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不思議の国の『boy meets girl』

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「すみません店長! 休憩いただいて、ちょっと表に出てきます!」
「はーい……って、え? 表に出る?」
パタンと扉の向こうになった足音はあっという間に小さく消えて、海野店長の意表を
突かれたような後半の声は、店長室兼VIPルームの綺麗な扉に跳ね返されてしまった。
と思いきや、再びカチャリと開くと――さっきの声の主とは別の女の子が顔を出す。
「バッシング中に大事そうな忘れ物を見つけて、それを届けに行ったみたいです」
ミヤという眠そうな声をした娘は、こういった細やかなフォローに定評があった。
「ふむ、ありがと。……大丈夫かな」
海野店長は、室内でも常にサングラスを掛けっぱなしという変わった人である。だが
彼女の経営する、このメイドカフェ『まほろば』は今のところ、クリーンかつ堅実な
手法ながら大成功していて、オープンから二ヶ月しか経っていないというのに、連続
して想定売上の倍額という業績を叩き出そうとしていた。

その七階建てビルの一階にある『まほろば』からは、ドアベルを鳴らした後に洒落た
煉瓦の階段を三段降りるとすぐ表通りである。お店の制服である華やかな着物ワンピ
のまま外に出た彼女は、往来の邪魔にならないよう気をつけながら、まず左側を確認
した。当たりだった。ひょろっとした長身の、チェック柄のシャツを着た男性の背中
は、まだ歩道の延長線上をゆっくりと向こうへ進んでいる。声を掛けるには遠すぎる
けれど、小走りでちょうど向こうの交差点までには追いつけそうな距離だ。

腰まで伸びた黒髪がふわりと揺れて、彼女は小走りに駆け出した。「色々な人や物で
溢れかえる東京では、監視カメラ以外に通行人を見ている人などいない」なんて話は
今の彼女の前では全くの嘘だ。ピンク色を基調にした可愛らしい衣装も当然要因には
なっているだろうが、すれ違う人も追い越される人も殆どが目を奪われてしまうのは
彼女の顔立ちや所作によるところが大きいだろう。彼女の名前は、鷹華という。

(――え、あれっ?)
目標の人物が思わぬところで曲がったことで、声には出さないものの鷹華は焦った。
彼女の視点からは、その男性はガラス張りのビルの手前側にある自動販売機の影に、
すっと消えてしまったように見えたのである。ビルの奥側、カエルに似た謎の置物の
向こうなら横道もあるし、一階のドラッグストアらしきお店に入った可能性も充分に
考えられるが、自動販売機の影に消えるなんて有り得ないことだった。

些細な時間差で、その自動販売機までたどり着いた鷹華は答えを知り、より驚いた。
可愛らしい絵が描かれたドラッグストアのショウウィンドウと、自動販売機が置かれ
ている古くからの大きなアパートの間には鉄柵のような扉があり、ビルの隙間に入る
ことができるようになっていたのだ。もう何度も通っているはずの道なのに、今まで
全く気付かなかったことである。鉄柵の向こうの薄暗がりに、例の常連客の姿らしき
ものが見えていて、そしてまた左に消えてゆく。ど、どうしよう――少しばかり躊躇
した鷹華だったが、試しに鉄柵を押してみて、すっと開いたことで心を決めた。この
ような裏路地はとても危険だから近づいてはいけないと何かの本に読んだ記憶も頭に
よぎったが、あれは外国の、それも昔の話だったはず。なによりちょっと失礼だけど、
あの『マジオタ』さんが歩いているのだから大丈夫よね――そのように考えた彼女は
するりと抜けて柵を閉めなおすと、裏路地の最初の角を目指して駆け足を速めた。

表通りより数度気温が低い気がする薄暗がりを、着物ワンピの裾を気にしながら一気
に駆け抜ける。雑踏から遠ざかるにつれて、チョーカーや髪飾りについている小さな
鈴の音が、チャリ、シャラン、と段々はっきりしてくるのが少し面白かった。

到着。裏路地の四辻とでも言うのだろうか、ぐるりと見渡せば四本の光の柱に囲まれ
ている不思議な場所である。ただし、鷹華が今覗き込んだ東の方角だけはとても細い
光の柱となっていた。この方角だけかなり遠くまで続いた上に、途中から人の通れる
幅ぎりぎりの様子である。さて、こちらに曲がったように見えた『マジオタ』さんは
一体どこに消えたのだろう。実は見間違いで西側の通りに出たのだとすれば、通路を
塞ぐように置かれているゴミ箱を飛び越えて行ったことになる。それはなさそうだ。
実は鷹華には、もう見当がついている。彼女は左手すぐ先にある、茶色いガラス扉を
思い切って引いてみた――マンションの裏口みたいなもの? と予想しながら。
「あのっ、おじゃましまーす」

タイル張りのフロアは意外にも閉鎖空間で、正面にエレベーター、左手に集合郵便受
箱が設置されているばかり……あとはガラス扉をあけたすぐ右の壁に、『非常口』と
書かれた鉄製の扉がある。それだけだった。人の姿どころか、気配も感じられない。
残念、これはミッション失敗ですね……と鷹華は半ば諦めながら、一方でこの場所に
とても心が惹かれていた。さすが秋葉原、不思議な場所があるのね――この感覚は、
まるで冒険をするゲームで隠し通路を見つけたときのような、そういう感じだった。
裏口ではなくて一つの小さなマンションの入り口みたいだけど、何か違和感がある。

一応、郵便受けを眺めてみる。苗字などは書かれていなくて101から103、201から
203の六箱が並んでいるばかりだった。どれにも何も入っていない。次にちょっと奥
まで歩み寄って、エレベーターを調べてみる。違和感が二つあった。一つは、車椅子
のマークを挟んで二つあるボタンが、どちらも下向きの三角であること。もう一つは
それらの上にある小さな黒い階数表示板が、真っ黒のままであること――どうしても
好奇心に勝てず、鷹華はボタンを押してみた。……何も起きない。もしかして、押す
力が足りなかったのかもと、もう一回ぎゅっと押してみる。すると――

「うわああああ」
という男性のものらしき小さな低い声が、地底から響くように聞こえてきた。えっ?
ボタンから反射的に指を離して、耳を澄ませてみると……やっぱり何も聞こえない。
もしかして、心霊スポット的な意味で危険だったり!? と少し青ざめて後ずさりを
行うと、今度はカツン、カツンと、果たして微かにではあるが足音が聞こえてきた。
足音を聞き取った鷹華は、一目散に逃げ出すのをやめた。足音が聞こえてくる方向を
感じ取りながら、もしかして――とエレベーターの前に留まったままで、その視線を
『非常口』と書かれた扉のほうに固定する。そして、ガチャリと扉が開くと、思った
通りの人物が現れた。『マジオタ』さんだ、と鷹華は幾分ほっとした。

「やっぱり、まずは警察か……ふぁっ!?」
一方、その『マジオタ』という男性の驚き方はかなりのものだった。目を見開いて、
次の言葉が出てこない金縛り状態にあっている。鷹華は、丁寧にお辞儀をしながら
「おかえりなさいませ、ご主人様」
と、『まほろば』で見られるものと全く変わらない笑顔で、挨拶してみた。
「よ、ヨーカたん……!? え、あ、確かにここはボクん家ですけど……!?」
「ごめんなさい! お店に大事そうなものお忘れでしたので、お届けしようとつい
追いかけてしまったんです」
右手に持っていたものに左手を添えて、まだ泡を食っている相手にそっと差し出す。
それは銀色と黒のメタリックな札に小さなリング、そして三つの鍵が連なっている
キーホルダーだった。

「ああ! あ……あ、ありがとうございます。ちょ、ちょうど今困ってました」
内心ではものすごい勢いでその場に跪き、「天使か!」と叫びたい気分であったが、
回らない口のまま朴訥に、『マジオタ』は鍵を受け取った。そして次の間で、
「いや本当助かりました。なんとお礼を言って良いか、あ、折角ですし家あがって
ゆきます? 今というか、ずっとボク一人しかいないんですけどフヒッ」
少し落ち着いて発言した内容が、これである。
「い、いえ。休憩をいただいたとはいえ、お店の皆さんが心配しますし」
想定内のやりとりだった。だが、なんだその笑い方は! というか何でそんな滑る
確定の発言をしてるんだ俺はああああ! と『マジオタ』の中の人が転げまわる中、
「あのっ」
と、鷹華が何かを思いついたように声をあげた。
「ん?」

「あ。えっと、いえ、ここって一体どういう場所なんでしょうか。エレベーターは
動かないんです? 表のマンションとは別なのかなって」
「あー、そうですね。話せば長くなるんすけど、表のマンションとは同じ建物で、
でも別のマンションって感じかな。まあこっちはボク以外に誰も住んでないんです
けどね。それで点検とか面倒だし、エレベーターは電源落としてるんすよ」
「えっ、管理人さんなんですか?」
「あ、はい。まあそうかも。でも誰もいないし、募集とかもしてないんすけどね。
爺ちゃんと、あと表のマンションの管理人さんから譲ってもらったまま住んでいる
だけです、はい。それにこっちは裏どころか、地下しかないですしおすし」

身長はあるのに、この男性の印象は常に"弱そう"なのはなぜだろう。『マジオタ』
というあだ名は、『まほろば』の仲間である数名によってつけられたものだ。最初
に言ったのはミヤちゃんで、「あいつはマジもんのオタクさんですね。なんという
ステレオタイプ……いや絶滅危惧種なのか」から、マジもんのオタク――略して、
『マジオタ』になったのである。もちろん面と向かっては誰も言わないし、週に一
二度は必ず来てくれる常連客の中でも、好印象の男性ではあるのだが……その辺り
から鷹華は、あだ名の由来を「真面目なオタク」と幾分混同していた。今も真面目
に、訊ねれば何でも答えてくれそうではある。

――実は、鷹華の本当に訊ねたい事は他にあって、それに関係ある『爺ちゃん』と
いう単語が偶然にも飛び込んできたのが、今の状況だった。もしかして、やっぱり
この方が……でも自室の机にある『宿題』を、ずるして終わらせることになってし
まうかも――と、次の一言を喋れずにいる。

「あっ 階段だけちょっと見てみます? ここは鍵掛けてなくて、開けるとこんな
感じっす。防犯用の監視カメラがついてるから安心だし」
数秒できた空白に焦った『マジオタ』こと貝田一仁は、左手で支えていた扉をぐっ
と開けたままの状態にして、カンカンカン、と階段を降りてしまった。鷹華が覗き
こんでみると、照明が点いているにも関わらず薄暗い階段はすぐ近くで小さな踊り
場に折り返されていて、まるで地下迷路の入り口のようだ。踊り場向こうの階段で
ゴブリンでも待ち構えていそうな――いや、待ち構えているのは弱そうな男性一人
しかいないのだが……。

「おおー。これは……あれ? 上への階段もあるのですね」
「あ。うん。一応、表との連絡通路ね。そっちは向こうからも鍵掛かってるけど」
「なるほど面白い建物だったんですね……あ! すみませんそろそろ戻らないと」
「あっ、はい」
鷹華は階段の上から足を揃えて、再びお店でのように丁寧にお辞儀する。
「失礼しますね。これからも『まほろば』をよろしくお願いします、ご主人様」
やっぱり違う気がする。人の多い東京でそんな偶然は滅多にないだろうし、それに
もし本当にお孫さんだったとしても、堂々と"今の私"を報告できるまでは――そう
心に決めると、鷹華は足取り軽く『まほろば』へと戻っていった。
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