薄情と共犯

湯呑屋。

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第3話

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 実は今日、1か月後に異動があることを店長から告げられたばかりだっだ。元々転勤は承知の上でこの会社を選んだのだから、そこまで気持ちが波立つようなことはなかったけれど、端的に言うなら私は「悲しまれていない」ことに苛立ちを感じていた。


    誰でもいいから、誰かの記憶に残っていたい。死まで続く時間の中の、その最期までこびりついていられるような、そんな記憶の1つに。


「ごめんね急に。迷惑だったら言ってくれていいから」


 もう私の家につくというタイミングで、私はそう言った。卑怯なことはわかっている。私も、きっと戸倉君も。


「大丈夫ですよ」


 最寄りのコンビニで降ろしてもらい、精算は「とりあえずまとめて払います」と戸倉君が譲らずに1万円札を出してしまった。外気はいっそう冷たく、私はコートの前を掻き合わせた。機能性ばかり気を遣って買ったコートは音楽室の厚い防音カーテンのようで、男の子が隣にいる時を一切想定していないようで、恥ずかしかった。


 冷蔵庫に調味料しか入っていないことを伝えて、そのままコンビニに入る。戸倉君は笑いながら「一人暮らしって想像通りなんですね」と言った。「男みたい」と言ったのも私は聞き逃さなかった。私はそれにむかむかして、チョコクレープとチーズタルトをかごに放り込む。


    そのあとで2ℓの緑茶やそれぞれ好きなつまみや酒もほいほい入れていく。いつの間にか戸倉君にかごを奪われていて「接待か」と言うと「付いてきている時点で俺にとっては接待ですから」と返された。それもそうだ。ここは彼にとって、上司との酒の席と同じなのだ。


 コンビニを出てすぐの十字路を右に曲がり、閑静な住宅地の一角に逃げ隠れたようなアパートに入る。オートロックを解除する間、彼は私の3歩後ろでじっと、ビニール袋を持って立っていた。


 階段を二人分の足音がのぼっていく。なんだか新鮮だ。ハイカットを履いている戸倉君の足音はごつんとしていて、その音で「男の子を部屋に呼んでいる」と妙に意識してしまい、顔がすこし熱くなる。


 私は、その人とまだ離れたくないときはアルコールを使う。「お酒を飲もう」というのは「もう少し話そうよ」という意味がありありと伝わるものだと思う。


 1Kの部屋に入ると、戸倉君は黙ったままきょろきょろと視線を彷徨わせた。とりあえず食料は置いときなよ、とローテーブルを手でトントンと示す。


「いるよね。他人の生活を見ると、国境を越えたみたいに、異文化を見るような目で見てくる人」


「あ、ごめんなさい。好奇心でじろじろ見てるわけではないんですけど、落ち着かなくて」


 そりゃ、初めて入る職場の異性の部屋で急に落ち着かれてもおかしな話だ、と、絶対に見ることはないであろう戸倉君の姿を想像して笑ってしまう。


 戸倉君は壁に掛かった、絵柄がすきで購入したポストカードや、シフトだけを書き込んだホワイトボードを見ながらほーほー言っていた。私は制服を洗濯機に突っ込んで、目分量で液体洗剤と柔軟剤を入れ、スイッチを入れる。


「夜中でも洗濯する人なんですね」


 回りだした洗濯機に負けないように、少し声を張って戸倉君が聞いてきた。


「そうだよ。これも異文化?」


「うちも23時くらいに洗濯物が全部集まるんで、洗って部屋干しとかよくしてますよ」


 なんだか彼とは『男の子』と話している感覚がしなかった。歳の離れた兄という生き物と対面しているように感じる。実際うちの実兄と私は年が8つ離れているのに、他人の、しかも年下の男の子の方がその肩書がしっくりきた。


 兄は、変に血が繋がっているせいか、妹が何を考えているのか理解できない事実に焦るように、腫物に毒にも薬にもならないものを塗り込んでくるような会話を私にぶつけてくる人だった。まともなコミュニケーションをとれた試しは1度もない。


 ふとリビングを見ると、戸倉君はついに、隅に置いてある姿鏡の前で正座をしていた。


「戸倉君、他人の家のベッドとか座れない人なの?」


「ソファならまだしも、ベッドは落ち着きませんよ。招かれたものの煙たがられてる、って感じの自分がしっくりくるんです」


 部屋の主を前に言葉選びも何もあったものではない。職場では「すみません」を口癖にしている戸倉君だが、その申し訳なさは恐らく、ベクトルがすべて自分に向かっているのだろう。


「あのね、行き過ぎた謙虚は、相手を貶めて傷つけることがあるって、ちゃんと今のうちに学んでおくといいよ」


「はぁ、すみません」


 私は洗面所でスウェットに着替え、化粧はそのままでソファに寝転んだ。このまま、まどろんで眠ってしまうのが一番の幸せだなぁと思う。部屋に誰かを呼べば、それだけで満足してしまう節が私にはある。


 普段はシャワーに洗濯、ほんの1ページだけでいいからお気に入りの小説を読むなど、その日に傷ついた心の修復作業のように生活を行うけれど、それが叶わない日は、どうしようもなくダメな女でいたくなる。


    いくら接客業で薄いメイクとはいえ落とさなければ乾いて肌がボロボロになるし、シャツとパンツにはしわと折り目がつく。コンビニで買ったホットスナックと炭酸を呷り、歯も磨かないまま、どうしようもなく、翌日の自分に甘えたくなってしまうのだ。


「さて、お待たせ。今日はもう飲みたいように飲んで、食べたいように食べて、そのまま眠ろう」


 横になったままで私はそう宣言した。


 一人暮らしは、生活を一人で循環させなければならない。生活に緩急をつけるのも自分の仕事だ。社会人になってからほとんど眠るためにしか帰ってこない部屋のラグはまだふわふわとなびくまま、埃だけが薄く溜まっていく。今日は久々に生活を乱す日で、向かいには共犯がいる。


「俺なんかでよければ。もう、あんまり飲めませんし起きていられませんけどね」


 戸倉君はチョコアソートの袋やポテトチップスをパーティー開けにしてから缶チューハイに手を付けた。ごうごうと洗濯槽の回る音が聞えてくるが、それでも二人になったこの部屋は、少しだけがらんどうではなくなっているような気がした。


「じゃあ、改めておつかれさま」


「おつかれさまです」


 決まった合言葉を唱えるように、二人で缶をこつんと合わせる。


「私、明日から3日も休暇だから、暇なんだよね」


「珍しいですね。何か予定を入れての休みじゃないんですか?」


 できるだけ早くお酒をなくしてしまいたがっているのか、すぐに缶を空にしながら戸倉君は聞いてきた。私は首を横に振る。予定などない。大学も就職場所も大阪に留まりながら、ここは特に思い入れのある地域でもなく、友達も残ってはいない。


「こういう休暇中に、重要なイベントが立て続けに起こればいいのになって思う」


「たとえば?」


「地元の友達が三人くらいまとめて結婚して式に招待してくれたりとか、インフルエンザにかかって1週間まるまる寝込んだりとか。あと訃報も今のうちだと助かる」


「2つ目はイベントじゃなし、3つ目は不謹慎過ぎませんか」


「社会人になればわかるよ。私にとってはどれも、スケジュールを大きく狂わせる面倒なものであることに変わりないからね」


 話しながら、空のペットボトルや破いた菓子パンの袋がベッドの下に転がっていると気づき、そっと拾って足元のゴミ箱に捨てる。ベッドや食器棚など、必要最低限のものしか置いていないこの部屋での、唯一の生活感、ダメな生活をしたときの名残だ。所在投げに正座をしている戸倉君もそれらの一部のように感じた。彼なら、ごみ袋にのそのそと入り、暖を取りながら眠る姿が容易に想像できた。


「なんか、急に落とし穴みたいな休みを貰えて愕然としちゃってさ。私にとって今、生活ってこの部屋と職場でしかないから。生活の半分を奪われた気分」


「それは何となく俺もわかります。高校時代は帰宅部でぼっちだったんで、土日はそんな感じでした」


 私のさじ加減で話す内容に、彼はいつでも理解を示せしてくれるか、もしくは自分の常識的感覚もそうなんですよ、とすり合わせてくれる。ああ、気が弱いって本当に、物語性も何もあったもんじゃないな、と思う。


 そんな会話とポテトチップス、チョコ、チューハイの往復を繰り返して、1時間ほどたっただろうか。戸倉君はほぼ閉じかけた目をこちらに向けながら唐突に言った。


「それで、飲んでるのはいいんですけど、これから、どうなっていくんですか」


「これからって、どういうこと?」


 解っていて、私は聞き返した。船を漕ぐ彼の動きに合わせて彼の眼鏡がずれるので、人差し指でちょいちょいと直してあげる。くすぐったそうに戸倉君は笑って、


「どうにもならないでしょうけど。これから職場で、もしくは個人として、少しはやっぱり、ゆるくなっちゃうじゃないですか」


「戸倉君はどうしたいの」


「このまま、ゆるく、ゆるーく、優しい関係のままでいたいです」


 優しい関係。その言葉があまりにて的確で、私はつい噴き出してしまった。ラグにお酒がこぼれる。あーあーあーと言って、戸倉君はティッシュを5枚ほどとって拭きに来てくれる。その戸倉君のつむじを人差し指でぐるぐるしながら、私は、


「優しい関係、かぁ。いいこと言うね。私も、そうありたいなぁ」


 と言った。あまりに幸せそうなその声が、私のいったいどこから出たのかとびっくりしてしまう。頭の中で「幸せになりなさいね」と母の声がかすかに鳴った。


 このまま眠ってしまいそうな戸倉君に布団の場所を伝えて出してもらいながら、私は洗濯機から衣類をかごにかき入れて、ベランダに出る。男の子が部屋にいるのに洗濯物を干すなんて、私はとんだ恥知らずなのかもしれないとも思ったけれど、私はきっと、男の子にはドキドキして、戸倉君にはドキドキしないのだろう、とも思った。


「他意はないですけど、なんか、幸せってこういうことを言うんですね」


 ローテーブルを端に避け、布団を敷きながら戸倉君は言った。


「なにそれ。私たち今、新婚夫婦みたい?」


 どう? あなた。そう言って振り返ると、戸倉君は布団に入って「やめてくださいよ」とくすぐったそうに言った。


「落ち着いて眠れる?」


「大丈夫です。信用してますから」


 なにそれ、と私は笑った。なんだか男女があべこべな夜だと思った。干し終わってから、私も自分のベッドに入る。


 電気を消すと、戸倉君が私に背を向けたままでそう聞いてきた。


「茅場さん。働いてて、限界とかこないんですか」


「限界? どういうこと?」


「楽な仕事じゃないじゃないですか。俺、もう少し茅場さんの助けになりたいな、と思って」


「可愛いこと言ってくれるね。あのね、私、限界って、背丈とほぼ同じ水位の中に浸かっているだけのことだと思うんだ。精いっぱい伸びをして上を向いてみたら、口と鼻先くらいは、まだ水面の上に出るくらいの。大丈夫だよ。呼吸ができてるから」


 うわぁぞっとしますね、と戸倉君は言い、それからは呼吸音のみが聞こえてくるようになった。


 私も眠った。
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