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3 まるで美しいおとぎ話

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 早く家に帰りたかった。

 学校の帰り道、麻衣ちゃんと別れてから、わたしはずっと走っていた。

 プールで大きな波を見てから、心の中がざわざわする。

 アスファルトから熱気が上がってくる。ランドセルをしょった背中は汗でびっしょりだけど、走る速度はゆるめない。

 遠くで波の音がする。家に近づくほど、生ぬるい潮風のにおいが強くなって、心を落ち着かせてくれた。

 ある理由があって、わたしは幼稚園児の頃に、東京から海辺のまちに引っ越してきた。

 道路から続く階段を少し上ったところに、1階がガラス張りのお店がある。扉には、青い飾り文字で『マーメイドカフェ』と書かれている。

 勢いよく扉を開けると、チリンチリンと風鈴みたいな音がした。店の中は香ばしいコーヒーの匂いがする。

 海をイメージした青い壁紙に、白い丸テーブルが五つ。それぞれのテーブルの真ん中には、大きな貝殻のオブジェが置いてある。

 わたしのお父さんとお母さんは、海辺のこのまちでカフェを開いている。そして、ここがわたしの家。わたしたちは、お店の2階に住んでいる。

 いつもは、お店を通らないで、店の横にある玄関から直接2階に行く。

 でも今日は、このまま自分の部屋に向かって、一人きりになるのが嫌だった。

「ただいま」

 お客さんが二組いたから、小さな声で言った。

「桜、おかえり」

 コーヒー豆をひいていたお父さんが、微笑んだ。ウエーブのかかった茶色い髪に、優しそうな目をした、わたしの自慢のお父さん。

「おかえりなさい」

 店の奥から、お母さんが顔を出した。巻き貝のように、頭のてっぺんでクルクルとアップにした髪。白地に真紅のバラ柄のエプロンは、華やかな顔立ちのお母さんによく似合っている。

「お店がすいたら、後でおやつ持って行ってあげるから、2階で待っていてね。新作のパフェよ」

 お母さんが、わたしの耳元でささやいた。

「うん、わかった」

 本当はお店で食べたかったけど、お客さんがいるから仕方がない。素直に2階に行くことにした。

 ランドセルをおろして、部屋着に着替えた。暑苦しい長ズボンを脱ぎ、短パンを履く。

 リビングのソファに足を投げ出した。まっすぐに伸びた、健康的な足。わたしは、自分の足をそっとなでた。

 小さくため息をつき、ソファから転がり落ちるようにして、そのまま床にベタッと座る。

 ランドセルから漢字ドリルを取り出し、ガラスのサイドテーブルの上でページをめくった。宿題をやっていると、しばらくしてお母さんが来た。

「お待たせ―。桃のパフェよ。桃を丸ごと一つ使っているの」

 お母さんが、パフェのグラスをサイドテーブルの上に置いた。

 カットされたみずみずしい桃が、お花のように並んでいる。真ん中にはたっぷりのホイップクリームにミントの葉っぱ。

「かわいい!」

 グラスを引き寄せ、さっそくフォークで、ホイップクリームのついた桃を口に運ぶ。さっぱりとした甘みが口いっぱいに広がる。

「おいしい!」

 わたしの一言に、お母さんは安心したようにうなずいた。

「今日、プールの授業は大丈夫だった?」

 二つ目の桃を口に入れながら、わたしは足をなでた。

「浩太くんに水をかけられて、ちょっと危なかった」

「誰かに、見られたりした?」

 お母さんが、心配そうに聞いてくる。

「多分、大丈夫。誰にも見られていない」

「よかった。お母さんも、プールの時間がすごく嫌だったから、桜の気持ちがよくわかるわ」

 お母さんが、わたしの頭をポンポンと優しく叩く。

「でも、お母さんはわたしよりマシじゃん。水につかっても、うろこが生えるだけだもん」

そう言って、わたしは口をとがらせた。

「わたしなんか、足が完全に魚の尾になっちゃうんだよ。本当に人魚の姿になっちゃうんだもん。そんなの見られたら、もうおしまいだよ」

 こんなこと言ったら、お母さんが傷つくのはわかっている。でも、他に気持ちをぶつけられる人がいないんだから、仕方がない。

 お母さんの顔を見ることができずに、うつむいて桃をフォークでつつく。

「こんな風に生んで、ごめんね」

 声でわかる。お母さんはきっと泣いている。

 いくらお母さんに八つ当たりしても、なにも変わらない。でも、わたしは繰り返し同じことを言ってしまうし、お母さんは何度だって同じことを言う。

「でも、お母さんは桜が世界で一番大切なの。生まれてきてくれて、本当に嬉しいのよ」

 お母さんが、ゆっくりと優しい声で言った。

 わたしには、マーメイド、つまり人魚の血がほんの少しだけ流れている。

 むかし、むかし、人魚の娘が、人間の男の人と恋に落ちて結婚しました。

 まるで美しいおとぎ話みたい。

 でも、現実はそんなにいいことばかりじゃない。

 確かに、人魚の娘と人間の男の人、二人は幸せだったかもしれない。

 けど、その子どもはどうだった? その孫は? 時が経てば経つほど、人魚の血を受け継いでいく人はものすごい数になっていく。

 そうやって、ずっとずっとずっとずーっと後に生まれた子孫の一人がわたし。

 純粋な人魚は遠い昔に絶滅しちゃったらしいけど、人魚の血を受け継いでいる人は、きっと今も世界にたくさんいる。みんな本当のことを隠して生きているから、なかなかそうとはわからないけど。

「お父さんと結婚したのが間違いだったのかな」

 お母さんが、ポツリと言った。

「そうかもね」

 意地悪だと思いながらも、そう答えてしまう。

「お父さんと出会ったときは、やっとお母さんのことを理解してくれる仲間に会えたと思ったの」

「お父さんにも、マーメイドの血が流れていたから?」

 チラッとお母さんの顔を見たら、ほおに涙が流れた跡があった。

「奇跡だと思ったわ。マーメイドの血をひいている人に出会えるなんて。でもお父さんは、水に濡れても腿のところにうろこが5枚生えてくるだけでしょ」

「マーメイドの血は薄いよね」

「だから、大丈夫だって思ったの。わたしたちの子どもは、マーメイドの血がもっと薄くなる。そう信じていた」

 わたしは、さっきからフォークでつついていた桃を口に入れた。たいしてかまずに、ゴクンと飲みこむ。

「で、生まれたのがわたし。マーメイドの血が入っている人同士が結婚すると、こうなっちゃうんだね」

「結婚しちゃ、いけなかったのかもね……でも、お父さんと結婚してなければ、桜は生まれなかった。お母さんは、桜には会えなかった。そんなの絶対にいやよ」

 お母さんが、わたしの頭をなでる。小さな子供のように扱われて、照れくさい。

「人に隠しているくせに、マーメイドカフェなんて名前、変なの。わたしたち、マーメイドですって言っているようなもんじゃん」

 ぶっきらぼうに言う。ずっと前から思っていたけど、今まで口にしたことがなかった。

「上手に生きていくためには、マーメイドの血が流れていることは隠している。でもね、お父さんもお母さんも、マーメイドの血が流れていることに誇りを持っているの」

「だから、わたしにも誇りを持てって言いたいの?」

 イラッとして、わたしはお母さんの手を振り払った。

「だから桜もとは言わない。お父さんとお母さんの気持ちをわかってとも言わない。桜は桜らしく生きてくれればいいから」

 わたしは、そっぽを向いた。

 どうしてお母さんは、マーメイドにこだわるんだろう。

 わたしの名前は、春に咲く桜の花からとったのではない。淡いピンク色をした桜貝の桜。

 お母さんの胸元には、小さな桜貝のペンダントが揺れている。いつも肌身離さず身に着けているお守りだ。

 お母さんが子どもの頃から大切にしている桜貝のお守りが、わたしを流産の危険から守ってくれたんだとお母さんは信じている。

 むかし、マーメイドたちが住んでいたという海は、心を落ち着かせてくれる。

 でも、わたしは海を心からは好きになれない。心のどこかで、どうしようもなく魅かれるのに、反発してしまう自分がいる。

 だからと言って、2本の足で大地を歩き、空気を吸って生きていくことが、わたしにはどうしようもなく苦しい。

 苦しくて、苦しくてたまらないんだ。

 海にも戻れない。陸にも上がれない。

 誰か、助けて。時々、どうしたらいいのかわからなくて、叫びたくなる。

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