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37.最後の冷ややっこ

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 そこは、病院の個室だった。
 清子は、あかりも付けず、信二のかたわらで、スマホを操っている。
 紘一へのメールを打っているのだった。
 暗い部屋の中で、画面に照らされた清子の顔は、急に年を取ったように見えた。
「おとうさんが、」
 そこまで文字を打って、清子は途方に暮れていた。
 清子がスマホを握って、どのくらい経つのだろう。
 ずっと、その先の文字が、打てなかった。
 紘一に何と伝えるべきなのか、清子にはわからなかった。
 今日は、紘一は、東京で、出版社と打ち合わせをしているはずだ。
 (紘一が珍しく日本にいる日に亡くなるなんて)
 (あなた。よっぽど、紘一に会いたかったのね)
 と、思った清子は、顔を上げて、信二の寝顔を見た。
 そう、清子には、信二が眠っているようにしか、見えなかった。
 心地よい夢でも見ているように、微笑んでいるようにさえ、見えた。
 (あなたが死んだことが、信じられない)
 (そんな私が、紘一に何を伝えるんだろう) 
 清子は、少し混乱しているようだった。
 その時、入り口を誰かが、ノックした。
「車の用意が、できました」
 と、看護師と介護士が入室し、手はずを整え始めた。
 自宅へと向かう、葬儀車が来たらしい。
 葬儀社の青年から、名刺をもらう。
 名刺には、「山本 武」と、書いてあった。
 慌てた清子は、先ほどから書きかけているメールを、そのまま紘一に送ってしまった。
 その間にも、葬儀社社員により、信二がひつぎに入れられる。
 山本に説明を受けている最中に、清子のスマホがメール着信の音を鳴らした。
 紘一からの返信だった。
 紘一からの返信メールには、
「わかった。すぐ帰る」
 とだけ、書かれていた。


 そのまま自宅に戻り、
「祭壇が……」
「お香典の受付は……」
 と、清子と葬儀社が相談していた時だった。
 突然、けたたましく玄関を開ける音がした。
 居間に入ってきたのは、紘一だった。
「ただいま」
 とも言わず、葬儀社への挨拶あいさつもせず、まっすぐ父親のひつぎに向かう。
「すみません。またあとで」
 と、清子は、葬儀社の山本に席を外してもらった。
 息子と父親の悲しみの対面を察知した、山本は黙って部屋を出て行ってくれた。
 しかし、清子は紘一の手に、何かビニール袋が握られているのを見た。
 清子が不振がっていると、紘一は、そのビニール袋から豆腐パックを取り出す。
 さらに、無造作に、豆腐パックを破った。
「紘一!何してるの!」
 と、清子が叫んだ時には、右手に豆腐を載せた紘一が、ひつぎの小窓を開けた。
 そして、その小窓に豆腐ごと右手を突っ込み、
「最後の冷ややっこだぜ!親父!」
 と、叫んだ。
 慌てて、清子が、ひつぎの中を覗くと、紘一は、信二の頬に冷たい豆腐をピタピタと当てていた。
 清子が、唖然あぜんとした表情で、紘一を見た。
 紘一は、てのひらの豆腐をプルプルと揺らして見せた。
 その時の紘一の顔は、満面の笑顔だった。
 その様子が、あまりにもおかしく、いつしか清子も笑っていた。
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