触れられない距離

神崎

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白菜の重ね蒸し

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 本当はオフィスだろうと何だろうと西藤裕太を責めるつもりだった。だが西藤裕太は外に出たまま直帰するという。その帰りに沙夜に話をしたいと、いつか芹とやってきたその居酒屋へ沙夜を呼び出した。
 沙夜も仕事を何とか終えて、電車に乗り込むと思わずため息を付く。いつも降りる駅とは違うし路線も違う。そこへ沙夜が行くことはあまり無かったが、西藤裕太が音楽で食べれるようになるまでバイトをしていた居酒屋なのだ。個室があり、裕太も信頼が置けるような居酒屋で、何より酒も食べ物も美味しい。しかし話の内容によっては、美味しい食事と美味しい酒が飲めるとは思えない。そう思いながら駅に着いて、電車を降りる。
 ホームから改札口を抜けてその居酒屋へは歩いて行ける。目の前にはスーパーがあり、切り花が三割引で売られていた。明日には枯れてしまい捨てられるかも知れないような花だったが、それでも売れようとして必死なのだろう。だが菊の花なんか今はいらない。墓参りをするわけでは無いのだから。
 そう思いながら居酒屋を目指した。周りはもう夜と言っても良いくらい暗い。冬の夜は早く暗くなるのだ。そう思いながら沙夜はその居酒屋への道を歩いていた。
 居酒屋へやってくると、この居酒屋はカウンター席やボックス席なんかもありそこでは家族連れなんかが食事をしているようだった。子供のはしゃぐ声とサラリーマン達の声が聞こえて、賑やかな雰囲気だと思う。それに暖房が効いていてとても暖かい。そう思って沙夜はコートを脱ぐ。すると店員がやってきた。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか。」
「あ。待ち合わせをしていまして。西藤という名前で個室が入っていませんか。」
 すると店員は受付台にあるタブレットから、その名前を見ていた。
「三名様で予約されている西藤様ですか。はい。ございます。ご案内しますね。靴はそちらに入れてください。」
 前に着たときにも靴は脱いでいた。なので今回もそうだろうと沙夜は靴箱に靴を入れて鍵を取る。そして居酒屋の中に入っていった。
 沙夜はどちらかというとOLになるのだろう。だがこの場に居るOLというのは、沙夜のようにスーツに身を包んだりしない。まるでそのままデートでも出来るような格好のように思える。化粧もバッチリなのだ。だが沙夜はそんなことを気にしていることは無い。それよりももっと大事なことがある。そう思いながら、沙夜は案内された部屋にたどり着いた。引き戸のその部屋を開けると、その個室にある上座に裕太の姿と下座には一馬がいる。二人はもう酒が入っているようで生ビールがもう半分ほど減っていた。
「お疲れ様です。もう飲んでいたんですか。」
「あぁ。泉さんも座って。あ、コートはそこにかけられるから。」
 ハンガーがかかっている。そこに沙夜はコートを掛けると、一馬の隣に座った。この場合は、裕太の隣に座るわけには行かないだろう。どちらにしても二人には言わないといけないことがあるのだ。だがまだ店員がいる。そう思って黙っておいた。
「桜井さん。注文ってタブレットだけだっけ?」
「そうです。私たちに言われると注文が混乱してくるので。私たちを呼ぶときには無料のお茶とか水とか氷とか、あとおしぼりとかだけですね。」
「昔と変わったね。わかった。あとで注文するよ。」
「了解です。」
 そういえば西藤裕太はここで働いていたことがあるのだ。勝手知ったる店ということだろう。
 店員が下がっていき、ドアが閉まると沙夜は口を尖らせて西藤裕太に言う。
「部長。何なんですか。あのメッセージ。」
「まぁ。その話は一度注文してからで良いかな。とりあえずビールでも飲む?それから突き出しは今日はなまこだよ。」
「なまこ酢ですか。」
 それだけで若干沙夜の怒りが収まっていた。頭に血が上るのも早いが収まるのも早いのだ。特になまこなんかは一人暮らしをしている沙夜にはなかなか作れないのだろう。外でしか食べられないものというのは、確実にあるのだから。
「部長。揚げ出し豆腐を頼んで良いですか。」
「良いよ。」
 壁にもおすすめが書かれている。それを見て一馬は言ったのだろう。タブレットは西藤が持っているのだから。
「刺身の盛り合わせと鳥の唐揚げとシーザーサラダを先程頼んでおいた。揚げ出しと、生と、泉さんはどうする?」
「えっと……だったら里芋のあんかけを。」
「わかった。じゃあ、とりあえずそれを注文しよう。ビールはすぐに来るから、それから話をしようか。」
 そう言って西藤は注文するという項目をタップする。すると本当にすぐ生ビールとなまこ酢がやってきた。沙夜はそれを受け取ると、三人でグラスを改めて合わせる。そしてビールを沙夜は口にすると一馬の方を見た。
「一馬。事情は知っているのかしら。」
「いや。西藤部長にスケジュールをチェックされて、今日は帰るだけだったら息子を保育園のお迎えのあとにでもこちらに来てくれないかと言われてな。」
「海斗君は実家に?」
「あぁ。酒を飲む用事があると言ったら、妻が実家の方へ迎えに行くと言ってくれて。それにしても何ですか。なんか気持ち悪いですね。おごってやるからこちらに来いなんて。」
「そんなことを言っていたんですか。」
 一馬は本当に何も知らされないままここへ来たのだろう。だが沙夜には西藤の意向はわかっている。
「沙夜は事情を知っているのか。」
 一馬は不思議そうに沙夜に聞くと、沙夜は少しため息を付いて言う。
「あなたのベースをCMの曲に使いたいとね。」
「曲を?ベースで曲を弾けと?」
「それも私のピアノと一緒にって事でね。」
 その言葉に一馬は思わず驚いて裕太を見た。そんな事情があったと思っていなかったからだ。
「ビールのCMの曲だよ。君たちが出演するわけじゃ無くて、北の方の国で活躍しているこの国のバレエダンサーで鳴神順大という男の人がでるんだ。君たちは音だけだから良いんじゃ無いかと思って受けておいたんだけど。」
「なんでそう言うことを……。」
 沙夜は思わずそう言って裕太を責めた。すると裕太はビールを一口飲むと、沙夜達を見る。
「君たちにも責任があるんだよ?」
 そう言われて思わず沙夜はドキッとした。なまこ酢を食べようとした手が止まったのだから。
「俺らに何の責任があるんですか。」
 一馬はそう聞くと、裕太は少し笑って言う。
「君たち、いつだったか「Flipper's」というライブハウスでベースとピアノを弾いたね?」
「あ……。」
 その言葉に沙夜は思わず言葉を失った。確かにあの時には芹のことで頭が一杯だった。それを一馬が気を利かせ、あのライブバーで楽器を弾かせてもらったのだから。確かにあの場は店員と演奏する二人だけでは無く、他の観客もいたのだ。それを見られたというのは計算外だったかも知れない。
「困るよ。特に一馬君。君はもうプロだって言う自覚が無いと。軽く弾いてしまったら、金銭にも関わっているんだから。」
「おっしゃるとおりです。すいません。自覚が無かったです。」
「いいえ。一馬。あなたは謝らなくても良い。」
 沙夜はそう言うと首を横に振って裕太に言う。
「一馬は気を利かせてくれたんです。あの時は私が、少し一杯一杯だったんで……。」
「だから人前で演奏をしたのだと?」
「そうです。あの……処罰なんかがあるのだったら受けます。」
 すると裕太は箸を持ってなまこ素にまた箸を付けた。
「だったらこの仕事を受けてくれるか。」
「それは……。」
「処罰だったらそうしてくれる?君たちが演奏をしたときに丁度その場にいた酒造メーカーとCMの制作会社の人間が、君たちを指名してきたんだから。」
 丁度その時、そのメーカーも新製品のビールのCMの曲を何にしようかと打ち合わせているときだったのだ。そのバレエダンサーがでてくれるのは決定しているが、その曲についてはどうするのかは白紙だったから。
 バレエダンサーが踊りやすいようにクラシックの曲にしたい。だがあまりにもクラシックの曲であれば視聴者の耳に届かない。だとしたらクラシックのクロスオーバーにしたいが、あまりにもかけ離れているモノでは困る。そう言っていたときに聞いたのが二人の音だったのだ。ぴったりだと思って声をかけようとしたのだが、あいにく二人は声をかけられるような雰囲気では無かったし、声をかけたとしても何か店員と話し込んでいた。
 そこで二人について調べてみたのだ。そしてやっと「二藍」であることなんかが知り、やっとオファーをかける事が出来た。つまり正攻法でこのCMの制作会社と酒造メーカーは話を付けたのだろう。
 それだけに沙夜は断りにくいかも知れない。だが沙夜には恐怖しか無い。人前に音楽をさらされるという恐怖だった。
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