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第2話 炎の子

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「かわいそうな琥珀……」
 俺は手を伸ばして、目の前の男の頬に触れる。声はかすれてほとんど出なかった。
「灰簾、気がついたか」
 焦点が合って、俺は自分を覗き込む琥珀の顔が、ほっとしたような笑顔になっているのに気づいた。
「ああ、俺。どうしたんだろう……?」
 気がつくと汗だくで、琥珀に抱きかかえられていた。どこかの岩陰か。直射日光は届いてこず、そこは少しだけ涼しかった。そのせいか俺のスカーフも脱がされていて、さっきの気持ちの悪さや体の重さはなくなっている。
「おまえ、蠍に刺されたんだよ」
 琥珀がそう言って、俺の左足首を撫でた。
 俺がそこに目をやると、そこは少し腫れているようだ。しかし下衣がたくしあげられたそこには、布で何かが巻かれていて、目視はできなかった。
「さそり?」
「ああ、おまえは知らないよな。ちゃんと教えていなかった俺が悪かった。このあたりには、たちの悪い毒を持つ生き物が何種類かいるんだ。無理するな。調子が悪いときはちゃんと言え」
「これは何ですか?」
 俺が自分の足元に巻かれている布に触れると、琥珀の後ろから少年の高い声がした。
「ベニバナです。蠍の毒には、解毒効果があります」
 大陸共通語を聞き取って、俺は顔をそちらに向けた。
「きみ……」
 昨日、魚市場の前で男たちに襲われていた赤毛の少年だった。近くで見ると、俺よりはだいぶ年嵩の、でも青年というにはあどけない顔立ちをしている。
 彼は小さく会釈をした。
「昨日は、ありがとうございました」
 俺が不思議そうな顔をしていたのだろう。
「おまえが倒れている間に彼が通りかかって、薬草を分けてくれたんだ」
 琥珀が言った。
「きみ、大陸共通語が使えるんだ」
 俺はそのことに驚いて、思わず呟いた。
 少年がはにかむ。
「少しだけ。あなたがたはどこから来たんですか? こんな砂漠をふたりだけで行こうとするなんて」
 その問いに俺は戸惑った。俺は、石の大陸の言葉は使えるけれど、それは俺の言葉じゃない。<王国>で、自分で覚えた言葉だ。それ以外は、共通語しか使った記憶がない。俺がどこから来たかなんて、俺が一番知りたいことだ。
 黙った俺を見て、琥珀が言った。
「挨拶もまだだったな。俺たちは<黒き石の大陸>から、こちらに渡ってきたばかりなんだ」
「こんにちは」
 少年が、たどたどしい石の大陸の地域語で挨拶する。俺の言葉ではないが、彼は俺に気を遣っているのだろう。
「こんにちは。助けてくれてありがとう。俺は灰簾。きみは?」
 俺は、石の大陸の地域語で答える。少年は少し、ためらうそぶりをみせた。
 すると、琥珀が大陸共通語で言った。
「俺はエトナ。きみと同じ」
 それから彼は自分の服の胸元を開くと、昨日の老人にも見せた胸元の入れ墨を見せた。
 途端に少年は、満面の笑顔になって、早口で俺のわからない言葉をまくしたて、琥珀に抱きついた。
 いやな気持ちだ。たぶん琥珀は石の大陸の人間じゃないんだろうなって、それは昨日からうっすらとわかっていたことではあったけど。
 いや、彼が石の大陸の人間じゃないからって、なんで俺が不愉快な気持ちになるんだ? 俺だって、自分が何者かわからないのに?
 目の前で、わからない言葉で話が進むのが嫌なのかもしれない。<王国>にいたころだって、そうだったはずなのに。そう思いながらも、不愉快な気持ちが止まらない。
 どうしてこの少年が琥珀と同じで、俺は違うんだろう? 俺が琥珀の仲間なのに。
 琥珀が俺に説明してくれないのもイライラした。子供だからって、そろそろ教えてくれてもいいころだ。
 そんな俺を気遣ってか、琥珀は大陸共通語で続ける。
「きみたちの、長老のところに連れていってほしいんだ」
 それを聞いて、彼は笑顔で俺たちを見た。
「もちろんです。お待ちしておりました、エトナさま。申し遅れました、僕は火の一族<純血>のイラスです」
 きれいな大陸共通語。俺はどうしてもいやな気持ちのまま、琥珀のマントの袖を引っぱる。引っぱられたのに合わせて、俺を見た琥珀の体がイラスから離れ、イラスは彼を解放した。
 俺はまだ調子が悪いふりをして、琥珀の胸元に頬を押しつけて寄りかかった。琥珀は微笑んで、俺の肩を抱きよせた。夢で見た彼の弟にしていたみたいに。
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