ。
「このっ、酔っ払いめ……」
床で、テオがうめいている。傷が痛むのだろう。ミケーレはもう、何も考えられなかった。とりあえず、この場を離れたい。
「ごっごめ、あ、あのアルコール持ってくるから、ごめん!」
ミケーレはいたたまれなくなって、工房を飛び出した。扉に立てかけている鏡に憔悴した、まるで犯罪者のような顔をした男の顔が映った。自分の顔だった。
テオの傷は、さほど深くなかった。消毒されている間、テオは黙って治療を受けていた。だからといって、怒っていないわけでもないのだろうが。
ミケーレは、相変わらずどうしていいのかわからない。外国人たちは数日のうちには旅立つだろう。それまで、テオをここに隠してはおけないだろうか。どうせ休みなのだ。そんな気持ちが、どうしても捨てきれない。
「お願い、テオ、明日には解くから、今晩だけ一緒にいて……」
そう言って一緒に床に横たわって抱きよせると、テオは少し苦笑したようだった。
「明日までだからな」
「ごめん、ごめん……」
謝りはしたが、明日どうしたらいいのか、ミケーレの心は決まっていなかった。もちろん、恋人を縛ったままでいいわけではないのはわかってはいたのだが。
「馬鹿だなあ、小さいミケーレ」
からかうようにテオの声が柔らかく落ちてくる。
「おまえは僕のことなんて考えなくていいんだよ」
その夜はあまり眠れなかった。明け方にやっとうとうとして、どろどろとした悪夢を見た。内容は忘れてしまったのだが、運河の中からヘドロが現れてくるような。悪臭のする、どろどろとした夢。
そうして朝に目が覚めると、テオはいなくなっていた。
「テオ?」
ミケーレは慌てて体を起こす。
「何、これ」
自分のすぐ隣、昨日はテオがいた場所に、美しい布に包まれた、フィリグラーナのペンダントが置かれていた。昨日作っていたものだろう。幾重にも薄いピンクと白の線が交差して、まるで血管のように細かく分かれ波打っている。
ミケーレは、自分がテオにペンダントを渡したときに、彼からもほしいとねだったことを思い出した。そのとき、テオは自分の作ったペンダントを太陽にかざしてこう言ったのだ。『まるで、中に炎が入っているみたいだ。それか、心臓みたいな』
テオは、俺の心臓を持っていって、自分の心臓を俺に残していった。
ミケーレはそう気がついた。こんなふうに、心臓を、自分たちの魂を交換して、そうしてお互いの想いをこのガラスに閉じ込めて、残りの人生を生きていけと?
もう一度会いたい、と思った。このまま行かせてはいけない。ちゃんと、彼に伝えなくては。彼はここにいていいと。
テオはどこにいるのだろう。
『本島の船着場までおいで』
あの、話しかけてきた外国人たちの言葉が蘇った。
(本島だ……!)
ミケーレは、マントだけ手にすると、そのまま船着場まで駆け出した。本島は首都だ。こことは広さも人口も違う。そんなにすぐにテオを見つけ出せるのか。でも、そんなことはどうでもよかった。
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