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褐色
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約束の時間は十四時。それにあわせて伊織は会社を出ていった。バレンタインデーの今日は菓子屋やデパートも忙しいようで、町ゆく人たちもみんなそれぞれに会わせた紙袋を持っているようだ。
泉とつきあっていた時期もある。あのときは泉がクリスマスに何を用意すればいいのかと、春樹に相談していたのだという。泉には悪いことをしたと思っていた。中途半端な気持ちで泉とつきあい、泉に手を出すこともなくそして泉は離れていったのだ。
やはり自分の中では倫子を消すことは出来なかったのだ。そう思いながら、高柳鈴音の店に足を運ぶ。本店だと言うところは、ビルの中にあるのではなくちゃんとした個人店だった。店舗の後ろにには工場のような建物があり、ここでまとめて生地などを作っているのだろう。そして店舗にはいつもよりも多くの女性客がいる。チョコレートケーキを求めているのかもしれない。ここの店の売りに、チョコレートのケーキがある。クリスマスの時に食べたあのチョコレートケーキも美味しかった。洋酒を効かせていないのは泉のために、特別に用意したものだという。
店内にはいると、ふわんと甘い匂いがした。
「いらっしゃいませ。」
白い帽子と茶色のエプロンを付けた女性が、カウンター越しに迎えてくれた。
「すいません「office queen」の富岡といいます。」
「あ……はい。社長ですね。少々お待ちください。」
女性はそういって裏へ向かう。そしてしばらくすると、高柳鈴音がやってきた。だがその表情は不機嫌そのもののように見える。
「あぁ、富岡さん。」
「こんにちは。お忙しいときにすいません。」
「いいえ。こちらが及び立てしたんです。どうぞ。奥に。」
カウンターのスウィングドアを引いて、伊織を中に入れる。その間にも、店内の客が高柳鈴音だと視線を向けているようだった。
カウンターを抜けて奥に入っていく。そこにはやはり出来立てのケーキにデコレーションをしている人や、チョコレートを箱に詰めている人がいる。
「忙しそうですね。手短に離しましょうか。」
「いいえ。こっちのことですし、わざわざこっちまで足を運んでくださったんです。納得するまで話をしたい。」
何時になるのだろう。そう思いながら伊織は案内されたドアをくぐる。そこは事務室のようで、男性と女性の社員が忙しそうにパソコンをいじっていた。
その片隅にある応接間のような、テーブルとソファーに伊織を案内する。
「コーヒーでも入れましょうか。お茶が良いですか?」
「あ……だったらコーヒーで。」
「インスタントしかないんですけどね。」
鈴音はそういって自ら片隅にあるシンクからカップと瓶のコーヒーを取り出して、お湯を注ぐ。
「ミルクとか砂糖は?」
「いらないです。」
「それは良かった。」
「え?」
「ないんですよ。そう言われたら、工場に取りに行かないといけないと思っていたから。」
鈴音はそう言ってカップを二つ手にしてテーブルに置くと、向かいの席に座った。だがいつもよりも不機嫌そうに見える。
「バレンタインデーは忙しいんでしょう?」
「予約のみに絞っているんですよ。正月をあけたら予約開始にしていて、今日はその受け取りをするだけです。けどね……。」
どうやら不機嫌なのは、予約をしていなかった客が強引にケーキを買いたいと言われて、言い負かされた店員がそれを売ってしまったのだという。数に余裕があるとは言っても、突貫工事のように作らないといけない。だがこの店はこの程度だったといわれるのは本意ではない。
「そういう事ってありますよね。販売員は、ある程度言い切るくらいじゃないと出来ないでしょうし。」
「それをOK出したのが、副店長だったからですね。何をやってるんだって思って……ったく……カフェの話が流れてから、躍起になってる。」
「流れた?」
泉を引き込もうと思っていたはずだ。だが泉は「book cafe」に残る。だからその話が無くなったのだろうか。
「そうだった。富岡さんは、阿川さんと同居しているんでしょう。」
「えぇ。他にも居ますけど。」
「あの人が居てくれたら良かったのに。」
「泉が?」
「優秀ですよ。店員として。ある程度言い切るところもあるし、かといって威張っているわけでもないし、へりくだることも出来る。簡単なように見えて出来ないんです。」
「はぁ……。」
店員としては都合の良い人だと言うことだろうか。そう思いながら伊織はコーヒーに口を付けた。
「もちろん、それだけじゃないんですけどね。」
「コーヒーを入れる腕ですか?」
「かなり舌が敏感みたいです。わずかな味の違いもすぐに指摘してきた。」
それに関しては伊織も思うところがある。
「そういえば前にみんなで食事をしに行ったとき、おいしい豚足が出てきてですね。」
「豚足?」
「味を付けて煮込んで焼いているみたいな。それを再現してましたよ。得意なんだと言ってました。そういうことが。」
「料理人泣かせだ。やはり店にいて欲しかったな。あの店長が言いくるめられたかな。」
「礼二さんが?」
「条件が良かったからだとか言っていたけれど、やはりあの男が引き留めたのか。」
礼二のためにあの店にいたいと思ったのか。いや、おそらく違う。泉は男のために自分のしたいことを我慢はしない。だったら何だ。
「たぶん違いますよ。」
「違う?だったら何だと思う?」
「……そこまでのスキルが自分にないからだといってました。やることは挑戦的で、やりがいはあるかもしれない。だけど、泉は言われたことをしているだけだから、詳しいことはまだ出来ない。もっと実力が付いたら、考えてみても良いといってたし。」
「人生は一度しかないのにな。」
そんなに保守的でいいのだろうか。やってやれないことはないと思いながら、店を立ち上げた鈴音には泉が縮こまっているように見える。
「話はそれましたけど、これが頼まれたポスターの案です。」
伊織はそういってファイルを取り出した。そして数枚の紙をテーブルに置く。春らしくピンクなのか、それとも薄い緑なのかと少し悩んでいたのだ。
「ピンクはありふれていると思わないかな。」
「そうですね。春になればピンクとか淡い色が多くなるんで……がつんと目を見張るようであれば、もう少し濃い色を差し色に入れても良いと思います。」
紙を手にして、鈴音は少し笑う。
「こういうのが欲しかったんだよな。明日菜じゃ考えつかない。あれだな。明日菜と阿川さんを足して二で割ると、ちょうど良いのに。」
そういう人を知っている。明日菜のように大胆で、なのに実力があって、結果を出している。
ちらっと棚を見る。製菓の本に混じって文学作品もあった。それは、きっと鈴音が行き詰まったときに息抜きで読む本なのだろう。その中には倫子の本があった。
泉とつきあっていた時期もある。あのときは泉がクリスマスに何を用意すればいいのかと、春樹に相談していたのだという。泉には悪いことをしたと思っていた。中途半端な気持ちで泉とつきあい、泉に手を出すこともなくそして泉は離れていったのだ。
やはり自分の中では倫子を消すことは出来なかったのだ。そう思いながら、高柳鈴音の店に足を運ぶ。本店だと言うところは、ビルの中にあるのではなくちゃんとした個人店だった。店舗の後ろにには工場のような建物があり、ここでまとめて生地などを作っているのだろう。そして店舗にはいつもよりも多くの女性客がいる。チョコレートケーキを求めているのかもしれない。ここの店の売りに、チョコレートのケーキがある。クリスマスの時に食べたあのチョコレートケーキも美味しかった。洋酒を効かせていないのは泉のために、特別に用意したものだという。
店内にはいると、ふわんと甘い匂いがした。
「いらっしゃいませ。」
白い帽子と茶色のエプロンを付けた女性が、カウンター越しに迎えてくれた。
「すいません「office queen」の富岡といいます。」
「あ……はい。社長ですね。少々お待ちください。」
女性はそういって裏へ向かう。そしてしばらくすると、高柳鈴音がやってきた。だがその表情は不機嫌そのもののように見える。
「あぁ、富岡さん。」
「こんにちは。お忙しいときにすいません。」
「いいえ。こちらが及び立てしたんです。どうぞ。奥に。」
カウンターのスウィングドアを引いて、伊織を中に入れる。その間にも、店内の客が高柳鈴音だと視線を向けているようだった。
カウンターを抜けて奥に入っていく。そこにはやはり出来立てのケーキにデコレーションをしている人や、チョコレートを箱に詰めている人がいる。
「忙しそうですね。手短に離しましょうか。」
「いいえ。こっちのことですし、わざわざこっちまで足を運んでくださったんです。納得するまで話をしたい。」
何時になるのだろう。そう思いながら伊織は案内されたドアをくぐる。そこは事務室のようで、男性と女性の社員が忙しそうにパソコンをいじっていた。
その片隅にある応接間のような、テーブルとソファーに伊織を案内する。
「コーヒーでも入れましょうか。お茶が良いですか?」
「あ……だったらコーヒーで。」
「インスタントしかないんですけどね。」
鈴音はそういって自ら片隅にあるシンクからカップと瓶のコーヒーを取り出して、お湯を注ぐ。
「ミルクとか砂糖は?」
「いらないです。」
「それは良かった。」
「え?」
「ないんですよ。そう言われたら、工場に取りに行かないといけないと思っていたから。」
鈴音はそう言ってカップを二つ手にしてテーブルに置くと、向かいの席に座った。だがいつもよりも不機嫌そうに見える。
「バレンタインデーは忙しいんでしょう?」
「予約のみに絞っているんですよ。正月をあけたら予約開始にしていて、今日はその受け取りをするだけです。けどね……。」
どうやら不機嫌なのは、予約をしていなかった客が強引にケーキを買いたいと言われて、言い負かされた店員がそれを売ってしまったのだという。数に余裕があるとは言っても、突貫工事のように作らないといけない。だがこの店はこの程度だったといわれるのは本意ではない。
「そういう事ってありますよね。販売員は、ある程度言い切るくらいじゃないと出来ないでしょうし。」
「それをOK出したのが、副店長だったからですね。何をやってるんだって思って……ったく……カフェの話が流れてから、躍起になってる。」
「流れた?」
泉を引き込もうと思っていたはずだ。だが泉は「book cafe」に残る。だからその話が無くなったのだろうか。
「そうだった。富岡さんは、阿川さんと同居しているんでしょう。」
「えぇ。他にも居ますけど。」
「あの人が居てくれたら良かったのに。」
「泉が?」
「優秀ですよ。店員として。ある程度言い切るところもあるし、かといって威張っているわけでもないし、へりくだることも出来る。簡単なように見えて出来ないんです。」
「はぁ……。」
店員としては都合の良い人だと言うことだろうか。そう思いながら伊織はコーヒーに口を付けた。
「もちろん、それだけじゃないんですけどね。」
「コーヒーを入れる腕ですか?」
「かなり舌が敏感みたいです。わずかな味の違いもすぐに指摘してきた。」
それに関しては伊織も思うところがある。
「そういえば前にみんなで食事をしに行ったとき、おいしい豚足が出てきてですね。」
「豚足?」
「味を付けて煮込んで焼いているみたいな。それを再現してましたよ。得意なんだと言ってました。そういうことが。」
「料理人泣かせだ。やはり店にいて欲しかったな。あの店長が言いくるめられたかな。」
「礼二さんが?」
「条件が良かったからだとか言っていたけれど、やはりあの男が引き留めたのか。」
礼二のためにあの店にいたいと思ったのか。いや、おそらく違う。泉は男のために自分のしたいことを我慢はしない。だったら何だ。
「たぶん違いますよ。」
「違う?だったら何だと思う?」
「……そこまでのスキルが自分にないからだといってました。やることは挑戦的で、やりがいはあるかもしれない。だけど、泉は言われたことをしているだけだから、詳しいことはまだ出来ない。もっと実力が付いたら、考えてみても良いといってたし。」
「人生は一度しかないのにな。」
そんなに保守的でいいのだろうか。やってやれないことはないと思いながら、店を立ち上げた鈴音には泉が縮こまっているように見える。
「話はそれましたけど、これが頼まれたポスターの案です。」
伊織はそういってファイルを取り出した。そして数枚の紙をテーブルに置く。春らしくピンクなのか、それとも薄い緑なのかと少し悩んでいたのだ。
「ピンクはありふれていると思わないかな。」
「そうですね。春になればピンクとか淡い色が多くなるんで……がつんと目を見張るようであれば、もう少し濃い色を差し色に入れても良いと思います。」
紙を手にして、鈴音は少し笑う。
「こういうのが欲しかったんだよな。明日菜じゃ考えつかない。あれだな。明日菜と阿川さんを足して二で割ると、ちょうど良いのに。」
そういう人を知っている。明日菜のように大胆で、なのに実力があって、結果を出している。
ちらっと棚を見る。製菓の本に混じって文学作品もあった。それは、きっと鈴音が行き詰まったときに息抜きで読む本なのだろう。その中には倫子の本があった。
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