守るべきモノ

神崎

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柑橘

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 政近が倫子の手を引くようにしてやってきたのは、「戸崎出版」の近くにある、貸しオフィスだった。こういうところは時間で決められるし、パソコンもあるし、いきなり来ても貸してくれるところが多いのだ。
 情報を外部に漏らしたくないと、個室のところを借りる。二、三人用のテーブルやパソコンは一台備え付けであるが、これから練り直しなのでまだパソコンは必要ない。
「この、第一の殺人のところだけど、もう少しこの残された人たちの心理描写を表現するべきかしら。」
「そうだな。そっちの方が個々の性格もはっきりする。」
 倫子はわざと先ほどまでのことを口にしないようだ。真矢と会ったのは、倫子を動揺させている。なのに全くそれについて口にしようとしない。
「時系列はそのままで良いかしら。」
「殺害方法の変更は出来ないから、それでいいと思う。」
 政近も倫子も仕事のことだけしか考えないようにしているようだ。そうではないと余計なことを考えてしまう。
 そのときだった。倫子の携帯電話がなる。それを手にすると、メッセージのようだった。伊織からのモノで、今日は食事が作れなくなったので各自で食べてきてほしいということだ。
「食べてくる?」
 伊織も誰かと食べてくるのだろうか。真矢と一緒に帰っていた。真矢とあのまま仲良く食事をするのだろうか。倫子の頭の中にもやっとしたモノが駆けめぐる。
「どうした。」
「今日は食事を用意しないから、食べてきて欲しいって。」
 こんな日は亜美の所にでも行って、お酒を飲みたい気分だ。だが飲んでもあまり酔っぱらうことはないので、やけ酒にしても意味がない。
「飲みに行くか。」
「冗談。あなたと飲んでどうするのよ。」
「いいじゃん。たまには外飲み。いい店があるんだよ。」
「ここで飲んでどうするの。帰れなくなるじゃない。」
「帰らなくていいじゃん。」
 そのことはに倫子は少しため息を付く。
「仕事したいわ。」
「……割と本気なんだけど。」
「え?」
「返したくないってこと。」
「……。」
「言ったじゃん。お前のこと好きだって。」
「私は好きじゃない。」
 倫子はそういって修正の跡が沢山ある紙を手にする。するとその手に政近が触れた。
「たぶん、俺、初めてだよ。こんなに渡したくないとか、お前のことしか考えられないの。」
「……私は違うから。」
 そういって手を離そうとした。だがふりほどこうとすればするほど、政近は手を握ってくる。
「俺の家に来るか。」
「嫌。話聞いてた?あなたのことは仕事の間柄。」
「藤枝さんの代わりだろ?」
 すると倫子はむっとしたように思いっきり手を振り払う。
「あなたが勝手にそうしてきただけ。」
「違うね。お前も求めてたじゃん。」
「……。」
「あの香水。たまに付けてるだろ?」
「部屋でよ。」
 懐かしい匂いがした。柑橘系の匂いは、倫子が小さいときの匂いでもある。
 あの喫茶店に、毎年送られてくるみかん。相馬さんはそれをいつもジャムにしていた。みかんをマーマレードにするのには、手間がかかる。皮を灰汁抜きしないといけないからだ。
 だがそのときだけはコーヒーの匂いがする店内が、柑橘のさわやかな匂いになった。コーヒーの匂いも好きだが、あの柑橘の匂いも好きで、ある程度大きくなったら倫子も手伝っていたのだ。
「コーヒーの匂いと同じくらい落ち着くわ。」
「……。」
 そんな目を初めて見るかもしれない。おそらくそれが倫子の素の顔なのだ。いつも強がって、わがままで、妥協を許さないのに、その内面はとても弱い小さな女なのだ。
「だからといって、あなたについて行きたくない。今、この状態でついて行けば、あなたに頼ってしまうから。」
「頼れよ。藤枝さんがいないときの代わりで良いって言ったのは、こっちの方だ。」
「……。」
「頼って良いよ。」
「都合の良いときだけ、あなたに頼るってあなたが言ったことよ。これ以上、あなたを都合の良い人にさせたくない。」
「上等だよ。」
 すると政近は、その手を引こうとした。そのとき政近の携帯電話が鳴る。
「電話。」
「今は良いよ。」
 手に手を重ねる。すると倫子の頬が赤くなった。さっきとは違う反応だ。
 いすを近づけて、倫子の頬に手をおこうとしたとき電話が切れた。頬に手をおいて、そのまま唇を近づけようとしたときだった。今度は倫子の電話が鳴る。
 思わず倫子は政近の手を拭りきってその電話を手にする。
「はい?えぇ……。え?食事に?」
 相手は春樹だった。春樹にも伊織から食事の件のことを聞いていたのだろう。食事の用意をしていないということは、倫子も家に帰ってきていないと思ったのだ。
「政近と打ち合わせをしていたの。うん……わかった。」
 電話を切ると、倫子は政近の方をみる。
「ここに春樹が来るわ。」
「藤枝さんが?」
「打ち合わせをしているといったら、加わりたいそうよ。まぁ……春樹ならそういうと思ったけど。」
 担当者と作家は二人三脚でいないといけない。常に春樹はそういっていた。そしてそれは倫子も同じ意見だ。自分一人で書いているのではない。
 わかっているのにもやっとする。そう思いながら政近は席を離れると、自分の携帯電話をみる。そこには見覚えのない番号があった。登録もされていないところだ。
 仕事となれば、すべて受けていた政近だ。当然つてつてで、知らない番号からかかってくることもある。そしてそれはチャンスにつながることもあるのだ。
「もしもし……はい。そうですけど。」
 その名前に政近は驚いたように席を立った。
「……マジですか?すぐ行きます。」
 そういって電話を切る。そして荷物をまとめ始めた。
「どうしたの?」
「打ち合わせ中止。」
「え?」
「月子がまた手首切ってな。病院に運ばれたんだ。」
 自傷の癖はなかなか拭えないらしい。
「悪いな。病院に運ばれたらしいから、すぐ行くわ。」
「まって……月子さんって病院にかかっていたでしょう?何で自傷なんか……。」
「そんなに簡単に消えるもんじゃねぇってことだろう。お前は藤枝さんと一緒にいろよ。」
「……いいえ。一緒に……。」
「これはうちの問題だから、お前には関係ねぇよ。」
「あるわ。栄輝に連絡をするから。」
 するとその携帯電話を振り払われる。床に落ちて画面が割れる音がした。
「ちょっと……何……。」
 拾い上げようとしてかがんだ倫子に、政近は住ぐ顔を持ち上げると素早く唇を重ねた。
「……ん……。」
 そして倫子を突き放して、床に座らせる。
「付いてくるんなら、藤枝さんに言えよ。あんたよりも俺の方が大事だって。」
「そんなこと……。」
「別れろよ。そんで俺のモノになれよ。付いてくるんなら、それくらいしてくれよ。」
 政近は立ち上がって荷物をまとめると、倫子を見下ろす。
「性悪女。人の心をなんだって思ってんだよ。」
 そういって政近はオフィスを出て行く。そして残された倫子は割れた携帯電話の画面のかけらを拾う。
「痛……。」
 指を切った。すると頬につっと涙がこぼれる。
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