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2虚構
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呼吸が乱れて、息が苦しかった。めまいがする。胃の辺りが気持ち悪い。亜紀は、床に体を突き伏せた。
しばらくすると呼吸が落ち着いた。
亜紀はゆっくりと体を起こしてスマホを握り直した。
もう一人の友人、川田友里にも、亜紀はいきなり電話せずにメールを送った。メールにしたのは、早苗とは別の理由だ。
友里は総合病院で看護師をしている。高校の時から今でも変わらず彼女がスラリと細いのは、仕事が激務であるのも一因だろう。今は仕事中かもしれないし、夜勤明けで寝ているかもしれない。
【今、仕事中?】
確認のメールを入れた。
すぐに返事は来ないが、友里の場合はいつものことだ。その日のうちに返事がくればいい方。遅い時には二、三日後になることもある。
友里が結婚したのは28歳の時。若いころから子宮内膜症を患っていた彼女は、結婚と同時に不妊治療を始めた。その後妊娠したという話は聞いていない。現在も治療中のはずだ。
友里が不妊治療を始めたばかりのことだ。
「結婚して3年も赤ちゃん出来ないなんて、それ不妊症だよ。早く治療した方がいい。病院紹介するよ」と言われて、亜紀はショックを受けた。薄々感じてはいたが、なにもそんなにはっきり言わなくても、と友里のことを疎ましく思った。
高校卒業後、亜紀は自動車や家電の金型を作っている会社に就職し、経理を担当していた。従業員十人未満の小さな会社だった。
産休の制度はあったもののそれは形式だけで、出産すれば退職しなければならない雰囲気が漂っていた。実際、女の先輩たちは出産を機に皆退職していった。
亜紀は25歳の時、結婚と同時に会社を退職した。結婚すれば、どうせすぐに子どもが出来ると思っていたのだ。
だが、1年経っても2年経っても妊娠の兆候はなかった。
孝之も両親もなにも言わなかったが、子どももいないのに仕事をしていないことをうしろめたく感じていた。早まって会社を辞めたことを後悔した。
流産を繰り返す早苗が「妊娠はできるんだけどね」とその言葉を繰り返すたび、あなたは妊娠すらできないと蔑まれているような気がした。もちろん、他意はないことはわかっていた。
しかし、その頃の亜紀は周りの何気ない一言に傷ついてばかりいた。
そんな時に「亜紀は不妊症だ」と宣言した友里の言葉は、亜紀にとって衝撃が大きかった。
友里に勧められても、いっこうに不妊治療に通わない亜紀に「子どもいらなの?」と尋ねる早苗も無神経だと感じた。
子どもは欲しかった。心から待ち望んでいた。
基礎体温をつけたり、妊婦に必要とされる葉酸のサプリを飲んだり、やれることは全部やった。子宝神社にお参りにも行った。妊娠するための方法をネットで検索しまくり、知識だけが増えていった。
それでも生理は毎月規則正しくやってきた。トイレで赤い血を見るたび、涙が出た。努力してもどうにもならないことがあると思い知らされた。
諦めたらできたという話をよく聞いたが、諦めることなんてできなかった。毎日赤ちゃんのことばかりを考えていた。
だが、亜紀にとって20代で婦人科の門をくぐるにはハードルが高すぎた。それでも30歳になったら、一通りの検査くらいはしておこうと決心した矢先に、そらを授かったのだ。
強く握りしめていたスマホが振動した。手の平に汗が滲んでいた。
友里からのメールだった。
【おはよー。夜勤明けで今起きたとこ。今日は休みだから暇してまーす】
【今、電話しても平気?】
亜紀はすぐにメールを送った。
【平気だよ。なんか大事な話とか?】
【うん。さすが友里。鋭いっ】
電話すればいいのに、勇気が出なくて亜紀はメールで返信した。
メールだと、つい冗談めかしてしまう。深刻な話などメールではできない。
【ちょうどよかった。実は私も話があるんだ】
友里から返信が来た。
【なんの話?】
すぐに返事が来なかった。
亜紀はなんだか嫌な予感がした。
まさか、妊娠したのだろうか。
先に妊娠報告でもされたら、そらのことを話しづらくなる。平静を装っておめでとうを言える自信もなかった。
じっとスマホの画面を見つめて待ったが、友里から返信がこない。
友里が不妊治療を始めてから2年が経っている。友里が話したいことと言ったら、やはり妊娠以外にないような気がしてくる。
亜紀はメール画面を閉じた。
そのまま電源を切ってしまおうか迷った。
だが、亜紀はスマホの画面に友里の名前を表示させる。
通話マークをじっと見つめた。鼓動が速くなっていく。
亜紀が通話マークに触れようとした時、スマホが振動した。画面が着信表示に切り替わる。
友里から電話がかかってきたのだ。
亜紀は一瞬迷ったが、自分から連絡した以上無視するわけにもいかなかった。
「もしもし」
意外にも明るい声が出て、亜紀は驚いた。
「亜紀、元気?」
少しハスキー気味の友里の声が耳元ではじける。普段から快活なしゃべり方だが、今日はいつも以上にテンションが高い。
「うん、元気だよ」
嘘だった。
だが、亜紀は笑っていた。
無理にでも笑っていなければ、そらのことを話せそうになかった。
「話ってなに?」
友里が単刀直入に聞いてくる。
「うん、あのね……赤ちゃん、死んじゃったの」
そこまで言って、涙が溢れた。右の頬がピクピク痙攣する。亜紀は涙をこぼしながら、顔にひきつった笑いを浮かべていた。
「死んじゃったんだよぅ」
亜紀はしゃくりあげるように言った。
しばらく間が空いた。
「亜紀、大丈夫?」
ためらいがちな、友里の声が聞こえた。
友里は亜紀の話を、うん、うんと静かに聞いてくれた。友里も泣いているようで、時々鼻をすする音が聞こえた。
「あのね、亜紀」
友里の声が、妙に明るく聞こえた。
「なんの慰めにもならないかもしれないけど、実は私……」
電話の向こうから深呼吸するような音が聞こえた。
「もう3、4か月前から生理がないんだ」
「えっ」
涙が一気にひいた。
友里の話というのは、やはり妊娠報告だったのか。
亜紀は愕然とした。頭の中が混乱した。慰めと言った? 友里は慰めと言ったの? そらが死んだ代わりに友里が身ごもったことが?
友里はなぜ、亜紀の話の直後にこんなことが言えるのか。薄暗い気持ちが、お腹の底でとぐろを巻く。
「あのね、亜紀。実はわたし」
嬉しそうな友里の声が、鋭利な刃物となって亜紀の心臓を突き刺す。刃物の先端が、何度も何度も亜紀の心臓をえぐる。
「ねえ亜紀、聞いてる?」
亜紀は胸を押さえた。自分の胸から刃を抜き取り、友里のお腹に突き刺してやりたい衝動にかられた。
「ごめん友里。ちょっと気分が悪くて」
「大丈夫?」
「今はちょっと友里の話聞けない。悪いけど、また今度にしてくれる?」
亜紀はつとめて明るく言った。
「うん、わかった。こっちこそごめんね、こんな時に」
友里の声は残念そうだった。
亜紀も、そらを身ごもった時は嬉しさのあまり、ありとあらゆる友人に妊娠を報告しまくった。
だから、友里の喜びは想像できる。だけど、友里と気持ちを共有することはできない。
さっきまで友里は、亜紀の話をあんなに真剣に聞いているフリをしていた。そう、あれは全部、フリだったのだ。
泣いているように聞こえたのも、ひょっとしたら演技だったのかもしれない。たとえ友里が亜紀の気持ちを少しは想像できたとのだとしても、所詮は他人事なのだ。
電話を切るとお昼の12時を回っていたが、ちっとも食欲が沸いてこなかった。
「先に夕飯の買い物に行ってこようかな」
そらを失った哀しみに浸る間もなく、孝之は毎日仕事に行っている。孝之のために、せめて夕飯くらいは作らなければならない。
「そらちゃん、ママちょっと出かけてくるね。いい子にしてるんだよ」
亜紀は薄く笑って骨壺をなでた。
しばらくすると呼吸が落ち着いた。
亜紀はゆっくりと体を起こしてスマホを握り直した。
もう一人の友人、川田友里にも、亜紀はいきなり電話せずにメールを送った。メールにしたのは、早苗とは別の理由だ。
友里は総合病院で看護師をしている。高校の時から今でも変わらず彼女がスラリと細いのは、仕事が激務であるのも一因だろう。今は仕事中かもしれないし、夜勤明けで寝ているかもしれない。
【今、仕事中?】
確認のメールを入れた。
すぐに返事は来ないが、友里の場合はいつものことだ。その日のうちに返事がくればいい方。遅い時には二、三日後になることもある。
友里が結婚したのは28歳の時。若いころから子宮内膜症を患っていた彼女は、結婚と同時に不妊治療を始めた。その後妊娠したという話は聞いていない。現在も治療中のはずだ。
友里が不妊治療を始めたばかりのことだ。
「結婚して3年も赤ちゃん出来ないなんて、それ不妊症だよ。早く治療した方がいい。病院紹介するよ」と言われて、亜紀はショックを受けた。薄々感じてはいたが、なにもそんなにはっきり言わなくても、と友里のことを疎ましく思った。
高校卒業後、亜紀は自動車や家電の金型を作っている会社に就職し、経理を担当していた。従業員十人未満の小さな会社だった。
産休の制度はあったもののそれは形式だけで、出産すれば退職しなければならない雰囲気が漂っていた。実際、女の先輩たちは出産を機に皆退職していった。
亜紀は25歳の時、結婚と同時に会社を退職した。結婚すれば、どうせすぐに子どもが出来ると思っていたのだ。
だが、1年経っても2年経っても妊娠の兆候はなかった。
孝之も両親もなにも言わなかったが、子どももいないのに仕事をしていないことをうしろめたく感じていた。早まって会社を辞めたことを後悔した。
流産を繰り返す早苗が「妊娠はできるんだけどね」とその言葉を繰り返すたび、あなたは妊娠すらできないと蔑まれているような気がした。もちろん、他意はないことはわかっていた。
しかし、その頃の亜紀は周りの何気ない一言に傷ついてばかりいた。
そんな時に「亜紀は不妊症だ」と宣言した友里の言葉は、亜紀にとって衝撃が大きかった。
友里に勧められても、いっこうに不妊治療に通わない亜紀に「子どもいらなの?」と尋ねる早苗も無神経だと感じた。
子どもは欲しかった。心から待ち望んでいた。
基礎体温をつけたり、妊婦に必要とされる葉酸のサプリを飲んだり、やれることは全部やった。子宝神社にお参りにも行った。妊娠するための方法をネットで検索しまくり、知識だけが増えていった。
それでも生理は毎月規則正しくやってきた。トイレで赤い血を見るたび、涙が出た。努力してもどうにもならないことがあると思い知らされた。
諦めたらできたという話をよく聞いたが、諦めることなんてできなかった。毎日赤ちゃんのことばかりを考えていた。
だが、亜紀にとって20代で婦人科の門をくぐるにはハードルが高すぎた。それでも30歳になったら、一通りの検査くらいはしておこうと決心した矢先に、そらを授かったのだ。
強く握りしめていたスマホが振動した。手の平に汗が滲んでいた。
友里からのメールだった。
【おはよー。夜勤明けで今起きたとこ。今日は休みだから暇してまーす】
【今、電話しても平気?】
亜紀はすぐにメールを送った。
【平気だよ。なんか大事な話とか?】
【うん。さすが友里。鋭いっ】
電話すればいいのに、勇気が出なくて亜紀はメールで返信した。
メールだと、つい冗談めかしてしまう。深刻な話などメールではできない。
【ちょうどよかった。実は私も話があるんだ】
友里から返信が来た。
【なんの話?】
すぐに返事が来なかった。
亜紀はなんだか嫌な予感がした。
まさか、妊娠したのだろうか。
先に妊娠報告でもされたら、そらのことを話しづらくなる。平静を装っておめでとうを言える自信もなかった。
じっとスマホの画面を見つめて待ったが、友里から返信がこない。
友里が不妊治療を始めてから2年が経っている。友里が話したいことと言ったら、やはり妊娠以外にないような気がしてくる。
亜紀はメール画面を閉じた。
そのまま電源を切ってしまおうか迷った。
だが、亜紀はスマホの画面に友里の名前を表示させる。
通話マークをじっと見つめた。鼓動が速くなっていく。
亜紀が通話マークに触れようとした時、スマホが振動した。画面が着信表示に切り替わる。
友里から電話がかかってきたのだ。
亜紀は一瞬迷ったが、自分から連絡した以上無視するわけにもいかなかった。
「もしもし」
意外にも明るい声が出て、亜紀は驚いた。
「亜紀、元気?」
少しハスキー気味の友里の声が耳元ではじける。普段から快活なしゃべり方だが、今日はいつも以上にテンションが高い。
「うん、元気だよ」
嘘だった。
だが、亜紀は笑っていた。
無理にでも笑っていなければ、そらのことを話せそうになかった。
「話ってなに?」
友里が単刀直入に聞いてくる。
「うん、あのね……赤ちゃん、死んじゃったの」
そこまで言って、涙が溢れた。右の頬がピクピク痙攣する。亜紀は涙をこぼしながら、顔にひきつった笑いを浮かべていた。
「死んじゃったんだよぅ」
亜紀はしゃくりあげるように言った。
しばらく間が空いた。
「亜紀、大丈夫?」
ためらいがちな、友里の声が聞こえた。
友里は亜紀の話を、うん、うんと静かに聞いてくれた。友里も泣いているようで、時々鼻をすする音が聞こえた。
「あのね、亜紀」
友里の声が、妙に明るく聞こえた。
「なんの慰めにもならないかもしれないけど、実は私……」
電話の向こうから深呼吸するような音が聞こえた。
「もう3、4か月前から生理がないんだ」
「えっ」
涙が一気にひいた。
友里の話というのは、やはり妊娠報告だったのか。
亜紀は愕然とした。頭の中が混乱した。慰めと言った? 友里は慰めと言ったの? そらが死んだ代わりに友里が身ごもったことが?
友里はなぜ、亜紀の話の直後にこんなことが言えるのか。薄暗い気持ちが、お腹の底でとぐろを巻く。
「あのね、亜紀。実はわたし」
嬉しそうな友里の声が、鋭利な刃物となって亜紀の心臓を突き刺す。刃物の先端が、何度も何度も亜紀の心臓をえぐる。
「ねえ亜紀、聞いてる?」
亜紀は胸を押さえた。自分の胸から刃を抜き取り、友里のお腹に突き刺してやりたい衝動にかられた。
「ごめん友里。ちょっと気分が悪くて」
「大丈夫?」
「今はちょっと友里の話聞けない。悪いけど、また今度にしてくれる?」
亜紀はつとめて明るく言った。
「うん、わかった。こっちこそごめんね、こんな時に」
友里の声は残念そうだった。
亜紀も、そらを身ごもった時は嬉しさのあまり、ありとあらゆる友人に妊娠を報告しまくった。
だから、友里の喜びは想像できる。だけど、友里と気持ちを共有することはできない。
さっきまで友里は、亜紀の話をあんなに真剣に聞いているフリをしていた。そう、あれは全部、フリだったのだ。
泣いているように聞こえたのも、ひょっとしたら演技だったのかもしれない。たとえ友里が亜紀の気持ちを少しは想像できたとのだとしても、所詮は他人事なのだ。
電話を切るとお昼の12時を回っていたが、ちっとも食欲が沸いてこなかった。
「先に夕飯の買い物に行ってこようかな」
そらを失った哀しみに浸る間もなく、孝之は毎日仕事に行っている。孝之のために、せめて夕飯くらいは作らなければならない。
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