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「おまたせしました」

 店員が熱々の湯気を昇らせた食事をテーブルに並べる。

 菜月は姿勢を正し、口を真一文字に閉じて、店員の並べる食事を見守っている。

 店員がいなくなると瑞穂は体の緊張をほぐし、いたずらっぽく笑った。

「話は後にして、温かいうちに食べよっか?」

「そうだね」

 菜月もフォークを手に取り、パスタを絡めた。

 もちろん食事をしながら話してもいいが、そんな気楽な内容ではなさそうだ。かといって、当たり障りのない会話をするような雰囲気でもなかった。

 二人とも黙々と食事を口に運び、10分もしないうちに食べ終わった。

「あー、おいしかった」

 菜月はコーヒーを一口飲んで一息つくと、さっと表情を引き締めた。周辺の客をチラチラと気にしながら、前屈みになって顔を瑞穂の方に寄せる。

「瑞穂の住んでいる隣の102号室。1年前に児童虐待による死亡事件があったの」

 菜月が声のトーンを落とす。

「死亡事件……」

 瑞穂は息を飲んだ。動悸を抑えるように、胸に手を当てる。

「そう。当時4歳の女の子が、お風呂で熱湯をかけられた後に、浴槽に沈められて窒息死。実際に殺したのは、母親の再婚相手。女の子の継父ね」

「えっ」

 瑞穂は思わず声が大きくなってしまった。

 周りの客が、チラッと瑞穂の方に視線を配るのが見えた。

 菜月が唇の前で人差し指を立てる。

 瑞穂はうなずきながら、ゴクンと唾を飲みこんだ。気持ちを落ち着かせようとしても、心拍数は上がっていく。昨日リナから聞いた話と酷似しすぎている。

「父親は1年前に子どもを死なせたのと同じ部屋で、今も他の子を虐待し続けているってこと?」

 まるで呪いのように、虐待が繰り返される102号室。瑞穂は身震いした。

 菜月は真剣な目をして、首を横に振った。

「女の子は亡くなった。その時まだ赤ん坊だった弟は施設に預けられ、両親はおそらくまだ服役中」

「じゃぁ、今は別の人が……」

 瑞穂が言いかけると、菜月はそれを遮るように言った。

「102号室ね、あの事件があってから今まで、ずっと空き部屋なの。だから瑞穂の通報は、悪戯なんじゃないかって言われている」

「そんなはずは……」

 瑞穂は声が掠れて、言葉が続けられなかった。

「児童相談所は虐待を把握していながら、女の子の命を救えなかった。あの事件以降、悪戯まがいの苦情の電話がものすごく増えたの」

「違う、悪戯なんかじゃ……。わたし本当に……」

「わかってる。そういう電話をする人は、大抵匿名だから。だけど、瑞穂は住所と名前を名乗った。もちろんわたしは、瑞穂が嘘をつくような子じゃないことは知っている。でも客観的に考えても瑞穂は嘘をついていない。」

 菜月がそう言ってくれて、瑞穂はほっと息をついた。

「じゃぁ、あの日瑞穂が聞いた女の子の悲鳴はなんだったのか。そこが問題よね」

 瑞穂は腕を組んだ。

「ねぇ菜月。亡くなった女の子の名前ってなに?」

「綾瀬里奈ちゃん」

 瑞穂はそう言った後に、「女の子の名前も、この辺に住んでいる人ならみんな知っているから」と業務上知りえた事実ではないことを付け加えた。

「今日相談室に行った時に担当者に話したんだけど、わたし昨日、実際に102号室の女の子に会っているの。その子の名前もアヤセリナちゃんだった」

 菜月が不審そうに眉を寄せた。

 瑞穂は相談室で話した内容を、菜月にも同じように伝えた。

「その子、死んでなんかいない。まだ生きて、お母さんが帰ってくるのを待っているの」

 リナはお風呂に沈められた時に、苦しくて目の前が真っ暗になったと言っていた。おそらく気を失ったのだろうと、瑞穂は考えた。リナの意識が戻った時には、家に誰もいなくなっていた。だからずっとお母さんの帰りを待っていると、リナは言っていたのだ。

 瑞穂の意見に、菜月はため息をつきながら首を横に振った。

「そんなはずはない。女の子は司法解剖もされて、火葬もされている」

「なんかの間違いで生き残った女の子が、あの部屋に取り残されてしまったなんてことない?」

「そんなこと、あり得ると思う?」

 質問する瑞穂に、逆に質問で返されてしまった。

「ありえない……か」

 では瑞穂が会ったリナは、一体どこの誰だったのだろうか。

「わたしが会ったリナちゃんは、他の部屋に住む別の子だったって可能性はないかな」

 瑞穂は自信なげに呟いた。

「それもないと思う」

 菜月がバッサリ切る。

「あのアパートは、あの事件以降、大抵の人が引っ越してしまって空き部屋が多いの。事件後も残っているのは経済的に引っ越せない人か、そういうの全く気にしない人の数人かな。残っているのは全員独身者で、子どもが住んでいる部屋はないらしいの」

「菜月詳しいね」

「うちのお母さん、井戸端会議が大好きで情報収集能力が半端ないんだよね。これ全部お母さんから聞いた話だから、まあ噂話の範囲を出ないんだけど……」

 そう言って菜月は、いたずらっぽくはにかんだ。

「じゃぁあの女の子は誰なの?」

 呟く瑞穂に、深刻そうに菜月が言った。

「本当に102号室の、綾瀬里奈ちゃんなのかも」
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