神さまに嘘

片岡徒之

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 小さい一本の手を、神さまは掴んだ。ぐんと力強く私を引っ張ると、私はその勢いに負けて、つま先から転げ落ちそうになった。その勢いのまま、足元の感触がなくなると、空中に浮かんだような滞空時間があって、真っ逆さまに地面に落ちていっている感覚が、次第に強まった。ビルからの落下。学校の屋上から、あの日、飛び降りた。その時に近い感覚が、フラッシュバックするように迫ってくる。風が、頬を伝って、髪を靡かせる。地面の表面がぐんぐん私の顔面に近づいてくるかのようだ。

 神さまは言った。

 覚悟は出できてるかって?

 そんなのわからない。少なくとも私は、すべてのものに対して、覚悟ができるほど、立派じゃない。水が足りなくて困って、カラカラのノドをさらけ出して、歌を歌うことさえできない。神経の奥が軋みだしたら、鼻水だけが垂れる。風邪なんか引いてないのに。

 真っ逆さまに落ちる重力を全身に受けて、私はぐんぐん空中を落下していく。それにつれて時間が急激に逆上り、時計の針はすごい勢いで私の後方へと流れていく。まぶしいライトに当てられたかのように、まっすぐ飛んでくる光の粒を受けて、たくさんの記憶が、波の形になって飛んだ。その形は、決してかっこよくはない。天使が羽ばたいた時の美しさなんてなくて、ただただ、へんな感じだ。懐かしい匂いなんだ。すがすがしいくらいに鼻先をかすめていったのは、赤いチューリップが咲く季節と、わずかなホコリっぽさだった。

 意識の中心がぐんぐん世界に近づいて、激しい車輪の音が前方から膨れ上がる。

 朝、目覚めた時の、ささやかな眩しさ。キラキラと舞うホコリと空間と、みずみずしい空気の音が、まぶたの上に落ちてきて、ハッとなって硬直する。幽霊が、目の前にいるかのような金縛り。午前7時。

 神さまは私の手を握って、思いっきり世界へと投げ飛ばした。どれくらいのスピードで地上にぶつかるかもわからないのに、遠慮なんてなくてさ。

 ただ、囁くんだ。私の耳元で、私自身に会いに行くことを命じた神さまは、こう付け加えて、手を離した。

 「あなたに会ったら、あなたがこの世界からいなくなってしまう前に、さよならのキスをしてあげなさい」
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