守るべきモノ

神崎

文字の大きさ
上 下
140 / 384
指輪

140

しおりを挟む
 こんなに激しく怒る泉をあまり見たことはない。あの店長の川村礼二にキスをされたときだって感情を抑えてなるべく触れないようにしていたようなのに、倫子をバカにされると我慢が出来なかったようだ。
 あまり飲まれていなかったトニックウォーターをそのままに、部屋へ帰っていったのだから。伊織は途中の自販機で、少し高めのスポーツドリンクを買って泉のあとを追った。
 そして部屋に帰ってくると泉は持っていたタオルを隅にある物干しにかけた。その間も不機嫌なようだと思う。
「泉。」
 伊織は声をかけて、泉に近寄った。すると泉は首を横に振って伊織を見上げる。
「ごめん。変に……動揺しちゃって。」
「ううん。でも、はっきりしたことがあるね。」
「何?」
「ここの土地の人はあまり倫子を良いように取ってない。変わった女だというくらいだったかもしれないな。」
「……でも火事の中で本を取りに行ったっていうの、そんなにおかしいのかしら。私がその立場でもそうしてると思う。」
「それは本に思い入れがある人の言葉だよ。」
 伊織はそういって勝っていたスポーツドリンクを泉に手渡す。
「普通の人にとってはただの本だし、そんなモノに思い入れはない。でも倫子にとっては違った意味があったんだろう。」
「……。」
「泉も?」
 すると泉は持ってきたバッグの中から、一冊の本を取りだした。それは泉がいつも肌身離さず持っている本で、泉にとって思い入れがある。
「大学に入って、普通の女子大生になろうと思ったの。メイクをしてみたり、スカートを履いたときもあった。だけど……やればやるほど変に鳴っちゃって……結局、何が正解かわからなかったの。」
「……。」
「そのとき倫子がこの本を渡してくれた。倫子がサークルで書評した本。私……いつの間にか、自分が自分らしくいられなきゃ、自由じゃないっていう枠にはめられていたのよ。」
 結局自分は枠にはめられないと生きていけなかったのだ。だから本当にしたいことを見つけたいと思った。
 バイトをしていた本屋でカフェ部門を作りたいといったとき、そこで働きたいと手を挙げたのがきっかけだった。
「美味しいって言われるのが何よりも嬉しいの。それは倫子も同じだと思う。面白かったねって言われるのが、何より大事なの。」
 伊織も同じだと思った。ここの宿の若旦那に「あなたに頼んで良かった」と言われたのは、とても嬉しかった。だがそのあとが余計だったが。
「本の力って偉大だよね。」
「一冊で人生が変わるの。母だって……一冊で変わったのよ。」
 新興宗教にはまったきっかけが本だった。本で生きることも死ぬことも選択肢を与えられるのだ。
「その本、見せて。」
「うん。」
 そういわれて泉はその本を伊織に手渡す。文庫本だと言うことは、きっとハードカバーもあるのだろう。そう思いながら、ページを開いていく。そして少し笑った。
「どうしたの?」
「この後ろ、気がついた?」
「え?」
 出版社の名前、執筆者の名前などが載っているその中に、編集人の名前が載っている。そこには藤枝春樹と書いてあった。
「春樹さん……。」
 発行年数から見ると、まだ春樹さんも入ったばかりと言ったところかな。違う部署にいたんだね。」
 おそらく倫子にしてみたら、泉に本を手渡したのは気まぐれだったのかもしれない。だが運命はどう転ぶかわからないのだ。
「……そっか……。」
 本を手渡されて、泉は少し笑う。春樹ともこんな形で縁があったのだ。
「明日、お土産を買おうよ。二人に。」
「そうだね。でも倫子は喜ぶかな。」
「どうして?」
「倫子にしたら地元のモノだろう?」
「そっか……でもほら、懐かしいとか思わないかな。」
「どうだろうね。」
 スポーツドリンクを手にして、泉はそれを口に入れる。喉がからからだったのだ。
「泉。それ、俺にもくれる?」
「うん……って言うか、伊織が買ったんじゃない。」
 そのまま伊織もそれに口を付けた。間接的にキスをしたようで、泉の頬が少し赤くなる。
「甘いね。」
「甘さ控えめって書いてあるよ。」
「俺、合成甘味料、苦手なんだよね。」
 伊織はそういってそのスポーツドリンクをテーブルに置くと、洗面所の方へ向かう。どうやら歯を磨いているようだ。寝るには早い時間だが、やはりセックスをする気なのだろうか。
 泉も歯を磨いて部屋に戻ると、伊織は布団の中に入っていた。
「もう寝るの?」
「普段使わない筋肉使ったからかな。ちょっと眠くてね。」
「……。」
 そういって電気を消そうとした。するとその手を泉が止める。
「泉?」
「ごめん。何でもないの。」
 泉はそういって電気を消す。そして羽織を脱いで、布団の中に入った。別々の布団だ。手を伸ばせば伊織がいる。なのに、伊織から手を出してくることはない。何のためにいるのかさえわからないのだ。
 酔って意識がなかったときすら隣にいたのに、今はその距離も遠い。
 そう思っていたときだった。急に隣の布団から手が入ってきた。
「え?」
 泉の手を握る手がある。それは伊織の手だ。
「……このまま。」
 すると泉はその手を握り返す。大きくて温かい手だった。そしてその手が泉をゆっくりと引き寄せる。隣の布団へ引き寄せられると、伊織は薄い明かりの中で少し微笑んでいた。
「このまま寝れると良いな。」
「……うん。」
 伊織はそういって泉の額にキスをする。泉を見下ろすと、泉は頬を赤らめていた。それが昔を思い出す。
「……泉。」
 泉を抱きしめると、泉もその体に手を伸ばす。だがそれ以上の行動はなかった。泉も伊織も普段よりも動いていたからだろう。そのまま眠りの世界へ誘われて行ってしまった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

職場のパートのおばさん

Rollman
恋愛
職場のパートのおばさんと…

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活

XD
恋愛
誰からも拒絶される内気で不細工な少年エドクは、人の心を操り、催眠術と精神支配下に置く不思議な能力を手に入れる。彼はこの力を使って、夢の中でずっと欲しかったもの、彼がずっと愛してきた美しい女性たちのHAREMを作り上げる。

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

処理中です...