守るべきモノ

神崎

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素直

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 タクシーの中でも泉は少し顔色が悪かった。やはり相当酒に弱いのに無理して飲んだのだろう。家に帰り着いてそのままトイレへ向かう。
「大丈夫?」
 嘔吐する声が聞こえる。そこまで無理をすることはないだろうに、伊織は心配そうにトイレの外で泉を待つ。
 しばらくしてトイレの流れる音がした。トイレを出てきた泉は顔色がやはり真っ青で、少し壁にもたれ掛かる。
「心配させてごめん。」
 か細くそう言うのを聞いて、伊織は泉の手を引くと泉の部屋に連れて行く。
「もう寝た方がいいね。」
 電気をつけて、布団を押入から取り出す。
「それにしてもどうして飲んだの?お酒は飲めないって言ってたのに。」
 伊織がそう聞くと、泉は座布団の上に力なく座る。
「……みんなお酒飲んでたし、自分だけ子供みたいで。」
「そんなことで大人になる訳じゃないよ。それに泉は倫子よりも大人に見えるから。」
「そんなこと無いわ。体も、考え方も子供だって自分でも思うもん。」
 いつも伊織は自分に気を使っていってくれているのだと思う。それがいつからか嫌だと思っていた。しかし伊織は掛け布団を敷くと、その上に座り泉の方を見て言う。
「処女だから、体つきにメリハリがないから、子供だとかは思ったことはないよ。」
 むしろそんな女が苦手だった。だからといって泉に引かれたわけではない。それは勘違いしないで欲しかった。
「倫子は合わない人とはつき合いたくないってわがままを言っている。でも信頼を置ける人には、相当気を許すみたいだ。今日、田島と寝ていたのでわかったよ。」
 正直驚いた。田島政近と一緒の布団で寝ていたなんて、学生時代でも考えられないことだったから。
「社会にでてみたらわかるだろう?気の合わない人も、嫌いな人も、つき合わなければいけないこともある。」
「伊織にもいるの?」
「いるよ。俺、同じ会社の事務員が苦手でね。」
 恋人がいると言っても関係無しに迫ってくる。どれだけ自分に自信があるのかと思ってしまうのだ。
「倫子は嫌な人はばっさり切るもんね。何人担当を変わって欲しいって言ってたか。」
「上司だったら気に入らなくても、つき合わないといけないよね。それが泉にも出来てると思う。」
 おそらく高柳鈴音はつき合いにくかっただろう。最初が悪かった。伊織の同僚である高柳明日菜の兄だったこともあり、どうやら明日菜に言われて嫌がらせのようなケーキを提案したのだ。倫子からズバッと言われて目を覚ましたようだが、それでもやりにくかったのは変わらない。
「……大人になっても、おっさんになっても出来ない人の方が多いよ。明らかに顔に出る人もいる。俺も出来ないこともあってね。」
「伊織も?」
「うん。そのたびに上司から注意される。あのクライアントは二度と俺に頼まないよって。」
 みんなに得意、不得意があるのだ。きっと春樹にもつき合いたくな人、つき合わなくなった人もいるのだろう。春樹は社会人としてのキャリアが長い分、伊織なんかよりももっとそう言う人は多いだろう。
 いつかそう言うことを春樹に相談したこともある。すると春樹は「付き合いたくない人、付き合いが無くなった人って言うのは、縁がなかったと思うようにしてる。一人で出来ることって言うのは限られているし、弱点を克服するのも限界がある。聖人にはなれないんだから。そう思って割り切ると、割と楽に生きられるよ。」と言ってくれた。その辺は倫子と似ているのかもしれない。だから二人は惹かれ合ったのだ。
「……駄目ね。私が我慢が出来なかったから。」
「我慢?」
「二人しかいない同僚だもの。うまくやっていこうと思ったのよ。」
 何の話をしているのだろう。伊織は少し不思議に思いながら、泉を見る。
「……倫子だったら叩いてでも、逃げるのかもしれないのに。」
「何かあったの?」
 すると泉は少しうつむいて、そして伊織を見上げる。
「店長が……急にキスしてきて……。」
「キス?」
 驚いた。何度か会ったこともあるし、今日もカフェへ行ってコーヒーを淹れてもらったばかりだ。背が高く細身で、そして左手の薬指に指輪があった。そんな男が泉にキスをしたのだろうか。
 泉には耐えれないことだったのだろう。倫子が不倫をしていてもいつか別れてくれると信じているようなのに、自分がその立場に立つと思っていなかったのだ。
「それで、黙ってされていたの?」
「嫌だったのよ。でも……。心配させたらいけないって思って、言うつもりはなかったんだけど。」
 だんだんと声が小さくなる。本気で嫌気が指していたのだ。
「泉。」
 キスだから、きっと黙っていてもわからない。しかし泉にとってそれは嫌な行為でしかないのだ。それがわかって伊織は泉の肩にそっと手で触れた。すると泉はビクッと体を震わせる。
「……伊織……あの……。」
 すると伊織は少しその肩方に置かれた手に力を込める。そして泉を引き寄せた。
「駄目……。」
「何で?」
「吐いたのよ。臭いに決まってるじゃない。」
 チーズ混じりの嘔吐物は、強烈な匂いがした。それを抱きしめられたくはなかったのだ。
「気にならないよ。」
「嘘。せめて歯を磨きたい。」
 その言葉に伊織は少し笑った。
「俺、そんなことで幻滅しないよ。それに今は歯を磨いたらさらに吐くかもしれないし。」
 体を少し離して、泉の顔を見る。さっきよりは顔色が良くなったようだ。
「せめて水を飲ませて。」
「そうだね。そうした方が良いかも。」
 伊織はそう言うと、一度泉を離して立ち上がる。
「大人しくしてて。」
 伊織はそう言って泉の部屋を出ると、風呂場へ行って洗面器を手にする。そして台所に行くとポットの中に水を入れ、コップとビニール袋をトレーに乗せる。本当はレモン水とかの方がいいのかもしれないが、そんな気の利いたものはここにはない。
 再び泉の部屋へ行くと、泉はもう布団の中で横になっていた。そして静かに寝息をたてている。おそらく伊織に告白したことですっきりしたのかもしれない。
 伊織はその寝顔を見て、少し笑う。テーブルに用意した物を置くとその横に座り、泉の寝顔をまた見た。無邪気な寝顔に、ふと昔のことを思い出す。
 あの暑い国にいたとき、大使館にあの女の子が両親とともに呼ばれたことがあった。両親同士が何か話しているとき、女の子ははしゃぎながら、ベッドで遊んでいるうちに眠ってしまったのだ。
 あのときの女の子と同じ顔だと思う。
 思わず伊織は泉の横に潜り込み、泉の体を抱きしめる。あのとき、あのことこんなことは出来なかった。しないうちに女の子は死んだのだ。さよならも言わないまま。
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