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第1話
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神は細部に宿る。その言葉は、宮大工の祖父から教えられた。
「俺達は神様を相手に商売をしているようなもんだ。自分の家を修復する男共の一挙手一投足を神様はじっと監視して、手を抜いてる馬鹿がいねぇか確認してやがんだ」
言葉は乱暴だったが、祖父は手抜きなど知らないような固い手のひらで俺の頭をがしゃがしゃと撫で、笑いながらそう言った。
「作法や美学。努力や根性。なんでもそうだけどよ。他人が見て一人でも美しいと評価してくれる何かには神様が宿るんだ」
俺の名前は祖父が決めたと母から聞いたことがある。祖父は男であれ女であれ子供の名前は絶対にナギにしろと言い続け、遺書にもせっせと書き込んでいたそうだ。母の渚という名前も、祖父がつけたらしい。
「だからお前にも、いっぱい神様が宿ってくれるといいな、居心地がいいってよ」
そんな話を思い出したのは、マナーを体現するような箸使いでA定食のアジフライを口に運ぶ藤の所作をじっと見つめている時だった。
「私の顔に、何かついてる?」
藤の三白眼と視線が合って意識を引き戻され、俺は「いいや、何も」と言った。発色の良い朱色の唇には、衣一つも付いていなかった。
ざらついたタイルに、所々に傷がある黄ばんだテーブル。仮設で作られたまま年数が経ってしまったかのような第一食堂には、それでも二限終わりの学生が溢れかえっていた。男四人で全員がカツカレーをがっつきながらバカ騒ぎする席や、喧騒の中でもノートパソコンを開いて課題に勤しむ生徒などが混ざる雑多さが嫌いで普段は利用しないのだが、今日は藤に呼び出されて俺はここにいた。
祖父が生きていれば、彼女を必ず気に入っただろう。箸の持ち方ひとつからもその人となりが伺える。「私にカレンと名付けた責任はちゃんと取ってもらったと思っているの」とは、確か入学直後の学科交流会で彼女が言った言葉だ。初対面からはっきりと周囲にオーラを見せつけた彼女に俺が最初に思い浮かべた言葉は、苛烈、だった。
「葉山君は何も注文しなくていいの?」
「いいんだ。あるから」
リュックからプロテインバーを二本取り出す。一本の袋を剥いて齧ると、藤はため息をついて口を開いた。
「じゃあ本題に入ります。葉山君には、彼氏のフリをしてほしいの」
ストーカー被害にあう可能性がある、という、ふわっとした相談事を告げられたのは二か月前、ゴールデンウィーク明けのことだった。その時はお互いに真剣味もなく、そうなの? そうなの。くらいの軽い受け答えで終了したのだ。それが今度は、彼氏のフリをしなければならない事態にまで発展しているとはどういうことだろうか。もう一本のプロテインバーの袋も剥いてかじる。
「迷惑は極力かけたくないから、デートの証拠を残すために要所要所でそれっぽい写真を撮るだけのツアーをするって選択肢もあったんだけど、それだと整合性が取りづらくなるの。服や髪型の乱れとか、何なら疲れ具合まで自然に演じてもらわないといけない」
まだ受けたわけでもないのに、藤からはレポートのようにすらすらと説明が述べられていく。聞き流している中で、なるほどこの相談は不特定多数の人間にはできないだろうなと思った。「私の容姿が美しいから困っている」と言っているようなものだ。
「と言うわけで早速、明日お願いしたいんだけど」
「なんで俺なんだよ」
俺は、フリを頼まれた時点からずっと思っていた言葉をそのままぶつけた。彼氏の代役を一日デート券としてチラつかせれば、なびく男は山のようにいるだろう。権利をかけて争わせれば男たちの屍の山を築くことも藤ならできる。それが比喩表現ではないほど、彼女には美貌とカリスマ性がある。
本来なら、たった一人の男に付きまとわれたくらいで狼狽える奴ですらないのだ。
「何が目的だ」
「目的はさっき言った通りけん制。それ以外にない。それに、もしこの場で別の理由がある、なんて言ったら、あなたどうするの?」
そう言われ、俺は言葉に詰まってしまう。確かにこの質問は墓穴だった。その追及は、お前は俺に気があるんじゃないか? という質問に他ならない。ふふっ、と笑う藤のしたり顔が気に食わないが、この申し出を無下にする必要もない、とどこかで考えている自分も確かにいた。
「彼女は男の精気を吸いとり若さを保ち続けている妖怪であり、被害者は初めからこの世に居なかったように処理されてしまう」という噂が広まるほど、藤には男の影がなかった。逞しい妄想力だと一蹴してしまえるような話を肯定も否定もせず、力を持たせてしまえるのが藤の強さだ。故に、藤の人生という舞台にはチケットが存在しない。彼女自身に招かれるか招かれないか、ただそれだけが、彼女の近くに居られるかどうかの分かれ道だ。
俺が黙りこくっていると、スポットライトのように熱い藤の手が俺の手を握りこんでくる。顔が赤くなっていくのを、いやでも自覚してしまう。
「お願い、できない?」
頭の中がさらに煩くなる。それは彼女に選ばれなかったすべての男たちの怨嗟の声のようでもあった。
「わかった、やるよ」
怨嗟をかき消すように答えると、藤は唇の端に微笑をたたえて、そっと手を離して言った。
「ありがとう。詳細は今日中にスマホに送るわ」
そう言って彼女は席を立ち、俺が剥いたバーの空き袋をくしゃっと握りこんで「捨ててきてあげる」と去っていった。
「俺達は神様を相手に商売をしているようなもんだ。自分の家を修復する男共の一挙手一投足を神様はじっと監視して、手を抜いてる馬鹿がいねぇか確認してやがんだ」
言葉は乱暴だったが、祖父は手抜きなど知らないような固い手のひらで俺の頭をがしゃがしゃと撫で、笑いながらそう言った。
「作法や美学。努力や根性。なんでもそうだけどよ。他人が見て一人でも美しいと評価してくれる何かには神様が宿るんだ」
俺の名前は祖父が決めたと母から聞いたことがある。祖父は男であれ女であれ子供の名前は絶対にナギにしろと言い続け、遺書にもせっせと書き込んでいたそうだ。母の渚という名前も、祖父がつけたらしい。
「だからお前にも、いっぱい神様が宿ってくれるといいな、居心地がいいってよ」
そんな話を思い出したのは、マナーを体現するような箸使いでA定食のアジフライを口に運ぶ藤の所作をじっと見つめている時だった。
「私の顔に、何かついてる?」
藤の三白眼と視線が合って意識を引き戻され、俺は「いいや、何も」と言った。発色の良い朱色の唇には、衣一つも付いていなかった。
ざらついたタイルに、所々に傷がある黄ばんだテーブル。仮設で作られたまま年数が経ってしまったかのような第一食堂には、それでも二限終わりの学生が溢れかえっていた。男四人で全員がカツカレーをがっつきながらバカ騒ぎする席や、喧騒の中でもノートパソコンを開いて課題に勤しむ生徒などが混ざる雑多さが嫌いで普段は利用しないのだが、今日は藤に呼び出されて俺はここにいた。
祖父が生きていれば、彼女を必ず気に入っただろう。箸の持ち方ひとつからもその人となりが伺える。「私にカレンと名付けた責任はちゃんと取ってもらったと思っているの」とは、確か入学直後の学科交流会で彼女が言った言葉だ。初対面からはっきりと周囲にオーラを見せつけた彼女に俺が最初に思い浮かべた言葉は、苛烈、だった。
「葉山君は何も注文しなくていいの?」
「いいんだ。あるから」
リュックからプロテインバーを二本取り出す。一本の袋を剥いて齧ると、藤はため息をついて口を開いた。
「じゃあ本題に入ります。葉山君には、彼氏のフリをしてほしいの」
ストーカー被害にあう可能性がある、という、ふわっとした相談事を告げられたのは二か月前、ゴールデンウィーク明けのことだった。その時はお互いに真剣味もなく、そうなの? そうなの。くらいの軽い受け答えで終了したのだ。それが今度は、彼氏のフリをしなければならない事態にまで発展しているとはどういうことだろうか。もう一本のプロテインバーの袋も剥いてかじる。
「迷惑は極力かけたくないから、デートの証拠を残すために要所要所でそれっぽい写真を撮るだけのツアーをするって選択肢もあったんだけど、それだと整合性が取りづらくなるの。服や髪型の乱れとか、何なら疲れ具合まで自然に演じてもらわないといけない」
まだ受けたわけでもないのに、藤からはレポートのようにすらすらと説明が述べられていく。聞き流している中で、なるほどこの相談は不特定多数の人間にはできないだろうなと思った。「私の容姿が美しいから困っている」と言っているようなものだ。
「と言うわけで早速、明日お願いしたいんだけど」
「なんで俺なんだよ」
俺は、フリを頼まれた時点からずっと思っていた言葉をそのままぶつけた。彼氏の代役を一日デート券としてチラつかせれば、なびく男は山のようにいるだろう。権利をかけて争わせれば男たちの屍の山を築くことも藤ならできる。それが比喩表現ではないほど、彼女には美貌とカリスマ性がある。
本来なら、たった一人の男に付きまとわれたくらいで狼狽える奴ですらないのだ。
「何が目的だ」
「目的はさっき言った通りけん制。それ以外にない。それに、もしこの場で別の理由がある、なんて言ったら、あなたどうするの?」
そう言われ、俺は言葉に詰まってしまう。確かにこの質問は墓穴だった。その追及は、お前は俺に気があるんじゃないか? という質問に他ならない。ふふっ、と笑う藤のしたり顔が気に食わないが、この申し出を無下にする必要もない、とどこかで考えている自分も確かにいた。
「彼女は男の精気を吸いとり若さを保ち続けている妖怪であり、被害者は初めからこの世に居なかったように処理されてしまう」という噂が広まるほど、藤には男の影がなかった。逞しい妄想力だと一蹴してしまえるような話を肯定も否定もせず、力を持たせてしまえるのが藤の強さだ。故に、藤の人生という舞台にはチケットが存在しない。彼女自身に招かれるか招かれないか、ただそれだけが、彼女の近くに居られるかどうかの分かれ道だ。
俺が黙りこくっていると、スポットライトのように熱い藤の手が俺の手を握りこんでくる。顔が赤くなっていくのを、いやでも自覚してしまう。
「お願い、できない?」
頭の中がさらに煩くなる。それは彼女に選ばれなかったすべての男たちの怨嗟の声のようでもあった。
「わかった、やるよ」
怨嗟をかき消すように答えると、藤は唇の端に微笑をたたえて、そっと手を離して言った。
「ありがとう。詳細は今日中にスマホに送るわ」
そう言って彼女は席を立ち、俺が剥いたバーの空き袋をくしゃっと握りこんで「捨ててきてあげる」と去っていった。
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