触れられない距離

神崎

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イワシの梅煮

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 予定していた仕事を終えると、翔はスタジオを出て行った。明日は休みにしている。響子の店も休みで、海斗が保育園へ行っている間に会う予定にしていた。正直後ろ暗いところがお互いあるだろう。それでも初めてデートのようなことをするのだ。嬉しくないわけが無い。
 ふとショーウィンドウに写る自分の姿が目に映った。ずっと着ているジャンパーは思えば少し重い。最近はダウンでも軽くて温かいモノもあるだろう。それにセーターは僅かに毛玉が付いている。大学生の時から来ているモノだから仕方が無い。
 少しは身綺麗にした方が良いだろうか。志甫はセンスが良い方で、服を買いに二人で出掛けたときには全身コーディネートをしてくれたくらいだ。翔はあまり興味が無かったので、言われたとおりに着ていたのだが新しいモノというのはどうもしっくりこない。ジーパンは更に違和感がある。買いたてのモノはゴワゴワするのだ。
 だが明日は少し身綺麗にした方が良いかもしれない。せめて遥人に勧められて足を運んだショップで買ったマフラーでも付けていこうかと思う。それからもう少しましなモノがあるだろう。
 そう思いながらまた足を進めていくと、今度はレコード会社の前を通った。沙夜はもう仕事が終わってしまっただろうか。時間は大した時間でも無いのに、周りが暗い。冬は日が暮れるのが早いのだ。
 きっと沙夜はここを出て食事のために買い物へ行ったりするだろう。前と違うのはたまには飲みに行ったりするのかも知れないが、進んで外で飲んだりはしないと思う。料理をするのが一番の息抜きだからだ。それから一馬との合作の曲を煮詰めるかもしれない。そのために一馬のスタジオへ行くのだろう。前ならそれでやきもきした。なのに今は何故かすっきりしている。もちろん不倫なのだから、応援は出来ない。自分だって相当責められたのだし、第一自分もまた間違いを犯そうとしている。自分のしようとしていることを置いておいて、他人を責められないと思ったのだ。
「翔。」
 声をかけられてそちらを見る。するとエレキベースを背負った一馬が出てきた。一馬はいつも冬に着ている革ジャンを着ている。一馬は服をあまり持っていないようだが、こういう高いモノを大事に着ているのだ。それにその革ジャンは一馬によく似合っている。
「一馬。ここに用事だったのか。」
「打ち合わせでな。」
 昼間は仕事を二件ほどこなし、そのあとにこちらへ来た。沙夜と共に作る音楽を配信限定でも良いからリリースしたいと言っているらしい。それは構わないが、その名目はどうするのか、どこの部署から出すのかなど内部のことまで話が及んでいる。だが沙夜はきっぱりと上層部にも言い放った。
「「二藍」ありきで進めていることですから、発売部署はハードロック意外にあり得ません。ユニット名も「二藍」が絡みます。発売をするのだったらそうしてください。」
 ジャンルはクラシックになるのかもしれないが、どんなジャンルにでも聞けるような曲調になっている。だからこそ上層部は少し迷っていたのかもしれないが、沙夜の気持ちはそうだったのだろう。もちろん一馬も一緒の気持ちだった。
「ふーん。そこまで思ってくれているのか。」
「しかし、俺は少し不安でな。」
「何で?」
 一馬も駅へ向かう途中なのだ。二人は並んでサラリーマンなんかと一緒に足を進めている。もちろん「二藍」の二人が居るだけで、行き交う女性が目で二人を追っているが声をかけるような野暮はほとんど居ない。この地域はそういう人も多いので、きりが無いというのもあるのだろう。
「「二藍」の名前を使うと言うことは、「夜」はお前じゃないかと言うことも言われるんじゃ無いかと思ってな。」
「それなら表に出てもおかしくないのに、わざと隠しているんだ。まさか俺が覆面で弾いているなんて思わないと思うけど。」
「それは身近だからそう思うだけだ。沙夜もお前にも迷惑がかかるんじゃ無いかというのを心配していたが。」
「前にも言われたよ。もし俺に「夜」の疑いがかかるんだったら、きっぱりと言っても良いと言ってくれてる。」
「何を?」
「俺が「夜」ならもっと音を足している。もっとシンセサイザーの良さを出しているってね。ピアノの独奏はしないから。」
「確かにそうだ。」
 そもそも翔と沙夜では音の作り方が違う。翔は音を加えようと思ったら別の音色を差し込むが、沙夜はピアノで何とかしようと思っているところがあり、それがピアニストとキーボーディストの違いかもしれない。
「で、決まったの?ユニット名。」
「まだだ。どっちにしても春にCMが流れる。それまでに決めておくからそこまで時間に余裕が無いわけでは無いし。」
 おそらく会社に呼ばれたのはどこの部署から発売するのかというところなのだろう。沙夜が一掃したが、会社にとっては面白くないかもしれない。
「クラシック部門からは出したくないって想ってたんだと思うよ。」
「俺もそう思う。」
 沙夜はクラシック部門で散々な目に遭ったのだ。部長はともかく、クラシックを生業にしている人も、そこで働く人も苦手としている。「変人」だと言われ、後ろ指をさされたのだ。それが手のひらを返したように持ち上げてくるのもいらつく原因だと言えるだろう。その辺が沙夜がはっきりしているところなのだ。
「で、今日は練習するの?」
「あぁ。」
「家は?」
「このまま海斗を迎えに行って、妻が帰ってきたら出る感じだ。」
「それだと終電で帰ることを考えると、あまり練習出来ないな。」
「泊まるときもある。ちゃんとスタジオはベッドもあるし。」
「ベッドがあるのか?」
 もしかしたらそこで沙夜と過ごしているのだろうか。そう思うと、少し複雑な気分になる。響子には仕事だと言っているのだろう。なのにそこで沙夜と過ごしている可能性があるのだったら、本当響子が不憫だと思ったからだ。
「寝るのは俺だけだ。沙夜は帰る。」
「あぁ。何だ……。」
 それもそうか。焦って損をした。だが翔は首を横に振って足を止める。その様子に一馬も気が付いて翔の方を振り返った。
「どうした。」
「一馬。あのさ……。二人きりで音楽をずっと作っているだけなのか。」
 その言葉に一馬はまたかと思って首を横に振る。翔だけには言わないで欲しいと沙夜が願っていたからだ。翔にばれれば絶対に芹にも伝わってしまう。それを恐れていたからだろう。
「それ以外何があるんだ。」
「一馬。もうそこまで誤魔化さなくても良い。沙夜は俺のことを知っているし。」
「お前のこと?」
「こんな公の場では言いたくないことだ。」
 前に翔は不倫をしていたと言っていた。中学生の頃。おそらくそれくらいの若い男が好きな女に引っかかってしまったのだ。それだけでは無く美人局に手を出していたらしく、家族も大変な目に遭っていた。その事を言いたいと思って、一馬は思わず黙ったが何も言わないというのもおかしいと思う。そう思って一言だけ言った。
「そうか。」
 一馬はそう言うと、翔の方を見ていった。
「……俺、応援は出来ないよ。」
「それでも良い。俺らもどちらが良いとかは言えないし。」
 つまり響子と沙夜とどちらが良いかなど言えないと言うことだろう。その中途半端さが翔をいらつかせる。だがそれは沙夜も同じ事だ。
「沙夜って一本筋が通っているように見えたんだけどな。」
 そう言って翔も足を進めると、一馬は首を横に振った。
「それはお前の勝手な幻想だろう。俺もそういうイメージがあったし、おそらく俺も周りからはそう思われていた。」
「奥さん想いで子供想い。家庭を一番大事にするって言うスタンスだろ?」
「あぁ。いつか……五人と沙夜と上層部で話をしたよな。プライベートのことを少し話せないかって。それを聞いたとき、俺は妻のことを真っ先に思った。」
 あの時には響子に隠したいことがあったし、これ以上響子を非難の目に晒すのは嫌だった。だからプライベートのことを話すくらいなら、「二藍」から距離を取りたいとまで言ったのだから。
「しかし、今は「二藍」を優先したい。妻には俺以外にも頼れる人がいるから。」
 その言葉に翔は驚いて一馬を見る。まさか翔と響子のことを一馬が気が付いているのかと思ったからだ。
「え?」
「真二郎さんがいる。オーナーも、従業員もいて、俺がいなくても響子の心の支えはあるようだ。家を引っ越したら尚更距離が近くなったように思えるし。」
 あまりにも家に居なかったからだろう。それが一馬を少し卑屈にさせていた。それは違うと言いたかったが、ここで翔の心に汚い部分が出てくる。
「……そっか。」
 このまま一馬と響子の心に隙間が出来れば良い。そして翔の方に響子が振り向いてくれれば良いと思っていた。
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